第23話 再び
「望遥様」
「どうした、何があった?」
問い詰めると、満は望遥の耳へ口を寄せて囁いた。
「陽善が兵を起こそうとしていると」
その一言が、望遥の全身を貫いて痺れをもたらした。一瞬白く染まった思考が戻ってきて、遅れて望遥を動揺させた。
「この月の宮でか」
「はい。陛下と青月様を手中に収めるべく……動いたと」
望遥は咄嗟に駆け出そうとし、躊躇う。
(朔と青月、どちらの元へ行くべきか)
「先程の女官は皇后を逃がしに行ったのか」
「はい。彼女は皇后様付きの女官ですから。青月様もご一緒に行かれると思います」
とはいえ、女官のみで皇后と青月を無事に逃がせるとは思わない。望遥が思考を巡らせると、一つの思いつきが降ってくる。望遥はあたりに向かって声をかけた。
「夜影殿、いるのだろう。来てくれ」
急に何者かへ語りかけた望遥に、満が目を丸くしている。彼女の驚きは当然だ。しかし、夜影が常に監視の目を光らせていることを望遥は知っていた。今の満とのやり取りも耳にしているはずだ。
そのまま少しだけ待つと、木の後ろから闇に溶けそうな影が現れた。満がはっと息を呑む。
夜影の青白い顔に月光が当たり、より一層白く見えた。彼は無表情に近い顰め面を望遥へ向けた。
「夜影殿。聞いての通りだ」
望遥は静かに告げた。
「私は朔の元へ行く。貴方は青月と皇后の元へ行ってはくれないか」
「私の任務は望遥様と共にいることです」
「今はそれどころではないと思うが。青月と朔を失えば、それこそ陽善の思うつぼだ」
「しかし……」
「夜影殿。主君を失っては、家臣に行き場はないぞ」
そのまましばし、睨み合う。満だけが望遥の隣で不安に顔を曇らせ、二人の顔を交互に見ていた。
「……分かりました」
先に口を開いたのは夜影だった。彼は眉間に深い皺を刻みながら、短いため息をついた。それに望遥が礼を言う前に、彼は鋭く付け足す。
「ですが、望遥様もまた重要な立ち位置におられるお方。間違っても危険に身を晒すことはないよう」
それには虚をつかれた。ぽかんとして望遥が夜影へ目をやると、彼は居心地が悪そうに身じろいだ。
「なにか?」
「いや……心配してくれたのか? ありがとう。夜影殿も気をつけて」
望遥が笑うと、今度は夜影が呆然とする。それから一歩遅れて我に返り、また苦々しい顔でそっぽを向いた。
「そこの女官、青月様付きだな。私と共に来い」
夜影に呼びつけられ、満が背筋を伸ばす。そして歩き出した夜影の後に続く──かと思われたが、その前に望遥の前へ駆け寄った。
彼女は望遥に向かって礼をすると、凛とした声を張った。
「どうぞ、ご無事で」
それからぱっと身を翻し、夜影を追いかけていく。ぱたぱたと駆けていく満の後ろ姿が闇に消えるのを見送ってから、望遥は一度深呼吸をした。
深く息を吸うと、望遥は朔の寝所へ向かって走り出した。
抜け道や隠れた通路など、月の宮の歩き方は誰よりも熟知しているつもりだ。陽善が網を張っていたとしても、それに捕まらずに朔の元へ辿り着く方法はある。誰が陽善と繋がっているか分からない今、望遥は全ての兵、女官たちを避けて走った。
回り道はしたものの、誰に呼び止められることもなく朔の元へたどり着いた。狭い壁の隙間を抜け、掛け軸の裏から顔を出し、室内を覗く。蝋燭の頼りない明かりに照らされた室内には、朔が俯いて座っているだけだった。
望遥が掛け軸をめくって姿を現すと、朔もようやくこちらに気が付いた。ぎょっとした様子で立ち上がり、しかし相手が望遥だと分かるとあからさまに肩の力を抜いた。一瞬安堵の表情を浮かべてから、すぐに目を吊り上げる。
「人目を避けろとは言ったが、抜け道から来いとは言っていない」
「人目? なんの話だ」
望遥が尋ねると、朔は怪訝な顔をした。
「夜影に呼びに行かせたのだが」
「夜影殿はそのようなことは言わなかった」
だが思い返してみると、望遥が朔の元へ向かうと話した際も、夜影はあまり抵抗は見せなかった。望遥が寝返る心配を忘れていたとしても、自身で主君を守りたいと思うのが自然だが──それをしなかったのは、望遥を呼べという朔の指示があったからか。この緊急時でも、朔の命令をできる限り守ろうとしたらしい。夜影の忠誠心は本物だ、と呆れと感心の混じった複雑な気分になった。
「それはいい。とにかく、ここを一度離れるぞ」
望遥は声をひそめて言った。とにかく、ここを脱出することが先決だ。
望遥は朔の手を取って掛け軸の近くへ引っ張っていく。しかし朔は状況を理解できていないのか、手を引く望遥に抗った。
「なんだと言うんだ。私は話をするつもりで……」
「その時間が今はない」
望遥は焦りに任せ、早口で説明をした。
「陽善が、お前と青月を殺そうと動いた。そう間を置かず、ここにも陽善の手の者が来るはずだ」
それには朔も目を剥いた。一瞬の驚きの後、冷静になろうと努めているのか、呼吸が深くなる。視線は落ち着かずに空中を彷徨ったが、すぐに戻ってきて望遥を見据えた。
「望遥、お前は何をしに来たのだ」
朔の目に疑心が宿る。望遥と同じ色をした黒い瞳が、疑いを乗せて睨んでくる。朔は望遥の手を振り払い、一歩後退した。
「陽善と話したのは知っている。そこでお前は何を言った。何を約束した。お前に連れられていった先が陽善の目の前でないと、どうして信じられる?」
朔の詰問に、望遥は口をつぐんだ。彼の疑いを晴らすだけの材料を、望遥は持ってはいなかった。
朔は用心深く、神経質で、人を嫌っている。それは初めて顔を合わせた時から分かっていたことだ。彼は人に対して線を引き、その内側には決して踏み込ませようとしない。それは月の宮にいる者も皆知っている。そして月の宮の人間に限らず、民も揃って口にする。「陛下は双子の弟として生まれた。だからこそ人の心など持たない恐ろしい存在だ。月永様のことも、呪い殺してしまったのだ」と。
だが、望遥は知っている。
朔は誰よりも人間らしい人だ。
「……朔が、ずっと私を殺したがっていたことは気が付いていた」
そう告げると、朔は目に見えて緊張した。顔を強張らせ、全身に力が入って身構えている。瞬きが過剰になり、望遥をじっと見つめていた。その反応こそが、望遥の予想が正しいことを裏付けている。
朔からは、時折抑えきれない殺意が漏れていた。望遥を見る目が暗く底光りし、害意を抱く。彼は望遥を激しく憎みながら、しかし殺してはならないと自身を押さえつけて今日まで来たのだ。
「朔の心の内など、私には知りようがない。だが、お前が私を憎んだとしても、それは無理がないことだと思う。月の宮を追われたお前と違い、私はこの地で安穏と育った。同じ母から同じ日に生まれたというのに、私の方が早かったというだけで」
月の宮に戻り、皇帝としての地位を得た朔には、望遥を殺すなど簡単なことだっただろう。それでも、派閥の均衡を保つために朔は望遥を生かした。それがどれほどの葛藤の末にもたらされた結論なのか、望遥には想像することしかできない。その苦しみこそが、朔の人間らしさの所以だ。
「お前はいつだって私を殺せた。だが、殺さなかった」
望遥は朔に向き直る。
「私は朔を信じる。憎しみを抱えながら涼しい顔をしてみせたお前を……だからこそ王としてふさわしいのだと、私は信じている」
それきり、部屋は静まり返った。朔は硬直して望遥を見るばかりで、何も言おうとはしない。望遥もまた黙り込んで朔を見ていた。自分と同じつくりの顔──しかし全く別人である弟の顔を、静かに見守っていた。
すると、朔の唇が震える。薄く開いた口から、怨嗟のような地を這う声が漏れ出た。
「なぜ、お前はいつもそうなのだ……」
朔の目が暗い影を落とす。そこにははっきりと殺意が宿っている。瞳をぎらつかせながら、朔はくしゃりと顔を歪めた。そこに見えるのは怒りの色のはずだが、望遥には、なぜだか彼が泣き出しそうに見えた。
「偽ることなく自身の心のままに動き、その結果人心を集める。誰もがお前を慕い、忠誠を誓うだろう。お前にならば命を預けられると……」
朔の声が震えた。普段は冷静な彼が顔を赤く染めて、叩きつけるように怒鳴った。
「呪われた私とは違う。私はお前のようにはなれない!」
朔の呼吸が乱れ、肩で息をしている。望遥は、朔の心の柔らかな場所に触れていた。興奮した様子の朔を前に、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「そうだ。朔は私のようにはできない」
望遥の言葉に、朔の眉がひくりと震える。彼が次の叫びを上げる前に、望遥はすかさず声を続けた。
「そして、私も朔にはなれない」
朔は口を開いたまま一瞬硬直し、それから訝しむように望遥を睨んだ。何が言いたいのか、と険のある目つきを向けられるが、望遥は怯まなかった。
「朔も知っての通り、私は陽善と話をしたが……お前を裏切ろうというつもりはなかった。ただ、お前と共に歩いていくために、自分を納得させたかったのだ。朔の政策や方針が間違っていないと」
流民の対策について、朔と望遥は意見が割れた。しかし、望遥もどこかで朔が間違ってはいないと分かっていた。だからこそ、他者の考えを求めた。朔を信じていくために。
「だが、まあ、陽善にはめられてな……そうなってから、初めて気が付いた。朔がどれほど危うい橋を日々渡り歩いているか。人の思惑をかいくぐり、自分の思うように動くことが、この月の宮でどれほど難しいことか。そして、私にはそれができなかった」
望遥は苦く笑った。陽善の術中にはまったと分かってもなお、そこから抜け出す方法が分からず、一人考え込むことしかできなかった。望遥は月の宮という権力の渦の中で、赤子のように無力だった。
「私は確かに、何かを偽ることなく人と対話ができるかもしれない。だが、朔のように月の宮を操ることなどできない。派閥のなんたるかも理解できてはいないしな」
望遥は朔の目の前へ歩み出た。そして先ほど振り払われた手を、今度は朔へ差し出す。
「お前には、お前にしかできないことがある。それを貫け。私は、そのための剣となろう」
朔が戸惑ったように、差し出された手と望遥の顔とを交互に見る。彼は少しの間そうして迷っていたが、やがて唇をぐっと噛み締めると、望遥の手を握った。覚悟の感じられる、鋭い目をしていた。
「裏切ればすぐに手を離すぞ」
「ああ。こちらも、朔が王としての道理を外れたのなら斬る」
固く結ばれた手は、いつかの日に結ばれた密約の時と同じだ。けれど二人の心の内はその時とは少しばかり違っているように思える。それがなんだかおかしくて、望遥は朔に向けて笑ってみせた。
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