脈打つ機械

 世界がひとつになったとき、人類は戦争から解放される――そんな楽観的な予測が、あったらしい。


 国家が統合され、旧来の国境は地図から消えた。

 けれど、戦場は消えなかった。

 ただ、形を変えただけだ。


 軍の代わりに、巨大企業が互いに爪を立て合う。陸軍や海軍の紋章の代わりに、企業ロゴが戦術ホログラムに浮かぶ。

 戦線は国境線ではなく、都市の地下にある研究施設や、雲上の軌道エレベーター、そして企業が抱え込む研究者や特許の所有権になった。


 神経接続とサイボーグ化は、ごく当たり前のインフラになっていた。

 筋繊維をカーボンナノチューブで置き換え、骨をチタンフレームにし、内臓をセラミックと再生医療のハイブリッドにする。戦場に出る兵士は、生身のままでいるほうが珍しい。 


 その中で、私は異物だった。


 身長百九十センチ。アジア系の女。骨格だけがやたらと欧米サイズで、研修時代はよく「兄ちゃん」と呼ばれた。けれど、胸を触られてからかわれた相手の肘を折って以来、誰もそうは呼ばなくなった。


 私は、自分の肉体に執着があった。

 正確に言うと、「壊れやすさ」に執着していた。 


 痛覚があるということ。

 筋肉が震えるということ。

 疲労すれば手が震え、極限まで張り詰めれば、呼吸が浅くなるということ。


 それは銃の精度を落とし、反応速度を鈍らせるデメリットでしかない、と多くの者は言った。けれど私の中では、それらはすべて「限界を測るためのメーター」だった。


 私は、どこまで自分を追い込めるのか。どこまで耐えられるのか。


 その境界を知ることに、ほとんど病的な興味があった。


 結果として、私はサイボーグ化をぎりぎりまで拒否した。

 神経系の電脳化だけは、仕事のために受け入れた。脳内にインターフェースを組み込まなければ、現代戦において連携も情報処理もままならない。


 けれど、骨も筋肉も皮膚も、内臓さえも、すべてオリジナルのままだった。再生医療のおかげで、多少の損傷は修復されてきているが、人工物に置き換えられた部分は、ひとつもない。


 傭兵としてそれは異常だったが、私はその異常さを武器にしてきた。


          *


 私がいま所属している企業、「ハイライン・システムズ」は、旧アメリカ発祥の超巨大複合体企業だ。軌道エレベーターから量子暗号通信、農業ドローン、娯楽用VRまで、手を出していない領域のほうが少ない。


 中でも中枢事業のひとつが、ナノテクノロジー研究だった。


 微小構造を自在に組み替えるナノマシン。

 自己修復する素材。

 細胞単位で機能を拡張する医療用ナノボット。


 それらは軍事転用されれば、戦場のルールを簡単に書き換えてしまう。だからこそ他企業は、それを狙う。研究データを、研究者を、そのまま「資産」として奪い取る。


 私はその資産を守るために、ここへ呼ばれた。


 ハイラインに入る前、私は四つの傭兵組織を渡り歩いていた。

 どこでも役割は同じだ。狙撃兵。


 遥か彼方から、望遠レンズ越しに人の生死を切り替えるだけの、冷たいスイッチ。そう言われればそうだ。 


 けれど、私にとってそれは、ひとつの計測でもあった。


 ――どこまで、自分の心は耐えられるのか。


 遠距離からの殺傷は、近接戦闘に比べれば心理的負担が少ないと人は言う。顔が見えないから。肉の感触が伝わらないから。


 だが、私の脳はすべてを記録していた。

 熱源センサーに映る人影の形、風に流された呼気の軌跡、トリガーを引く直前の微かな躊躇。引いたあとに横たわる静寂。


 四社目の傭兵組織で、定期検診の一環として精神科医の診断が義務づけられた。そこで私は初めて、「極端な忍耐力と精神的耐久性を持つ」と評価された。


 医師は、褒めているのか、警戒しているのか、自分でも分からないような顔で言った。


「あなたのストレス耐性は、統計上の特異点レベルだ。普通ならトラウマになる状況を、あなたは『次に活かすためのデータ』として処理している。……そのうち、処理しきれなくなる日が来るかもしれないがね」


 その診断レポートが、ハイライン・システムズのスカウトの目に留まったのだと、

あとで聞いた。


 彼らが欲したのは、確実に仕事を完遂できる兵士。

 どれだけの、どんな圧力をかけられても、折れない精神。


 そして、できれば生身であるほうがよかった。ナノテクノロジーによる再生医療や補綴技術のテストベッドとしても使えるからだ。企業側のその計算もよく分かっていた。


 私は条件を確認し、ギャラを見て、契約書にサインした。


 戦場は、変わっても、なくなりはしない。

 ならば、その変化を最前線で見るのも、悪くはない。


          *


 ハイラインに入ってから、最初の数ヶ月は肩慣らしの任務が続いた。


 研究者の移送護衛。

 地方都市にあるデータセンターへの脅迫メールの出どころを割り出す調査作戦。

 同業他社が雇ったサイバーテロリストの拘束。


 どれも短期で終わり、死者も出なかった。こちら側も、向こう側も。

 平和な仕事だと、同僚は笑っていた。


「お前みたいなのを前線に置いておくのは、もったいないなぁ」


 チームリーダーのジョナスが、缶コーヒーを片手に言った。見た目は三十代半ばくらいだが、実年齢は誰も知らない。筋肉の線があまりにも整いすぎていて、生体か義体かも判別しづらい。


「狙撃なんて、今どきAIドローンで済むだろう。人間はもっと指揮官や戦術解析に回すべきだってのが、最近の潮流だぞ」


「そのAIドローンの目に映ってるものを、解析してるのも人間でしょう」


 私は読みかけのレポートをスクロールしながら答えた。


「ラグ(遅延)と、未知のパターンに対して補正をかけるためにね。だったらその判断を下す人間は、できるだけ現場に近いほうがいい」


「電脳越しでも現場だろ」


「風の匂いまでは、送ってこない」


 ジョナスは笑った。


「ロマンチストめ」


 ロマンチスト――。自分がそんなふうに呼ばれるのは、どうにもしっくりこない。私はただ、情報と感覚のレイヤーが増えるほど、判断は精度を増すと信じているだけだ。


 電脳リンク越しの俯瞰図と、生身の五感。

 どちらか一方ではなく、両方を同時に扱えることが、私の強みだと分かっていた。


 その強みが、本当に必要とされる任務が回ってきたのは、入社からちょうど八ヶ月目のことだった。


          *


 任務通達は、深夜二時三十七分に届いた。

 睡眠モードに入っている脳を優先度フラグが叩き起こし、視界に淡い青のインターフェースを浮かび上がらせる。


《機密レベル:レッド》

《任務コード:ANT-97》

《ブリーフィング開始まで:T-00:23:42》


 私はベッドから上半身を起こし、しばらく天井を見つめた。

 その二十三分と四十二秒のあいだに、心拍数を平常に戻し、眠気を完全に追い出し、身体の状態をチェックする。


 血中ホルモン値、筋肉疲労度、微細な震え。

 電脳のサブプロセッサがそれらを数値化して提示してくる。


 問題なし。


 私はシャワーを浴び、黒のコンプレッションウェアを身にまとい、ロッカーから装備一式を取り出して携行ケースに収めた。


 ブリーフィングルームには、すでに七人が集まっていた。

 私を含めて八人。それが今回の作戦チームだ。


 見知った顔もいるし、初めて見る顔もいる。


 ジョナス。

 爆発物処理と強襲を兼ねるストーム。

 電脳戦のスペシャリストであるレミ。

 重装甲歩兵の双子、マルコとミゲル。

 医療担当のシンディ。

 そして、私と同じく狙撃適性を持つが、今回は前衛サポートに回るという青年、ユーゴ。


 壁一面のスクリーンに、衛星写真と立体モデルが映し出される。海に面した沿岸地帯。緑地の奥に、白い直方体をいくつも組み合わせたような建物。


「ここが、ターゲットじゃなくて守るべき場所ってのがややっこいよなあ」


 ストームがぼやいた。


 ジョナスが前に出て、インターフェースに触れる。

 施設の一部が拡大され、内部構造が透けて表示された。


「これがハイライン本社直轄のナノテクノロジー研究施設ヴェール・ラボだ。正確な場所は、いま表示されてる座標とは少し違う。外部からの衛星観測に対して、ダミー情報を重ねてあるからな。正規座標については、ここにいる全員の電脳に今、この瞬間にアップデートされる」


 ジョナスの声色がいつもより低い。機密レベルの高さが、そのまま緊張感になっていた。


「さっき、本社セキュリティに匿名のタレコミが入った。内容はこうだ――《三時間以内に、この施設を襲撃する部隊がある。攻撃者は、他企業に雇われたフルサイボーグのロボット傭兵。目的は研究データの奪取と、主任研究員の拉致》」


 シンディが眉をひそめる。


「内部からのリークって可能性は?」


「現時点では不明だ。だが、タレコミの内容には、施設の内部構造、警備の配置、指紋認証のアルゴリズムまで含まれていた。少なくとも、社員レベルのアクセス権を持っているやつだろう」


 レミが手を挙げる。


「タレコミ元のトレースは?」


「同時に八十ヶ国のプロキシを経由していた。完全な自動生成ルートだ。わざと追えないようにしている。本社の解析班が全力で追ってるが、時間内には割り出せないと見ていい」


 ジョナスは表示を切り替えた。


 施設の周囲の地形データ。海沿いの崖、森林、わずかな高低差、その全てが高精細なポリゴンで組み上げられていく。


「敵は一分隊四人の、三分隊構成。合計十二。全員が最先端のフルサイボーグだ。ボディはマテリアル迷彩対応。地形と背景に合わせて保護色がリアルタイムに変化する。武器は完全消音サプレッサー付きの大口径アサルトライフルに、各種ハイテク装備……企業名までは出てないが、おそらく中堅どころの『サイアクティヴ』か『ブラックスパー』あたりが雇ったんだろうと言われている」


 フルサイボーグ――完全に人工の身体を持つ兵士たち。痛覚や恐怖心は必要最低限まで削られ、戦闘効率のためだけに設計された存在。いわばロボットみたいなもの。


 私とは、対極にある。


「彼らの優位は、耐久性と出力と光学迷彩だ」


 ジョナスが続ける。


「だが、我々には地形と施設内部の詳細情報がある。そして――」


 彼の視線が、私に向いた。


「優秀な狙撃手と分析官がいる」


 視線が集中した。私は肩をすくめる。


「プレッシャーをかけないでくださいよ」


「かけなきゃやる気出ないタイプだろ、お前は」


 ジョナスは軽く笑ったが、その目には冗談っぽさは薄かった。


「カヤ、お前の役割は二つだ。ひとつはいつもどおりの狙撃手。施設外周の高所に陣取って、接近してくる敵を可能な範囲で減らす。もうひとつは、分析官としてのリアルタイム戦術支援だ」


 表示が切り替わる。私に割り当てられた装備リストが並ぶ。


 熱遮断機能付き迷彩スーツ。衛星からのリアルタイム映像とリンクする、神経接続型バックパックユニット。敵ドローンジャミング装置。


 対サイボーグ用の五五口径狙撃銃、完全消音サプレッサー付き、通常の人体なら、胴体に一発入れば上半身と下半身がきれいに分かれる威力だ。


 脳波リンク型の超小型インセクトドローン八十機。虫のようなサイズだが、熱源と振動を感知し、簡易マイクとしても使える偵察ツール。


 サブウェポンは、ハンドレールガン。磁場を使って金属弾を加速する小型兵器で、連射速度は自由に調整可能。


「敵は光学迷彩で姿を消すが、熱遮断はしていない」


 ジョナスが言う。


「理由は単純だ。熱を逃がさないと、フルサイボーグの出力が落ちるからだ。だから、お前のインセクトドローンと衛星の赤外線画像が鍵になる」


「了解しました」


 私は短く答えた。


 脳内に、すでに地形データと施設の見取り図が同期されている。瞼を閉じれば、そこに自分の立ち位置と、想定される敵の侵入ルートが重ね合わせられる。


「質問は?」


 ジョナスの言葉に、ユーゴが手を挙げた。


「敵の指揮官についての情報は?」


「それがな……」


 ジョナスはほんの一瞬、ためらいを見せた。


「かなり絞り込めてはいるが、まだ確証が取れていない。フルサイボーグ傭兵部隊に、あそこまでの装備を提供できる企業は限られている。その中で、こういう作戦を好んでやる指揮官は……」


 表示が切り替わった。


 そこに映し出された名前と顔を見た瞬間、私は背中の筋肉がわずかに硬直するのを感じた。


 アラン・ドレイク。


 四つ目の傭兵組織にいたときの、私の上官だった男。部隊長、元軍人でサイボーグ技術がここまで一般化する前から特殊部隊に所属していたという、古い世代の戦闘屋。


 彼の戦い方は、いつも徹底していた。敵に選択肢を与えず、じわじわと包囲網を狭め、最後は逃げ場をなくしてから一気に叩き潰す。冷徹というよりは、精密機械のようなやり方。


 同時に、部下の命を無駄にしない男でもあった。


 私が彼の指揮下にいた頃、私の狙撃位置が敵にばれかけたことがあった。撤退命令が出たが、私は撤退ルート上に敵の射線があると判断し、位置を変えなかった。


 そのときアランは、遠隔回線越しに怒鳴りつけたあと、即座に状況を理解してくれた。


『なら、そこにいろ。残りは俺がやる』


 彼は自ら前に出て、敵の注意をすべて引きつけた。おかげで私は生還し、任務も成功した。


 だからこそ、私は今でもアランを「信頼できる上官」として記憶している。


 その男が、今度は敵として現れる。


「……確証は、まだないんですよね」


 私は確認した。


「ああ。服役中になってるはずだしな」


 ジョナスは肩をすくめる。


「二年前、彼の部隊が起こした“あの事件”以来、公式記録上は彼はどこにもいない。だが、サイボーグ化が進んだ今の世界で、一人の人間の存在を完全に消すことは難しい」


 私は、唇の内側を噛んだ。痛みが、意識を現実に引き戻す。


「もし本当に彼だった場合、油断は禁物だ。敵の戦術パターンを知っている分、こちらのクセも読まれている」


「了解しました」


 たしかに、私はアランのやり方をよく知っている。

 だが逆もまた、真だ。


 彼は私のやり方も、よく知っている。


          *


 ヘリが、《ヴェール・ラボ》に到着したのは、タレコミから二時間後だった。


 施設は海に向かって開けた崖の上に建っている。水平線の彼方に、発電用の洋上風車群が並んでいるのが見えた。風は強く、塩の匂いが混じっている。


 夜間だが、施設の外周は薄い白色光で照らされている。ここは、本社直轄の施設だ。見せびらかすこと自体が、抑止力になる。


 私たちはすぐに内部セキュリティチームと合流し、敵の侵攻ルートを想定してポイントを押さえていく。


 ジョナス、双子のマルコとミゲル、シンディ、ストームは施設内部と外周の防衛に。

 レミは中央管制室に入り、施設のドローン群と監視カメラを掌握。

 私は、施設から少し離れた森林地帯の高台に陣取った。


 背中のバックパックユニットから伸びるケーブルが、迷彩スーツの内側を這う。電脳リンクが衛星との接続を確立すると、視界の端に俯瞰視点が重なって表示された。真上から見た施設と、その周囲の地形。リアルタイムで更新される熱源情報。


 私は狙撃銃を組み立てながら、インセクトドローンの起動シーケンスを脳内で走らせた。


 八十機の微小ドローンが、金属ケースの中で微かに震える。蓋を開けると、彼らは一斉に夜の空へ飛び出していった。視界の端に、小さな光点としてそれぞれの位置が表示される。


(散開。高度三メートルから十メートル。移動速度は時速五キロ以下。音は立てないで)


 脳波で命令を送ると、それぞれがわずかに軌道を変えた。ドローンに搭載された簡易カメラからの映像が、私の意識のサブレイヤーに流れ込む。


 森林の暗がり。

 湿った土。

 風で揺れる木の葉。


 迷彩スーツの熱遮断機能が起動し、私の身体から出る熱が周囲の空気へ均等に散らされる。これで赤外線センサーには「不自然な点」として映りにくくなる。


(何回やっても、これだけは身体が慣れない……)


 熱が奪われる感覚に、細胞が身構える。寒さとは違う、もっと根源的な恐怖に近い感覚。


 人間の身体は、本来自分の熱を手放したくないようにできている。けれど戦場では、その本能は邪魔でしかない。


 私は腹式呼吸を意識して、脳内メトロノームのテンポを一定に保つ。


 衛星からのデータ更新。施設周辺の熱源表示に、大きな変化はない。


「こちらカヤ。外周熱源、異常なし。施設内センサーとの突き合わせ、どう?」


 電脳リンク越しにレミへ問いかける。


『今のところ、内側もクリーン。セキュリティドローンも全機稼働中。鳥も少ないな。風が強いせいか?』


 レミの声が頭の中に直接響く。音声として再構築されているが、その実は電気信号のやり取りだ。


「風に乗って飛ぶには、ちょっと強すぎるかもね」


 私は応じながら、狙撃銃のボルトを引き、弾倉を挿入する。五五口径の黒い弾が、重さを主張している。射程、貫通力ともに申し分ない。対サイボーグ用にチューニングされた弾頭は、装甲材の内部で微細な爆縮を起こし、内部構造を破壊する。


 ターゲットは人間でなく、機械に近い。それでもそこに宿っている「何か」を壊す行為に変わりはない。


 視界に、ジョナスからの共通チャネルが開いた。


『全員、状況報告』


『こちらジョナス。施設南側外周、防衛ライン構築完了。内部セキュリティと連携確認。異常なし』


『マルコ。東側外周、異常なし』


『ミゲル。西側、同じくクリア』


『シンディ。医療ユニット待機位置への設置完了。救命ドローンも準備オッケー』


『ストーム。北側資材搬入口に地雷と障害物を設置。いつでも迎え撃てるぜ』


『レミ。内部監視網、全系統正常。外部からの侵入試行も今のところなし』


 最後に、私だ。


「こちらカヤ。外部高台にて陣取り完了。インセクトドローンは周囲半径六百メートルに展開中。熱源・音響とも異常なし」


『よし』


 ジョナスの声が静かに言った。


『敵の侵攻まで、あと約四十分と想定されている。だが、タレコミが真実かどうかも含めて、まだ分からん。油断はするな。だが、過度な警戒で消耗もするな』


 私は頷いた。


 警戒状態の維持は、それ自体が負荷になる。筋肉をいつでも動かせるように張り詰めておくと、乳酸が溜まり、感情の振れ幅も大きくなる。


 私は、全身から力を抜く方向で維持する。ちょうど、眠る前のような脱力を保ちながら、意識だけを研ぎ澄ませる感覚。


 幾度も繰り返してきたやり方だ。


          *


 最初の兆候は、インセクトドローンのひとつからだった。


 森林の中を、低速で飛んでいた一機が、突然「何も映らなくなった」。


 映像がブラックアウトしたわけではない。カメラ自体は生きている。だが、視界の一部に「穴」が開いたように、そこだけ情報が欠落している。


(……ジャミング? いや、違う。これは――)


 私は瞬時に推測し、コマンドを送る。


(ドローンNO.12、進行方向を逆転。高度を二メートル上げて)


 視界が切り替わり、別のドローンからの映像が広がる。NO.12の位置を、俯瞰図で捕捉。そこへ向かって、別ルートからNO.21を接近させる。


 やはり、同じように「穴」がある。


 そして、その穴の形状が、わずかに変化した。


 人間の肩幅くらいの幅が、すっと横へスライドする。木の幹の影に溶け込むように。


(……光学迷彩)


 私は即座に全員にチャネルを開いた。


「カヤから全員へ。森林地帯、施設から北西四百三十メートル地点に、光学迷彩を使った熱源遮蔽が一。インセクトドローン二機が信号の歪みを確認。移動速度は時速十キロ。人間の歩行速度相当。敵と見て間違いない」


『来たか』


 ジョナスが息を吐く音が聞こえた。


『数は?』


「今のところ一。だけど、光学迷彩を完璧に扱える連中なら、隊列を横に広げてるはず。あと三はいると見ていい」


 私は衛星画像にその位置をマーキングし、周辺の熱源分布との相関を計算する。


 赤外線では、まだ目立った変化はない。敵は自身の表面温度を周囲の空気と合わせている。だが、その「均一さ」こそが異常だ。自然環境はもっとランダムで、ムラがある。そこに走る一本の「線」が、不自然なまでに滑らかに動いている。


「推定ルートを送る」


 私は脳内のイメージを戦術マップに書き込み、全員に共有した。赤い線が、木々の間を抜け、崖沿いの獣道を通って、施設北側の資材搬入口へと続いていく。


『ストーム』


 ジョナスが呼ぶ。


『お前の位置、ちょうど奴らの侵入ルートだ』


『望むところだ』


 ストームの声が低く笑った。


『カヤ、距離は?』


「今、私の位置から八百五十。射程圏内だけど、光学迷彩の屈折率が分かってないから、偏差の計算が難しい」


 光学迷彩は、光を曲げることで姿を消す。ということは、その屈折率とフィールドの厚みを知らなければ、狙撃弾が通過するときに少し軌道が変わる可能性がある。


『一発、試すか?』


 ジョナスが問う。


「……いいえ。まだ距離がある。もう少し近づいてもらってからのほうが、外したときのリスクが少ない。こっちに気づいてないなら、ストームの地雷のほうが有効です」


『了解。ストーム、ただし接近を許しすぎるなよ』


『おうよ』


 ストームの意識が、僅かに高ぶるのが伝わってくる。戦闘前のあの独特の高揚。私はそれを横目に、あくまで冷静に情報を整理し続けた。


 インセクトドローンたちは、敵の進路の周囲を囲むように配置し直す。敵の動きは慎重だが、迷いはない。まるで、この地形を事前に知っていたかのように、最適な道を選んで進んでいる。


(やはり、内部情報が漏れている……)


 私はその事実を心の片隅に置きながら、別のレイヤーで思考する。


 ――アランなら、どう動く?


 彼の戦い方は、いつも多層構造だった。正面からの強襲、迂回、撹乱、電脳戦、心理戦。ひとつでも抜けるとそこから崩される。


 北西から一部隊。フルサイボーグ四。


 残りの二部隊は、どこから来る――。


「レミ」


 私は呼んだ。


「外部からの通信状況は?」


『ノイズが少し増えてる。どこかで広帯域の何かを使ってるな。でも、この距離と風なら、敵のものかどうかまでは判別できない』


「施設の対ドローン防御を、局所的に絞ってみて。東側と南側に、わずかに穴を作る」


『おい、わざと穴を?』


 レミが目に見えて驚く。


「うん、そこを通ってきたら、その瞬間に閉じる。あと……衛星の解像度を、一時的に落としてもらえる?」


『何考えてる?』


「アランなら――いや、仮にアランじゃないにしても、優秀な指揮官なら、必ず『敵の目が行き届いていない場所』を探す。完璧な防御より、微妙な隙のほうが、罠っぽく見えないから」


 レミは短く黙り込み、やがて息を吐いた。


『……了解。東側と南側のセンサー網に、ノイズを少し乗せておく。衛星解像度も一段階落とすが、その間カバーできるか?』


「できる範囲でやる」


 私は狙撃位置を少しだけ変える。絶対に見つからない完璧な場所より、わずかにリスクがある場所に身を置いたほうが、狙撃の初動は取りやすい。


 視界の中で、敵の一部隊がストームの地雷原に近づいていく。


『ストーム。距離、あと五十』


 私が告げる。


『聞こえてる。カヤ、お前からのトリガーで起爆できるようにしておく。タイミングを頼む』


「了解」


 私の視界に、地雷の埋設位置が表示される。ストームが事前に送ってきた座標データだ。


 敵の光学迷彩が、その上を通り過ぎていく。


(まだ……)


 私は息を止める。心拍が一瞬だけ遅くなる。


 敵が隊列を少しだけ崩し、二人目が地雷の上に足を乗せた瞬間――。


(今)


 脳波で起爆コマンドを送る。


 爆発は、ほとんど音を立てなかった。対人用ではなく、対装甲用の成形炸薬だ。爆風よりも、金属ジェットを一点に集中させる。


 夜の闇が、一瞬だけ白く光る。


 光学迷彩が、その瞬間だけ破れて、内側の金属骨格が露出した。


「二ダウン、一重傷、一生存!」


 私は即座に叫んだ。


 地雷の直撃を受けた二体は、その場で立ち上がれない。一体は脚部のみ吹き飛んだようだが、残りの上半身は健在。もう一体は辛うじて避けて、転がるように前方へ飛び出した。


 光学迷彩が完全に崩れ、グレーの装甲スーツが露出する。その動きは、人間のそれを遥かに超えて速い。


(今のは、おそらく先行偵察。残りの三人は後方に下がってる)


 インセクトドローンたちが、木の枝の間からその様子を捉えていた。


 私は転がった一体に照準を合わせる。距離四百二十。風速六メートル。湿度高め。


 呼吸を止める。トリガーを引く。


 五五口径弾が、サプレッサーを通って、ほとんど音もなく夜の中へ飛び出した。


 コンマ数秒後、その弾は敵サイボーグの胸部を貫通し、内部の動力ユニットを破壊した。装甲表面には小さな穴しか開いていないが、その中でナノマシンの洪水が暴れまわり、組み上げられた構造を逆に崩壊させていく。


 一体、完全沈黙。


『ナイスショット』


 ストームの声が飛ぶ。


『残り二、こっちに来た。ようやく遊べる』


「無理するな。あくまで遅滞戦闘。施設までは通すな」


『分かってるさ』


 ストームの意識が、次の瞬間、急激に加速していった。彼は近接戦闘を好む。筋肉の代わりにカーボンフレームが軋む音を、楽しんでいる節すらある。


 私は彼のチャネルを一旦ミュートし、他の方向に意識を拡げた。


 ――東側。


 衛星の解像度を落とした側だ。


 一見、何もない。風で草木が揺れているだけだ。


 だが、その揺れが一箇所だけ、不自然に少ないところがあった。


 そこだけ、風の強さに対して、葉の揺れが「弱い」。


(そこに何かが、風を遮っている……)


 私はインセクトドローンを三機、そこへ向かわせた。


 数秒後、ドローンNO.36が微弱な振動を感知した。人間の足音とは少し異なる、金属の接地音。


「東側にも一部隊。距離、施設外周まで二百。光学迷彩で接近中。四体」


 即座に報告する。


『来たか』


 ジョナスの声が、少しだけ低くなる。


『マルコ、ミゲル。そっちはお前らの担当だ。準備は?』


『『いつでも』』


 双子の声が重なった。


 私は衛星からの俯瞰図と、インセクトドローンからの情報を重ね合わせる。敵の動きは、驚くほど統制が取れていた。細い樹木の間を抜けるときも、隊列が乱れない。誰かが指示を出しているのだとしたら、その指揮系統は非常に強固だ。


(アラン……あなた、どこにいるの)


 私は、中央から全体を俯瞰しているかのような視点を想像しながら、自分自身をその位置に置いてみる。


 北西から一部隊、すでに交戦中。

 東から一部隊、接近中。


 残り一部隊は、おそらく南側か、西側から来るはずだ。だが――。


「レミ、南側と西側に不自然な熱源変化は?」


『南側、海のほうから来る熱源が一つ。小さめのボートだ。無灯火、速度は遅い。人かどうかはまだ判別できない』


「それだ。高度を変えたドローンを向かわせて。波の影、よく見て」


『了解』


 数秒後、レミが短く息を呑む音が聞こえた。


『ボートの周囲に、熱源が……ない。完全に冷たい。ボートだけが、わずかに波との摩擦で温まっている』


「潜水型の強襲ユニットか」


 私は言った。


「水中を通って、崖下に取り付く気だ。南側の防衛ライン、見直しを」


『シンディ』


 ジョナスが呼ぶ。


『医療ユニットの位置を少し上に上げろ。南側に穴を空けないように』


『了解』


 戦場の全体図が、少しずつ塗り替えられていく。


 北西――ストームが交戦中。

 東――マルコとミゲルが待ち構えている。

 南――水中から接近する敵部隊。


 そして、おそらく西側には、まだ何も動いていない「何か」がある。


(本命はどこだ)


 タレコミの内容を思い出す。目的は、研究データの奪取と、主任研究員の拉致。


 ならば、敵は必ず内部に侵入してくる。外周での戦闘は、あくまで通過点だ。


 私たちはその通過点を、できるだけ狭める必要がある。


『ストーム。状況は?』


 ジョナスの問いかけに、ストームが荒い息を混じらせて答える。


『二体沈黙、一体逃走中。こっちの義手が少し持ってかれたが、生きてる』


『追わなくていい。退路を断てればそれでいい』


『了解』


 私はストームの位置に照準を向ける。彼の近くを走り去る熱源を一つ確認した。脚部の動きが不自然だ。地雷の破片を食らったか、爆風でサーボがズレたのか。


 その背に、一発。


 五五口径弾が、逃走中のサイボーグの背中を撃ち抜く。装甲板の間を抜け、脊髄に相当する制御ユニットを破壊した。


「北西、一部隊全滅」


 私は告げる。


 その瞬間だった。


 視界の端で、何かが小さく点滅した。


 施設内部に設置されているバイタルセンサーの一つが、急激な変動を示したのだ。


「……内部に、何か」


 私は表示を拡大する。


 そこには、人間のバイタルパターンとは少し異なる波形があった。心拍でも呼吸でもなく、何か別の周期的な振動。


『レミ』


 ジョナスが問う。


『内部侵入か?』


『センサーの誤作動かと思ったけど……違うな。南側地下のメンテナンスシャフトに、微弱な電磁パルスが走ってる。何かが、内部から外部センサーを騙そうとしてる』


「内部から?」


 私の中で、ひとつの可能性が浮かび上がる。


 ――すでに、何者かが内部にいる。


 タレコミは、陽動だ。


 外から三部隊が襲撃してくるという情報は本当だろう。だが、それはあくまで外側の視線をそっちに向けるためのもの。真の侵入者は、もっと前の段階で入り込んでいた。


 内部の社員。

 あるいは、メンテナンス業者か何かを装ったサイボーグ。


「レミ。内部の全ドアロックを一時的に解除して。三十秒だけ」


『はあ!?』


「その間に、異常な動きをする開閉を検知する。閉じてるはずの、動くはずのないドアが動いたら、そいつが侵入経路」


 レミは、わずかに沈黙したあと言った。


『リスクが高い。敵がそのタイミングを狙ってたら――』


「狙ってなくても、あと十五分もすれば内部突入が始まる。だったら、こちらの都合で動かすほうがいい」


 私は淡々と告げた。


 沈黙のあと、レミが決断する。


『……了解。内部ドアロック、一斉解除。カウント開始』


 視界に、施設内部のドアマップが表示される。数百の扉が、一斉にロック状態から通常モードへ移行していく。


 最初の五秒、何も起きない。


 十秒目で、四つの扉が開く。同時に閉じる。これは警備員たちの確認動作か。


 十五秒目で、廊下に面した非常口が一つ開き、すぐ閉まった。風圧の変化か。


 そして――二十二秒目。


 地下二階のメンテナンスルームにある、普段は誰も通らないはずのハッチが、一つだけ開いた。


 開いたあと、そのまま開きっぱなしだ。


『……見つけた』


 レミが呟いた。


『地下二階、セクターD-7。メンテナンスシャフトのハッチが一つ、開いたまま戻らない。周囲のセンサーが一瞬、ノイズを吐いた』


「そこに、誰かいる」


 私は言った。


「そこが、本命だ」


          *


 状況は、一気に忙しくなった。


 東側から接近する敵部隊は、マルコとミゲルの重装甲ユニットとの交戦に入った。金属と金属がぶつかり合う音が、電脳越しに伝わってくる。


 南側から潜水ユニットで接近していた部隊は、崖下に取り付いていた。その位置からなら、施設の基礎構造に穴を空けて侵入できる。


 そして、その内部では、すでに何者かがメンテナンスシャフトを通って深部へ向かっている。


 情報量が、一気に増える。


 私は視界の中で情報のレイヤーを整理する。優先度の高いものだけを前に出し、低いものは透過度を上げる。


(複数戦場の同時管理。アランなら、喜んでやる)


 皮肉なことに、私は今、彼が得意としたやり方をなぞっている。


『ジョナス』


 私は呼びかけた。


「内部侵入者への対処、誰を回します?」


『……お前だ』


「私?」


『狙撃位置を捨てろ。今のところ、北西の脅威は潰した。東と南は、他のメンバーで持ちこたえられる。内部で何かが起きたとき、最初に「それ」を察知できるのは、お前しかいない』


 私は一瞬だけ迷った。


 狙撃位置を捨てることは、戦場の俯瞰視点を失うこととほぼ同義だ。それでも、内部で何か致命的なことが起きた場合、それは外からの援護では防げない。


 自分の中で、優先順位が決まる。


「分かりました。インセクトドローンの一部はこのまま外周監視に残しておきます。残りは内部の通路へ向かわせる」


『頼む』


 私は狙撃銃を素早く分解し、ケースにしまった。代わりに、ハンドレールガンをホルスターから引き抜く。軽いが、威力は十分。サイボーグの関節部なら、一撃で破壊可能だ。


 森の中を、迷彩スーツのまま走る。熱遮断は継続。心拍数を上げすぎないように、歩幅を調整する。足元の枝を踏まないように注意を払う。


 施設の裏側に設けられた非常口から内部に入り、警備チームとすれ違いながら、地下へと降りていく。


 地下二階、セクターD-7。


 そこへ向かう階段の手前で、私は一度立ち止まり、深呼吸をした。


 狙撃とは違う戦い方になる。距離が短くなればなるほど、肉体への負荷は増える。生身である私には、それは致命傷になり得る。


 それでも――。


 こういうとき、自分がどこまでやれるかを試したくなる、悪い癖がある。


(精神科医の言うとおり、どこかおかしいのかもしれないな)


 自嘲気味に思いながら、私は階段を駆け下りた。


          *


 地下二階の空気は、わずかに湿っていた。冷却装置の排熱が流れ込んでいるのだろう。壁に埋め込まれた蛍光パネルが、青白い光を放っている。


 セクターD-7は、メンテナンスルームが集中しているエリアだ。普段は人の出入りは少ない。


 私は通路の角に身を寄せ、インセクトドローンの一部を先行させた。


 ドローンの視界が、低い位置から通路の奥を映し出す。床に落ちている、小さな金属片。壁に付いた、わずかな擦り傷。


 そして――開きっぱなしのハッチ。


 ハッチの周囲には、微細なナノマシンの粒子が漂っている。センサーが検知した数値が、視界に流れる。


 これは、施設のナノメンテナンス用のものではない。粒子の構造が違う。


 敵が持ち込んだナノツールだ。


「こちらカヤ。地下二階D-7、ハッチ周辺に未登録のナノ粒子を確認。内部侵入者がナノツールでセンサーを誤魔化した可能性高」


『了解』


 ジョナスの声が少し硬い。


『気をつけろ。相手はおそらくフルサイボーグだ。近距離戦闘は避けろ』


「できれば、そうしたいですね」


 私はレールガンを構え、ハッチに向かって慎重に近づいた。


 ハッチの下には、縦穴状のシャフトが続いている。壁面にはケーブルや管が通っており、その隙間を縫うように、人ひとりがかろうじて通れるスペースがある。


 金属の擦れる音が、遠くから微かに聞こえてきた。


 誰かが、下へ降りている。


(……間に合うか)


 私はインセクトドローンを一機、シャフト内に送り込む。すぐに重力加速度をキャンセルし、ホバリングしながら下方を映し出す。


 シャフトの途中に、金属の影が動いていた。光学迷彩を使っていないのか、あるいはシャフト内では使えないのか。


 グレーの装甲。関節の構造。背中のユニット――。


 私はそのシルエットを、よく知っている。


 四つ目の傭兵組織で使われていた、旧型のサイボーグフレームだ。ただし、部分的に最新鋭のモジュールが組み込まれている。


 彼は、新しい身体を得たのだ。


「……アラン」


 私の口から、その名前が漏れた。


 その瞬間、シャフトの中の男が、微かに動きを止めた。


 次の瞬間、彼の頭部ユニットから、微弱な電波が発せられる。


 電脳リンクが、一方的に接続要求を受け取った。


『……誰だ』


 頭の中に、懐かしい声が響く。


 アラン・ドレイク。


 間違いない。その声だ。


「ハイライン・システムズ所属、セキュリティオペレーターのカヤ」


 私はあえて名乗った。


『カヤ……?』


 彼の声に、わずかな驚きが混じる。


『まさか、お前がここにいるとはな』


「そっちこそ。服役中と聞いていましたけど」


『人間の作る牢獄なんぞ、いつまでも同じ形を保ってはいない』


 アランの声は、以前よりも少し金属的だった。喉を通らない音が、電子的に加工されている。彼自身の声帯は、もうそこにはないのだろう。


『こんなところで会うとはな。世間は狭い』


「世間というには、ここはちょっと特殊すぎますけど」


 私はレールガンを構えたまま、シャフトの入り口に身を伏せる。物理的には彼とは二十メートルほどの距離があるが、電脳リンク越しには、ほとんど隣にいるような感覚だ。


『お前が、生身のままだとはな』


 アランが言う。


『相変わらず、そういう無駄なこだわりを捨てられないのか』


「無駄かどうかは、まだ判断保留です」


『お前の身体など、とうに限界だろう』


「限界かどうかを測るのが、私の仕事ですので」


 アランは短く笑った。


『昔と変わらんな。本当に、変わらん』


「あなたは変わりましたね」


 私は言った。


「敵になった」


 沈黙。


 シャフトの中で、アランの身体がわずかにこちらを向いた。ドローンの映像が、その動きを捉える。


『敵かどうかを決めるのは、いつだって「上」だ』


 アランの声が冷たくなる。


『俺は、昔からやっていることを変えていない。与えられた目的を達成する。そのために最適な手段を選ぶ。それだけだ』


「その目的が、研究者の拉致とデータの略取であっても?」


『それが、この世界の戦場だろう?』


 彼の言っていることは、ある意味で正しい。


 だが、今この瞬間、私の任務は彼の任務と正面からぶつかっている。


 彼が目的を達成することは、私の失敗を意味する。


『カヤ』


 アランが静かに言った。


『退け。お前は生身だ。ここで死ぬ必要はない』


「それは、命令ですか?」


『昔、お前は俺の命令に逆らったことがある』


 彼の声に、わずかな懐かしさが混じる。


『狙撃位置を変えずに、敵を見張り続けた。結果的にそれが最適な判断だった。俺はそれを認めた』


「あのとき、あなたが前に出てくれなかったら、私は死んでました」


『つまり、持ちつ持たれつだ』


 アランの声がわずかに柔らかくなったかと思えば、すぐに硬く戻る。


『だから、言う。退けカヤ。ここは俺の戦場だ』


「すみません」


 私はそっと、レールガンの安全装置を外した。


「ここは、私の仕事場です」


 沈黙。


 次の瞬間、シャフトの中で金属が弾ける音がした。


 アランが、こちらに向かって跳躍したのだ。


          *


 金属の身体が、シャフトの壁を蹴りながら一気に距離を詰めてくる。重力をものともせず、蜘蛛のような動きで登ってくる。


 私には、半秒もない。


 私はシャフトの縁から身体を引き、レールガンを開口部に向けて撃ち込んだ。


 青白い光が閃き、超高速で加速された弾が、シャフト内を駆け抜ける。だが、アランはそれを予測していたかのように、壁面に身を寄せて避けた。


 弾丸は彼の肩の装甲を掠め、火花を散らすだけに終わる。


『お前の動きも、変わっていない』


 アランの声が、すぐそこから聞こえた。


 次の瞬間、彼の腕がシャフトの縁を掴み、上半身を一気に引き上げた。


 金属の肢体。人工皮膚で覆われている部分は少ない。機械であることを隠す気など最初からないというデザインだ。


 私は後退しながら、レールガンを連射した。


 レールガンは、発射間隔を調整することができる。私は最大連射モードに切り替え、一秒間に五発を叩き込む。


 弾丸がアランの装甲に次々と当たり、火花と金属片を飛び散らせる。だが、致命傷にはならない。彼の装甲は、拳銃弾程度なら弾くように設計されている。


 距離が縮まる。


 アランの右腕が、鞭のようにしなって伸びた。指先が変形し、刃物のような形状になる。


 私は咄嗟に身体を捻った。刃は、私の胸のすぐ前を通り過ぎる――はずだった。


 刃の軌道が、途中で微妙に変化した。


 アランの身体の一部から、ナノマシンの雲が吹き出し、空気の密度を局所的に変えたのだ。刃はその「流れ」に乗って、私の予想よりもわずかに大きく曲がった。


 衝撃と熱と、鈍い音。


 視界が一瞬、白く弾けた。


 私は後ろに吹き飛び、床に背中を打ち付けた。


 激痛が左腕から走る――はずだった。


 痛みは、なかった。


 代わりに、違和感だけがあった。


 左肩から先が「ない」。


 私の左手は、肩のすぐ下で、きれいに切断されていた。


 床に転がる、私の手。指が僅かに痙攣する。血は……驚くほど少ない。ナノ止血剤が即座に作動したのだろう。切断面から、白い霧状のナノマシンが吹き出し、血管を塞いでいる。


「……ああ、これは」


 私は自分でも驚くほど冷静に、その光景を見ていた。


 自分の身体の欠損。それは私が恐れていた未来のひとつだ。


 だが同時に――。


(この瞬間を、どこかで待っていた自分もいる)


 失うことによってしか、得られない感覚がある。


 精神科医なら、喜んで論文のネタにするだろう。


『生身のまま戦場に立つということは、こういうことだ』


 アランの声が冷たく響く。


『お前は、それでもまだ、生身にこだわるのか』


「……そうですね」


 私は右手だけで、レールガンを構え直した。グリップが重く感じる。バランスが変わったからだ。


「こだわりというより、実験です」


『実験?』


「私がどこまで耐えられるのか」


 アランが、微かに動きを止める。その瞬間が、僅かな隙になる。


 私は床に転がる自分の左手を見た。


 その、掌の内側。


 そこには小さなデバイスが埋め込まれていた。今回の任務で追加された、新しい安全装置だ。緊急時に指先のジェスチャーで作動するようになっていたが、起動条件は「掌に強い衝撃が加わること」でもあった。


 さっき、刃が左腕を切断した時、手が床に叩きつけられた。その衝撃で――。


「どうやら、発動してくれたみたいですね」


 私は呟く。


 アランが、僅かに視線を左手へ向ける。


 床に転がる私の手から、白い霧が噴き出した。それは血ではない。ナノマシンの霧だ。


 それは瞬く間に広がり、半径二メートルほどの空間を包み込む。


『……これは』


 アランが一歩後退する。


 ナノマシンは、この施設で開発された最新型の試作品だ。通常は制御下で医療や素材修復に使われるが、ある条件下では「敵性ナノ構造体に噛みつく」性質を持たせることができる。


 アランのサイボーグボディは、まさにナノ構造体の塊だ。


『クソッ……!』


 彼が悪態をつくのが聞こえた。彼の装甲表面に、細かな霧がまとわりつき、その一部が内部に侵入しようとしている。


 彼の身体も最新鋭だが、そのナノ構造は、私たちの施設の研究成果を完全には想定していない。互いのナノマシンが、情報の噛み合わない「異物」として作用している。


『――撤退だ』


 アランの電脳から、周囲に向けて命令が飛ぶ。


『全ユニット、即時撤退。目的達成は不可能と判断する』


「まだ、何も達成してませんね」


 私は、右手でレールガンの照準を合わせる。


 アランの背後から、別の気配がした。


 メンテナンスシャフトの下部から、もう一体のサイボーグが姿を現した。アランの「取り巻き」だろう。彼もまた、ナノ霧に包まれつつある。


『行くぞ』


 アランが言う。


『ここで死ぬのは、本意ではない』


「逃がしませんよ」


 私はレールガンのトリガーを引いた。


 弾丸が、アランの右膝関節に命中する。火花とともに関節部が弾け、バランスが崩れる。


 彼はそれでも、シャフトの壁を蹴って後退しようとする。


 私はさらに二発、連射した。


 一発は外れたが、もう一発が取り巻きの胸部を撃ち抜いた。取り巻きはその場で動かなくなる。


 ナノマシンの霧は、シャフト内に充満していく。


『カヤ……』


 アランの声が、遠ざかりながらも、確かに聞こえた。


『お前は、本当に、変わらん……』


「あなたも、です」


 私は言った。


「最後まで、部下を捨てない」


 アランは、取り巻きのサイボーグの身体を片手で掴み、そのままシャフトの下方へと身を投げた。自らを犠牲にして出口を塞ぐように見えたが、ナノマシンの霧の逆流がそれを阻む。


 ナノマシン同士が干渉し合い、空間そのものが歪んだように見えた。


 視界が、一瞬だけノイズで埋め尽くされる。


 次に見えたときには、シャフトの内部は静まり返っていた。


 金属片と、沈黙したサイボーグの破片だけが残っている。


「……逃げられたか」


 私は呟いた。


 完全に逃げ切ったのか、それともどこかで機能停止したのかは、すぐには分からない。だが、少なくとも施設内部への侵入は阻止した。


『カヤ』


 ジョナスの声が、少し震えているように聞こえた。


『そっちの状況は?』


「私の左手が、ありません」


 私は淡々と答えた。


「内部侵入者は一体完全沈黙。一体不明。アラン・ドレイク本人と思われるユニットは、おそらく撤退に成功」


『大丈夫か? 出血は?』


「ナノ止血剤が働いてます。痛みは……想定より少ないですね」


 私は切断された肩を見下ろした。


 断面はきれいで、血はほとんど出ていない。代わりに、微細な銀色の粒子が傷口を覆っている。施設内部に配備されていた自動救命ナノマシンが、私の身体を「修復対象」と認識して取り付いたのだ。


『東側と南側は?』


 私は問う。


『東側の敵部隊は、マルコとミゲルが撃退。二人とも損傷はあるが、生きている。南側の潜水部隊は、崖下で爆薬を仕掛けようとしたところを、シンディとドローン群が阻止。一部が撤退に成功したが、施設への侵入は防いだ』


「……生存者は?」


 口に出した瞬間、嫌な予感が胸をよぎる。


 ジョナスが、短く黙った。


『こちら側の死者三。ストームと、内部セキュリティの二名だ』


 喉の奥がわずかに熱くなる。


 ストームが――。


『ジョナス』


 レミの声が割り込んでくる。


『敵側の生体反応はほぼなし。アランらしきユニットは、崖下の海に落ちた可能性が高い。熱源が一つ、急速に遠ざかってるが、深度が深くて追跡困難』


『……そうか』


 ジョナスが息を吐く。


『カヤ。医療チームがそっちに向かってる。しばらく動くな』


「了解」


 私は床に背を預け、天井を見上げた。


 蛍光パネルの光が、少し滲んで見える。


 涙、ではない。


 身体から一部が失われたことによる、バランスの喪失。内耳の感覚が混乱しているのだ。


 左手がないことの違和感は、想像していたよりもずっと大きかった。


 指を動かそうとしても、そこに指がない。脳が「動かそう」と命じた対象が、物理的に存在しないという事実が、奇妙な空虚感を生む。


 それでも――私は、生きている。


 施設も、守った。


 ストームは死んだが、彼の作った地雷原が敵の一部隊を潰した。


 アランは逃げたかもしれないが、目的は達成されなかった。


 主任研究員は無事で、研究データも守られた。

 ここ《ヴェール・ラボ》が、今日の段階で「落ちた」という事実は、世界のどこにも存在しない。


 代わりに残ったのは――

 失われた三つの命と、私の左手。


 損失として、勘定上はそれで終わりだ。

 戦場の収支は、いつだってそういうふうに計上される。


 だが、私の身体の感覚は、帳簿の数字ほど割り切れてくれない。


 左手を失ったという事実は、たった今から、私の「日常」のすべてに入り込んでくる。


          *


 意識が途切れたのは、医療チームが到着して少し経ってからだった。


 救命ナノマシンが循環系に流し込まれ、出血と炎症反応を抑え込み、麻酔が脊髄に直接打ち込まれた。

 世界の輪郭が少しぼやけ、音が遠のいていく。


 朦朧とした意識の中で、誰かの声が聞こえた。


『……ここまできれいに切れてるなら、再接合はしないほうがいい。ナノ義手のベースとして理想的だ』


『テスターとしては最高の条件だな。本人の同意さえ取れれば……』


『意識戻ってからにしろよ。こっちの倫理委員会は口うるさいんだから』


 そんな会話があったような気がする。夢かもしれない。


 気がついたとき、私は白い天井を見ていた。


 無機質な光、一定の間隔で並ぶ換気スリット。

 病院特有の消毒液とプラスチックの混じった匂い。


 左肩に鈍い圧迫感がある。

 痛みはほとんどない、ナノマシンが神経伝達を一時的に遮断しているのだ。


「おはよう、カヤ」


 視界の端にはジョナスの顔があった。

 髪は乱れ、顎には青い無精ひげが浮いている。いつもより少し老けて見えた。


「……何時間、経ちました?」


「十六時間ほどだ。襲撃からは二十四時間ちょっと」


「そうですか」


 口の中が乾いていて、声が少し掠れた。


「ストームは?」


 私はその名前を口にするまでに、ほんの少し間を置いた。


 ジョナスは短く目を伏せ、すぐに私を見た。


「……死んだ。外周の北側で、最後まで敵を引きつけてくれた。お前の一発がなけりゃ、あいつの死体はあそこに残りっぱなしだったろうな」


「そうですか」


 それ以上、何も言えなかった。


 戦場で人が死ぬことは、珍しくもなんともない。

 四つの傭兵組織を渡り歩いてきた中で、何度も見てきた。


 だが、ハイラインに来てからの八ヶ月間、私たちのチームには「死」がなかった。

 負傷はあっても、必ず帰ってきた。


 その「例外のない記録」が破られたという事実が、胸の中で冷たい水のように広がる。


「……ごめんなさい」


 なぜか、その言葉が最初に口をついて出た。


「私が、もっと外側の状況に集中していれば、狙撃位置を離れずにいれば。内部の侵入者は、別の誰かが対応できたかもしれない」


「違う」


 ジョナスは鋭い声で遮った。


「お前が行かなきゃ、内部からの侵入は止められなかった。あのハッチのことは、レミにも俺にも見えていなかった」


「でも――」


「ストームは、あいつ自身の選択でそこにいた。お前のせいじゃない」


 彼の言葉には、強引にでもそう断じようとする意図があった。


 誰の責任にするか――という話ではない。

 戦闘結果の「評価」の話だ。


「レポートはもう上げた。お前の対応については、本社のセキュリティ評価でAがついてる。『ナノ義手の優先テスト対象』に選ばれた」


 ジョナスはわざとらしく口調を変えた。


「おめでとう。出世だぞ」


「……左手を無くすと、出世できるんですか」


「少なくとも、この会社ではな」


 ふざけた調子で言うが、そこに自嘲が混じっているのは隠せていない。


 ハイライン・システムズ――この企業は、戦場と研究所の境界線に立ってビジネスをしている。


 私の失った左手は、彼らにとって「最新の医療ナノテクノロジーを実戦レベルで試すための、理想的な対象」だった。


 生身で、戦闘経験が豊富で、精神的耐久力が高く、そして今、片手を失っている――。


 これ以上ない、モニター対象だ。


「担当のドクターを呼ぶ。細かい説明はそっちから聞け」


 ジョナスは立ち上がりかけて、ふと視線を戻した。


「カヤ」


「はい」


「……生きて帰ってきてくれて、ありがとう」


 その言葉は、少しだけ遅れて胸に届いた。


「こちらこそ。指揮官が生きてて安心します」


「お前は生身のくせに、ほんと心臓に悪い動きばっかりする」


 ジョナスは半ば呆れたように笑い、病室を出ていった。


          *


 その日のうちに、二人の人間が病室を訪れた。


 一人は、白衣を着た女性。四十代前半くらい。

 髪を後ろでひとつに束ね、眼鏡の奥の目がよく動く。


「初めまして。ナノ再生医療部門の責任者、リサ・ヘイルです」


 彼女は簡潔に名乗り、タブレットを手にベッド脇に立った。


「今回の件で、あなたの身体にいくつかの処置が施されています。まずはその説明から、いいですか?」


「お願いします」


「左上腕部は、きわめてきれいな切断面でした。ナノ止血剤と自動救命ナノマシンが即座に働き、生命維持には問題ない状態にできた。従来なら、ここに従来型の義手をつけるか、再生医療で筋肉と骨を時間をかけて再構築するところです」


 リサは私の肩のあたりを示しながら続ける。


「ですが、今回は《ヴェール・ラボ》で開発中のナノマテリアル義手――仮称NH-03のテストケースとして、あなたが最適だと判断された」


「NH……」


「ナノ・ハンド、の略です。ネーミングセンスがないのは自覚してます」


 リサは自分で言って少しだけ笑った。


「この義手は、従来型のサイボーグ義手とは根本的に仕組みが違う。今までの義体は、機械の骨格に人工筋肉を巻き付け、それをモーターやアクチュエーターで動かす構造でした」


「いわゆる、『ロボットの腕』ですね」


「そう。それに対して《NH-03》は、ナノマシンによって構成された可変構造体です。マクロな骨格は最小限で、残りは全て、ナノレベルで組み替え可能なマテリアルでできている」


 私は少し首を傾げる。


「……それって、形を変えられるってことですか?」


「理論上はね。現段階では、人間の手の形と機能を再現することにフォーカスしているけど。将来的には、用途に応じて表面硬度や指の本数を変えることだって可能になる」


 リサの目がわずかに輝く。研究者特有の光だ。


「大事なのは、『生身の神経系との親和性』です。従来型の義手はどうしても、電気信号の変換レイヤーが必要で、そこにラグと違和感が生じた。《NH-03》は、ナノマシンを通じてあなたの神経系と直接シンクロし、筋肉と同じように『動かしたいと思ったとき、その通りに動く』ことを目指している」


「……生身と遜色ない、ってやつですね」


「そう。あくまで目標は『遜色ない』。完全に同じとは言わない。違いは必ず出る。でも、その違いを最小限にしつつ、むしろ生身以上のフィードバックを得られる可能性もある」


 リサは一呼吸置いた。


「もちろん、リスクもあります。ナノマシンが暴走したり、拒絶反応が出る可能性。長期的な神経系への負荷、いま挙げたものは、どれもまだ全てのケースで検証しきれていない」


「テスターとして、私がそのリスクを被るわけですね」


「ええ」


 リサは正面から認めた。


「だからこそ、最初にあなたの同意が必要です。これは治療であると同時に、実験でもある。あなたはここで『実験体』になる」


「……『実験』という言葉を、はっきり使ってくれるのは、ありがたいですね」


 私は軽く笑った。


「曖昧な言葉は嫌いです。リスクは?死亡後遺障害の確率は、今わかっている範囲でで構いません」


「現段階のシミュレーションと過去の動物実験、限定的な人体テストの結果を総合すると――致命的な事故が起きる確率は、およそ千分の一以下。恒久的な神経障害などの重い後遺症が残る確率は、百〜二百人に一人程度と見積もっています」


「低くはないですね」


「あなたの職業と、今後の任務内容からすれば、許容範囲だと本社は判断している」


 企業の論理だ。


 傭兵として、私はもっと高い確率で死地に足を踏み入れてきた。戦場に出るたび、五十人に一人は死ぬような現場にもいた。


 それと比べれば、百人に一人のリスクなど、むしろ控えめなほうだ。


「もし私が、従来型の義手による再建を希望したら?」


「そちらの選択肢もあります。ただ、その場合はあなたの職務内容が制限される可能性が高い。繊細なトリガーコントロールや、ナノインターフェースとの直結など、高度な作戦への投入は難しくなるでしょうね」


 つまり――前線からは、外される。


 私は短く目を閉じた。


 これまでの戦闘記録。

 ストレステストのログ。

 精神科医の診断。


 それらが、私をここに導いてきた。


 生身にこだわってきた私が、生身であることを部分的に諦める代わりに、「どこまで既存のサイボーグ義体と違う感覚が得られるのか」を試す機会――。


 それは、私にとってもひとつの「実験」だった。


「……受けます」


 私は言った。


「《NH-03》のテスト。リスクは理解しました。その上で、やってみたいと思います」


 リサは一瞬だけ、表情を緩めた。


「ありがとう。あなたのその選択は、このラボにとっても大きな意味があります」


「条件があります」


「聞きましょう」


「すべての感覚データを、私にもフィードバックしてください。ナノ義手と神経の同期ログ、違和感の記録、ストレス反応……。私の身体で起きていることを、可能な限りリアルタイムで知りたい」


「研究者みたいなことを言いますね」


「自分の身体でやる実験ですから」


 リサは、少しだけ目を細めた。


「いいでしょう。あなたの電脳に専用のモニタリングインターフェースを構築します。もちろん、一部の企業機密情報はぼかしますが」


「それで構いません」


「では、正式な同意書を送ります。電脳で署名してください。それが終わり次第、手術とインプラントのスケジュールを組みます」


 タブレットの画面が、私の視界の隅に浮かぶ。いくつもの条項。リスクとベネフィット。企業側の免責事項。


 私はひとつひとつ確認しながら、電子署名を行った。


 これで、私の左手は――まもなく、「別の形」で戻ってくる。


          *


 二人目の訪問者は、その日の夕方に来た。


 スーツに身を包んだ、三十代半ばくらいの男。企業ロゴの入ったIDカードを胸に下げている。顔つきは事務職というより、現場上がりのマネージャーといった雰囲気だ。


「セキュリティ部門・心理ケア担当のカート・ベイカーです。よろしく、カヤ」


 精神科医――とは名乗らなかったが、実質的には同じ役割なのだろう。


「義務で来てるのか、興味本位で来てるのかは、どっちなんですか?」


 私は半分冗談で尋ねた。


「三対七で興味本位かな」


 カートはあっさり認めた。


「君の過去の診断データは読んでいる。正直、こういうケースは珍しい」


「精神科医にそう言われるのは、もう慣れました」


「だろうね」


 カートはベッド脇の椅子に腰かけ、足を組んだ。


「今日は、いわゆる『カウンセリング』らしいことをするつもりはあまりない。ただ、いくつか確認したいことがある。必要なら、今後もセッションを続ける」


「どうぞ」


「まず――自分の左手を失ったことに対する、率直な感情を教えてほしい」


 真正面から、そう聞かれるとは思わなかった。


 私は少し考え込む。


「……『想定内』。それから、『喪失感』。あと、少し『安堵』」


「安堵?」


「はい」


 自分で口にしながら、私はその感情を改めて見つめ直す。


「私は、ずっと生身のままで戦場に出てきました。いつかどこかで、『何かを失う』ことになるだろうとは思っていた。それが命か、四肢か、感覚かは分からなかったけれど」


「なるほど」


「だからその瞬間が来たことに対して、『やっと来たか』という、変な言い方ですけど、ほっとした部分があるんだと思います」


「『やっと来たか』――か」


 カートはタブレットに何かを記録しながら、目を細めた。


「ストームの死については?」


 今度は、少し間ができた。


「まだ、実感が薄いです」


 私は正直に答えた。


「戦闘中に部下を失った指揮官としてのジョナスや、彼と長くいた他のメンバーほど、強い感情が湧いているかどうか、自信がない」


「自信がない?」


「悲しさを、自分で評価できていない感じです」


 あの瞬間の会話や、ストームの笑い方は、鮮明に思い出せる。

 だが、それが胸を締め付けるほどの痛みには、まだなっていない。


 時間差で来るのかもしれない。

 あるいは――。


「私は、感情処理を『データとしての記録』に回してしまう癖があると、前の医師に言われました」


「その診断は妥当だと思う?」


「ある程度は」


 私は天井を見上げながら続ける。


「現場で起きた出来事を、『何をすれば良かったか』『次にどう活かすか』というフレームで捉える。そこに、感情を割り込ませるスペースが小さい。だから、『悲しさ』や『怒り』の実感が、自分の中で薄く感じられることがある」


「そのことについて、不安は?」


「あります。でも、同時にそれが自分の武器だとも分かっています」


 カートは小さく頷いた。


「君のようなタイプは、戦場においては優秀だ。だが、長期的には燃え尽きやすい。そして、自分が燃え尽きたことに気づきにくい」


「それは、前の医師にも言われました」


「だろうね」


 カートは少しだけ笑って、真面目な口調に戻る。


「君はこれから、左手にナノ義手をつける。その過程で、神経系と感覚レベルで非常に深い変化を経験するだろう。それは、ただの『身体の変化』じゃない。自己像、アイデンティティにも影響を与える」


「『自分は生身だ』という、ささやかなこだわりが、部分的に崩れるってことですね」


「そう。君はおそらく、それを『実験データ』として処理しようとするだろう。でも、その裏で何が起きているかを、定期的に誰かにチェックさせておくのは悪くない選択だ」


 カートはタブレットを閉じた。


「提案だが、リハビリ期間中は週一回、俺とのセッションを入れないか?形式ばったカウンセリングでなくてもいい。経過の確認と、感情処理のサポートだと思ってくれて構わない」


「……契約は任意ですか?」


「もちろん。だが、俺の個人的な意見としては、『君みたいなタイプほど、他人の目が必要になる』」


 私は少しだけ考えた。


 左手が失われたあとの、変化。

 ナノ義手がついたあとの、新しい感覚。


 それを全て「自分だけの問題」として抱え込めるほど、私は万能ではない。


「分かりました。お願いします」


「了解。じゃあ、初回セッションはナノ義手装着の翌日あたりに設定しておこう」


 カートは立ち上がり、少しだけ真顔になって言った。


「……生き残ったことを、ちゃんと自分で評価するように」


「それは、これからの宿題ですね」


「宿題は、期限を決めるのがコツだ。次に会うまでに、少なくとも『ストームの死をどう受け止めたか』について、自分なりの言葉を考えておいてくれ」


 そう言い残し、彼は病室を出ていった。


          *


 ナノ義手NH-03の装着手術が行われたのは、それから三日後だった。


 全身麻酔ではなく、局所麻酔と電脳への意識制御で行われた。私の意識は、途中から夢の底に沈んだような状態になり、時間の感覚が薄れた。


 どれくらい経ったのか分からない。


 医療用ARインターフェースの「ウェイクアッププロトコル」が起動し、暗闇の中に淡い光が差し込んでくるような感覚があった。


『カヤ、聞こえる?』


 リサの声が、頭の中に直接響いた。


『意識が戻り始めている。ゆっくりでいいから、応答して』


「……はい」


 口を動かしたつもりはないのに、返事ができた。声帯ではなく、電脳から直接音声を生成しているのだろう。


『手術は成功した。左肩から先に、《NH-03》が接続されている。今はまだ、ナノマシンの構造が安定化していないから、無理に動かそうとしないで』


 私は、身体の感覚に意識を向けた。


 左肩から先に――「何か」がある。


 重さは、生身の腕とほとんど変わらない。いや、少し軽いかもしれない。だがそれ以上に、そこに広がる「ざわめき」のような感覚があった。


 細胞が騒いでいる――という表現では足りない。


 無数の微小な存在が、互いに位置を確かめ合い、並びを整え、ひとつの「形」を作ろうとしている。その様子が、神経の奥で微かに感じ取れる。


 ぞわり、と肩から指先にかけて、電気が走ったような感覚。


 そこに、指が五本ある――ような気がした。


『今から、感覚フィードバックのレベルを少しずつ上げていく』


 リサの声が続く。


『最初は温度と触覚だけ。そのあとで、痛覚や圧覚を段階的にオンにする。もし耐えられない違和感や痛みがあれば、すぐに言って』


「了解です」


『では、レベル1』


 左手に、温度の概念が流れ込んできた。


 空気の冷たさ。ベッドシーツの柔らかい感触。微かな風の動き。


 それらが、指先と手のひらに「マップ」として広がる。生身の皮膚とほとんど変わらない……いや、むしろ解像度が高い。


 布の繊維一本一本の存在が、識別できるような感覚。


『どう?』


「……細かすぎて、少し気持ち悪いです」


 私は苦笑した。


「でも、嫌な感じではない」


『少しレベルを下げることもできる。設定は後で細かく調整しよう』


 やがて、圧覚・振動覚・痛覚の順にフィードバックが追加されていく。


 痛覚といっても、今はまだ強くない。指先のどこかを軽くつねられているような、鈍い刺激だけだ。


『では、試しに――左手の指を、一本ずつ動かしてみて』


 私は意識を左手に集中し、「動かす」というイメージを送った。


 最初の数秒は、うまくいかなかった。脳が「かつてそこにあった腕」を探しにいっているのが分かる。だが、そこにはもうない。


 代わりに、《NH-03》がある。


 ナノマシンの集合体が、私の神経信号を受け取り、そのパターンを学習し始める。自分が「何をすべきか」を理解しようとしている。


 カチリ、と何かが噛み合う感覚があった。


 次の瞬間――左手の人差し指が、ほんのわずかに動いた。


 実際には、ナノマシンの集合構造が「人差し指」という形をとり、その部分だけ収縮したに過ぎない。それでも、感覚としては、紛れもなく「自分の指を動かした」感じがあった。


「……動きました」


『映像でも確認している。いい反応だ』


 リサの声に、研究者としての満足が混じる。


『全体の制御は徐々に慣らしていく必要がある。筋トレと同じだと思って。いきなり全力で動かそうとすると、神経系が混乱する』


「了解です」


 私は今度は、手のひらを握るイメージを送った。


 ナノマシンの構造が収縮し、指がゆっくりと曲がる。ぎこちないが、確かに握ることができた。


 その動きに伴って、掌の皮膚――に相当するナノマテリアルが、シーツを押し込む感触を伝えてくる。


 生身の手と、どこが違うのか。

 じっと意識を澄ませる。


(……ああ、そうか)


 違いは、「ノイズの少なさ」だ。


 生身の手には、いつも微かな震えや、血流の脈動、筋肉の微細な振動があった。それらが、常に「背景ノイズ」として感覚の底に流れていた。


 だが、《NH-03》には、それがない。


 静謐すぎるくらい、静かだ。

 必要なときだけ、必要な感覚が立ち上がり、不要なときには消える。


 それは――効率的だが、どこか「死んだ感覚」にも思えた。


 生きている肉の、わずらわしいまでのざわめきが、そこにはない。


 それを、寂しいと感じるかどうかは、まだ分からない。


「リサ」


『何?』


「このナノ義手、もう少し『ノイズ』を足すことはできますか?」


『ノイズ?』


「生体信号の疑似波形を混ぜるとか。血流の脈動を模倣するとか、筋肉の微細な震えとか」


 リサは数秒黙り、やがて小さく笑った。


『君は本当に面白いことを言うね。普通の患者なら、『もっと違和感を減らしてくれ』と言うところだ』


「違和感を減らすために、違和感が欲しいんです」


『なるほど。理屈は分かる。技術的にも不可能ではない。生体信号のサンプルを取って、それをナノマシンの活動に重ねる形で擬似ノイズを生成することはできるはずだ』


 リサの声が、少しだけ弾んだ。


『やってみよう。これは私たちにとっても新しい発想だ』


「お願いします」


『……君がここのテスターに選ばれた理由が、少し分かった気がするよ』


          *


 リハビリの日々は、想像していたよりも地味で、そして疲れるものだった。


 ナノ義手を動かすだけなら、数日で基本的な動きはできるようになった。握る、開く、つまむ、押す。銃のグリップを握るくらいなら問題ない。


 だが、「狙撃のための微細なトリガーコントロール」となると話は別だ。


 トリガーにかけた指の力を、グラム単位でコントロールし、銃身に無駄なブレを伝えないようにする。発射の瞬間にわずかに逆方向に力を入れて、リコイルを相殺する。


 それらは、長年の経験で身につけた「癖」だった。


 ナノ義手は、その癖をまだ知らない。


 私は射撃レンジに通い、何百発というダミーカートを撃ち続けた。実弾はまだ使用禁止だ。ナノマシン構造の完全安定にはもう少し時間が必要だという。


 最初のうちは、トリガーを引きすぎて空砲を誤射したり、逆にためらって撃てなかったりした。義手のフィードバックと、自分の意識とのズレが、数十ミリ秒単位で発生する。


 その度に、私はすべてのログを確認した。


 指の関節角度、力のベクトル、神経電位の波形。

 リサのチームが解析したデータが、電脳越しに共有される。


 私はそれを見て、自分の感覚と照らし合わせる。


「ここで少し遅れてる。感覚的にはもう撃ってるつもりなのに、義手が追いついてない」


『そのタイムラグは、神経系が新しいチャンネルを通して信号を送っている過程で起きている。もう少し慣れれば、脳が「最短ルート」を覚えるはずだ』


「脳の再配線ですね」


『ええ。生身と義手、両方の学習の問題だ』


 毎日、少しずつ精度は上がっていく。


 同時に、《NH-03》の感覚にも変化があった。


 リサが追加した「生体ノイズ」が、じわじわと馴染んでいく。


 左手の中に、疑似的な血流の波がある。


 といっても、実際に血液が流れているわけではない。ナノマシンの活動パターンに、周期的な揺らぎを加えているだけだ。


 それでも――。


 そのわずかな揺らぎが、私にとっては大きかった。


 静まり返った真夜中に、小さな時計の針の音が戻ってきたような感覚。


 左手はもう生身ではない。

 だが、「完全に機械」でもなくなった。


 彼女は――と、私はいつの間にかこの義手に女性代名詞を当てていた――私の身体の一部として、徐々に組み込まれていった。


          *


 リハビリの合間に、カートとのセッションも行われた。


 ストームの死について、自分なりの言葉を探す作業は、思った以上に難しかった。


「彼は、役割を全うした」


 最初に出てきたのは、その言葉だった。


「任務としても、彼自身の性格としても、あの場所に立つのは『彼らしい』選択だったと思う。だから、その結果として死んだことを、私は『間違い』とは思っていない」


「それが理屈のレイヤーの言葉だとするなら、感情のレイヤーでは?」


「……悔しいです」


 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。


「同時に、羨ましいとも思っているのかもしれません」


「羨ましい?」


「彼は、あの瞬間に、自分がやるべきことを迷わなかった。私は、内部に行くか外に残るかで一瞬迷った。もちろん、どちらの選択が正解かは分からない。でも、『迷わずに死地に飛び込めた』彼のことを、どこかで羨ましいと感じている自分がいる」


 カートは少しだけ目を細めた。


「君は、自分が『迷わずに死地に飛び込むタイプではない』と思っている?」


「少なくとも、そういうふうに自分を教育してきました。状況を見て、可能な選択肢を洗い出して、その中から最も合理的なものを選ぶ。感情よりも、情報と確率を重視する」


「それは正しい。でも――」


 カートは少し身を乗り出した。


「君が今回、シャフトに一人で向かったのは、合理的判断だけでは説明できないと、俺は思っている」


「そうですか?」


「シャフトの中にいたのが誰か、君は途中で気づいたはずだ。アラン・ドレイク。かつての上官。彼の戦い方を知っていて、彼がどれだけ危険かも分かっていた。その上で、退く選択肢もあった」


「任務としては、退く選択肢はありませんでした」


「本当に?」


 カートは静かに微笑んだ。


「君なら、あの場で『内部侵入者と接触。危険レベル高。バックアップ要請』とだけ告げて、一度下がることもできた。そのほうが生存確率は高かったはずだ。それをしなかったのは、なぜだと思う?」


 私はしばらく、言葉を探した。


「……知りたかったからだと思います」


「何を?」


「彼が、何を考えているのか。どうして、今の立場にいるのか。どうして敵になったのか」


 アランの声。

 「退け」という命令。

 「お前は本当に変わらん」という言葉。


 それらが、頭の中に蘇る。


「私はずっと、自分の『限界』を測ろうとしてきました。身体的にも、精神的にも。アランは、その過程の中で出会った、数少ない『基準』のひとつだった」


「基準?」


「彼の冷徹さと合理性は、自分が目指す戦い方のひとつのモデルでした。同時に、部下の命を無駄にしないという点で、私とは少し違う軸も持っていた。その彼が今、敵側の指揮官として現れた」


 私はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「彼がどんなふうに『敵』になったのかを知らずに、ただ撃ち倒すだけでは、私の中で何かが終わらない気がしたんです」


「だから、会いに行った?」


「そうかもしれません」


 カートは少しだけ満足そうに頷いた。


「君は、『合理性』と『好奇心』の両方で動いている。自分を極限まで追い込みたいという欲求も、その一部だ」


「精神科医としては、それを危険視するんですよね」


「戦場から離れて見れば、ね」


 カートは肩をすくめる。


「だが、君はまだ戦場にいる。君のようなタイプが見ているものは、俺のような安全地帯の人間には見えない。だから、俺は『危険だ』とラベルを貼りつつ、そのラベルごと観察させてもらう」


「観察対象ですか」


「嫌なら言ってくれ。もっとソフトな言い回しもある」


「いいえ。そのくらいストレートなほうが、私はやりやすいです」


 カートは笑い、セッションはそこで一旦区切られた。


          *


 《NH-03》の調整が一通り終わり、実弾射撃の許可が出たのは、一ヶ月後だった。


 射撃レンジに立ち、五五口径の対サイボーグ用狙撃銃を構える。


 あの日以来、初めて触る「本物」の感触。

 重量配分、冷たい金属、バイポッド越しに伝わる床の硬さ。


 左手でストックを支える。

 右手でグリップを握り、トリガーに指をかける。


 ナノ義手は、きちんと銃の重さを受け止めている。

 震えはない。だが、生身のときとは違う「わずかな硬さ」があった。


 呼吸を整え、スコープを覗く。


 標的は、百メートル先のサンドバッグ状のターゲットだ。中には、サイボーグ装甲を模した素材が入っている。


 私は心拍を落とし、トリガーにかけた指の圧力を、ゆっくりと増やした。


 発射。


 反動が肩に伝わる。同時に、ナノ義手にはほとんどブレが生じない。リサたちのチューニングのおかげで、リコイルのベクトルをうまく逃がすようになっている。


 ターゲットの中心に、きれいな穴が開いた。


「……悪くない」


 私は小さく息を吐いた。


「生身のときより、少しだけ『冷たい』感じはありますけど」


 隣でデータを見ていたリサが頷く。


「冷たさを、悪いものだと感じる?」


「まだ分かりません。少なくとも、狙撃という行為自体には、プラスに働いている気がします」


「なら、まずはそれでいい」


 リサはタブレットに結果を記録しながら言った。


「あなたの義手はまだ成長途中だ。ナノマシンたちは、あなたの癖や神経パターンを学習し続けている。半年もすれば、また違う感触になっているはず」


「人間の筋肉みたいですね」


「筋肉よりずっと素直よ。間違えたらすぐに修正できる」


 リサは、少しだけ誇らしげだった。


「あなたのデータは、すでにいくつものシミュレーションモデルを上書きしている。《NH-03》は、おそらく近いうちに正式採用される。医療用にも、戦闘用にも。あなたの左手は、その第1号になる」


「……ストームが聞いたら、何て言うでしょうね」


「『羨ましい』って言うんじゃない?」


 リサの答えに、私は少しだけ笑った。


          *


 最初の襲撃から、二ヶ月が経った。


 《ヴェール・ラボ》の修復はほぼ終わり、セキュリティプロトコルも大幅に見直された。内部からの情報漏えいルートも、一部は突き止められたらしい。


 アラン・ドレイクについての情報は、未だに決定的なものは出ていない。


 崖下の海に落ちた彼のサイボーグボディが回収されたという報告もなければ、完全に破壊されたという証拠もない。


 彼は、どこかでまだ「目的」を追い続けているのだろう。


 いつかまた、どこかの戦場で出会うことがあるかもしれない。

 そのとき、私の左手は――今とは違う形で、彼を迎え撃つ準備ができているはずだ。


 そう考えると、少しだけ楽しみな自分がいる。


 それは、戦争中毒者の思考なのかもしれない。


 だが、私はそれを否定しない。


 否定してしまえば、自分がここにいる理由がなくなる。


          *


 職務復帰の正式な許可が下りたのは、ちょうどその二ヶ月目の終わりだった。


 社内システムからの通知が、電脳インターフェースに表示される。


《医療チームからの戦線復帰許可が発行されました》

《セキュリティ部門からの最終承認を待っています……》

《承認完了》


 その数秒後、別の通知が重なって表示された。


《新規任務通知》

《機密レベル:オレンジ》

《任務コード:BLUE-14》


 私は、自室の椅子に腰かけたまま、その文字列をしばらく眺めていた。


 左手――ナノ義手NH-03が、無意識のうちに拳を握り、開く。


 生身と遜色ないどころか、もはや「別の武器」として身体に組み込まれつつある感覚。


 電脳インターフェースが、任務の概要をダウンロードする許可を求めてくる。


 私は、ほんの一瞬だけ深呼吸をした。


 戦場は、なくならない。

 形を変え、ルールを変えながら、どこかで必ず続いていく。


 私もまた、その変化の一部になっている。


 生身であることにこだわっていた狙撃手が、ナノテクノロジーによって「生身と機械の境界」を自分の身体で試す存在になる――。


 皮肉だが、悪くない役回りだ。


「……行きましょうか」


 私は小さく呟き、任務通知のウィンドウに「承諾」の印をつけた。


 視界に、新しい戦場の地図が、静かに広がっていく。

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