1-2 黴菌拳

 黒い街並みは産業革命時代のロンドンのようだった。

 何かの映画を思い出す。

 尖塔の連なりが見える。

 建物がすべて黒い。

 それもそのはず。

 いまは深夜だ。

 

「何で、ぼくだけ……」


 両膝から崩れ落ちた。

 両手を地面についてタイルを叩いた。

 笑いながら。

 そのうち泣き声になった。

 咽び泣いた。

 家に帰りたい。

 

 炭酸の抜けるような音がした。

 ぼくの手から垂れる赤い粘液。

 指を擦り合わせて確かめた。

 保湿ローションみたい。

 それがとろんとタイルに落ちた。

 炭酸の抜ける音、その答えがわかった。

 タイルの表面が泡みたいになっていた。

 

「何だこれ」


 みんなが使っていたやつと同じ……?

 

 そのときだった。

 デスボイスみたいな叫びが聞こえた。

 ぼくは意識を奪われた。

 水溜まりを歩くような足音がする。

 路地のカーブの先。

 曲がり角。

 細い路地。

 ぼくは辺りを振り返り見た。


 最初に見えたのは剣先だった。

 海賊の映画に出てきそうなサーベルやカットラス。

 次にボディビルダーのような太い腕。

 ラバーエプロンをした巨漢の怪物が路地を曲がってくる。

 ぼくは声が出なかった。

 逃げないと──。

 立ち上がろうとした。

 ぴちゃ、とぼくの足が浅い汚水のたまりを踏んづけた。

 巨漢の顔がぴくっと動く。

 こちらを見た。

 目が合った。

 重たい足音がゆっくり近づいてくる。

 巨漢がぼくの方へ来る。


「ああ……」


 恐怖で足がもつれる。

 どうにか走った。

 路地先へ飛び込むように。

 怖い。

 夢の中みたいだ。

 足がおかしい。

 上手く走れない。

 

 巨漢が背中へ突進してきた。

 ぼくは路地を転がった。


 終わった──。


 死を悟っていたら呻き声がした。

 巨漢が片膝をついている。

 炭酸の抜ける音。

 巨漢の左肩の表面一部が泡状になっている。

 さっきのタイルと同じ?


「ぼくの手に、触れた……?」


 いまの内だ。





「ブッチャー?」


 八雲がエルミールの言葉をなぞる。


「なんですかそれ」

「旧市街を徘徊する化け物だ。腐敗病の罹患者りかんしゃのなれの果てさ」


 大聖堂内で力を披露していた生徒たちが手を止めた。

 紙の上部両端に灯る青い火──。

 それが“羊皮紙パピルス”全体を燃やして消えていく。

 室内が聞き耳を立てた。


「旧市街って旭川が行ったところですよね?」


 天使あまつかが退屈そうに。


「その通りだ、彼には悪いことをした……いや、仕方がない。まさか手が腐敗していたとは」

「それって旭川もブッチャーになるってことですか?」

「いずれはそうなるだろう」

「どんなやつなんですか、そのブッチャーって」


 明智が輪に交じる。


「新鮮な肉を求めている。見つかったら終わりだ。以前に街を守るため教会員を総動員した。倒せても、手傷を追えばこちらが次のブッチャーとなる。命がけだった。みんな仲間を失った」

「旭川くんはどうなるんですか」


 明智が訊いた。


「あいつの心配なんかしてんのかよ」


 八雲がほくそ笑む。


「悪いか?」

「別に」

「ブッチャーに狙われないかどうか、という意味か?」

「はい」

「もちろん遭遇すれば逃げられないだろう。しかし彼の場合、そもそも罹患している。あるいは、その方がいいのかもしれない」

「その方がいい?」

「ブッチャーに変身するのと、その前にブッチャーに殺されるのと、どちらがいいかという話だ」





 空に大きな丸時計が見えた。

 時計塔──イギリスのエリザベスタワーみたいだ。

 その真下に大きい両扉があった。


 扉を開け、倒れ込むように中へ走り込んだ。

 室内は木造の広間。

 薄暗い。


 デスボイスが背後から聞こえた。

 振り返るとあの巨漢が追いついていた。


「しまっ──」


 瞬間、巨漢の動きが止まる。


「まだ生存者がいたとわ」


 女の人の声がした。

 視界に貴族のような装束が写る。

 海賊のようなジャケットにも見える。

 その女性の背後で巨漢がばらばらに崩れ落ちるのが見えた。


「あ、ああ、ありがとうございます。助けてくださって」


 ぼくはハッとして口走った。


「その手、腐敗しているのか」


 綺麗な人だと思った。

 顔が見えづらい。

 海賊みたいな帽子を被っている。

 ツバの隙間から白い肌と銀髪が見える。


「楽にしてやろう」


 金属の弾ける音がした。

 

「え……」


 女の人が両手に剣を構えた。

 海賊のような、

 英国紳士のような剣を。


「待ってください、ぼくは……」


 ぼくは後ずさった。

 足がからまる。

 尻餅をついた。

 女の人が近づいてくる。

 一歩、また一歩と。


ぼくは地面を這う。


「無駄だ。腐敗から逃げることはできない。諦めなさい。ブッチャーになりたいのか」

「ブッチャー?……」

「止まりなさい」


 ぼくは立ち上がった。

 部屋を見渡す。

 いま入ってきた扉以外、扉が見当たらない。


「往生際が悪い」


 女が近づいてくる。

 剣の表面に月光が反射する。

 青い光。


「恨むならマリゼラースを恨みなさい。しかし貴公も女王の処刑に賛同した市民のひとりではないか」


 殺される。

 ぼくは身を翻した。

 背を向け、走ろうとした。

 と思ったら目の前に女の人が立っていた。


「誰一人としてこの罪から逃れることはできない。マリゼラースの囁きに耳を傾けた貴公らも同類ではないか。都合良しと考えたのだろう? なぜ善人ぶれる」


 いま後ろにいたはず。

 なのにぼくの前に立ってる。

 移動した? 音もなく?


 ぼくは後ずさった。


「く、来るな」

「これはフーリュネの呪いなのだ。彼女は決してわたしたちを許さない」


 瞬きをしたら女の人がいなくなっていた。


「ですよね、ルーヴェル先生……」


 耳元で艶のある声がした。


 背中にわずかな重さを感じた。

 急に力が抜ける。

 がくんと膝から崩れ落ちる。

 背中が熱い。


 薄暗くて見えづらい。

 ぼくの周りに何か黒い液体が広がる。

 多分、血だ。

 ぼくの。


 背後から足音がした。

 女の人がぼくの前に立った。

 剣先がぼくの顔へ向けられる。


「貴公、腐敗していながらよく立っていられるな」


 女がぼくを見下ろす。


「何で、ぼくばっかり……」

「貴公だけではない。他の罹患者も始末している。しかし、よくここがわかったな、それだけは褒めてやろう」


 女の人がペンと紙を取り出す。


「何か最後に望みはないか?──名は? 遠方に家族はいないか? 他の罹患者の分もここにメモしてある。言い残すことがあれば書き留めておく」


 教室で黴菌扱いされ。

 異世界に来ても黴菌扱いされ。

 ……腐敗?

 なんだそれ。


 コンロで着火したような音が聞こえた。

 緑色の光がぼくの顔に当たる。


「何、これ……?」


 紙が見える。

 ダンボール色の羊皮紙。


「何か言ったか?」


 女の人には視えてない?

 いつか理科の実験で見た火みたいだ。

 羊皮紙の上部両端に緑色の火が見える。

 文字が浮き出てきた。

 多分、日本語じゃない。

 だけど読める。


「……“【黴菌拳バイキング】”」


 瞬間、湯の沸騰するような音がした。

 ぼくの手から何かが溢れ出した。

 手首周りから先をコーティングする。


 女の人が気づいて距離を取った。

 ツバの先に驚いた目が見えた。


「何だそれは」


 体がだるい。

 熱い。

 背中が痛い。

 多分、もうすぐぼくは死ぬんだろう。

 でも異世界に来たんだ。

 魔法の一つくらい使ってから死にたい。


「ぼくの手に近づかない方がいいよ……菌が伝染うつるから」


 ゆっくり、ぼくは立ち上がった。


「貴公、ただの市民ではないな。何だそれは……腐敗なのか?」


 女の人は室内を歩きながら様子を見た。


「ブッチャーの新種か? 貴公、どうして立っていられる……どうでもいいか。駆除することに変わりはない」


 女の人の姿が消えた。

 音もなく。

 でも何か見えた。

 蛇行する残像がぼくに近づいてくる。

 

 最後の力を振り絞った。

 ぼくは右拳を残像へ突き付けた。

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