第24話 天の子の姿

 すると、外がにわかに騒がしくなる。遠くからやってくる荒々しい足音は、皇帝の寝所近くとは思えない。恐らく、陽善だ。


 望遥は朔の手を引いて掛け軸の裏へ回った。そこに隠れた隙間へ体を滑り込ませ、朔も入るよう催促する。薄汚れた狭い通路に朔は一瞬躊躇ったが、すぐに中へ入ってきた。そのまま部屋から脱し、真っ暗な隠し通路を手探りで進んでいく。


「どこへ行くつもりだ」


「ひとまず、私の部屋へ。下級武官の衣がある。多少は紛れられるかもしれない」


 武官に紛れて月の宮を徘徊するためのものだったが、それがここで役に立つとは。入り組んだ狭い通路を進み、二人は望遥の自室へと向かった。


 望遥の自室に到着し、通路から出ると、朔は大きく息を吐き出した。抜け道を歩く間に埃を吸ったのか、軽く咳き込んでいる。それを横目に下級武官の衣を取り出そうとし──戸の外からかかった声に手を止めた。


「望遥様」


 何者かが外から呼びかけてくる。朔の咳き込む音を聞いて、中に人がいると知ったのだろう。声の主はほとんど確信を持っていた。朔を見れば、彼は口を押さえて咳を飲み込んでいた。沈黙したまま、どうするべきかと二人顔を見合わせる。


 しかし、高まった緊張は次の一言で霧散した。


「望遥様、道行でございます」


「……お前、道行か」


「はい」


 耳を澄まして聞けば、確かに声は道行のものである。望遥は朔に対して隠れるよう身振りで伝え、彼が物陰に身をひそめるのを待ってから戸を開けた。


 外には、礼をする六ノ兵がいる。顔を上げよと命じれば、実直そうな青年がこちらを見た。それは数年前、望遥が九ノ兵に扮して訓練に混ざった際打ち合った相手──北伐に同行し、共に戦った仲間。歩兵の道行に間違いない。望遥はほっとして彼を迎え入れた。


「どうした、このような夜更けに」


 その問いかけに、道行は表情を曇らせた。そして「無礼をお許しください」と断ってから、部屋の中へ入り、戸を閉めた。そこまでしてから、道行はようやく口を開いた。


「実は、巽様から兵部省へ通達がございまして」


「巽だと?」


 彼が頷く。そのまま、小さな声で言葉を続ける。


「望遥様が、謀反を企てて陛下のお命を狙っていると……そのため、望遥様を見つけ次第捕らえよとの命をくだされました。私も、その命に従い望遥様の寝所を監視しておりました」


「なんだと」


 思わず声が裏返る。その動きは予想外だった。巽もまた陽善の動きを知って、陽善派の頭であろう望遥を捕らえようとしているということか? 望遥が言葉を失っていると、背後から声が飛んできた。


「巽め、これを待っていたな」


 振り向けば、隠れるように言っておいた朔が立ち上がってそこにいた。望遥は咎めるように「朔」と名を呼んだ。


「へっ、陛下!」


 すぐさま道行が膝を折る。暗がりで顔が見えなかったため、望遥が名を呼ぶまで誰か分からずにいたらしい。慌てたその仕草を、朔は手で軽く払って許した。そして、顎を擦りながら思考を巡らせるよう呟く。


「巽は陽善を利用し、望遥もろとも私を排除するつもりらしいな」


「朔まで? 一体なぜ……十二年もの間お前を皇帝とするべく動いてきた男だぞ」


「私たちは互いに利用し合っていただけだ。それに、私と巽の繋がりはもはや切れている。今更切り捨てようが痛みはあるまい。私の後釜には青月でも据えて、今度こそ自分が実権を握ろうという腹積もりか」


 朔の頭は相変わらずよく回る。望遥は感動を覚えたが、のんきに語り合っている場合ではない。ひとまず膝をついたまま動けずにいる道行を立ち上がらせた。


「では、兵たちは私を追っているのか」


「いえ。望遥様を真剣に探しているのは、張忠様や上級武官──巽様の息がかかった僅かな者たちのみです」


 道行はちらりと朔を気にしながらも、はっきりと告げた。


「兵たちは皆、望遥様を信じております。貴方がどれほど陛下に心を預けていたのかも、共に北の地で戦った者であれば存じ上げております。そのような方が謀反など……兵の大半は巽様には従いますまい」


 望遥は胸を打たれ、しばし黙り込んだ。


 危険な北の国境で、兵と共に戦ったことがこうして今自分を助けている。あの時、いつギルジャ族の襲撃があるか分からない夜半過ぎの焚火の前で、朔は素晴らしい王であると語った時間が、確かに今に繋がっていた。


「では月の宮をうろついているのは、私を亡き者にしようという陽善と、望遥を捕らえようという巽ということだな。この二人が共犯という可能性もあるが……」


 静かになった望遥に代わり、朔が状況を整理する。道行は緊張に顔を強張らせながらも頷いた。朔は足先で床を数回叩くと、ふむ、と吐息を漏らした。


「であれば、私たちが行くべき場所も決まったな」


「なに?」


「巽と陽善が手を組んでいたとしても関係ない。私たちの味方が最も多く、反撃も可能な場所がある」


 朔はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。そして、顎で道行を指し示す。


「兵の大半は望遥の信奉者だ。兵部省へ行けば、状況をひっくり返すことができるかもしれない」


 望遥たちが兵部省に到着すると、そこには異様な雰囲気が漂っていた。


 武装した兵たちがあたりをうろつき物々しいが、彼らからは覇気を感じなかった。その顔を見れば、ギルジャ族との戦いで覚えがある者ばかりだ。自室で別れた道行からは「巽の兵に見つからなければ問題はない」と言われていたが、その言葉を信じてもよさそうだった。


「朔。ここからどうするつもりなんだ」


 通路の隙間から外を伺い、囁く。望遥の言葉に、朔は気負う様子もなく言い放った。


「どうもこうもない。正面から行く」


「正気か? 大半が味方とはいえ、どこに巽たちがいるのかも分からないというのに」


「私は皇帝だ。この国の頂点に位置する者。恐れ隠れるのは私ではなく、巽たちだ」


 朔は尊大な態度でそう告げると、通路から出て、衣の土汚れを払う。そしてこちらを振り向き、出てくるよう合図をした。


「お前は私の後ろを歩いてくればいい」


 朔は退くつもりはないようだ。彼の思慮深さはどこへ行ってしまったのかと一瞬頭を抱えるが、結局望遥も通路から体を引っ張り出した。朔のことだ、考えがあるに違いない。


 望遥の自室へは九ノ兵の衣を取りに行ったが、結局朔も望遥もそれを着ることはなかった。朔がそのままで良いと言ったのだ。望遥には理由の予想などつけられなかったが、大人しく従った。


 そのため、朔は金糸の織り込まれた唯一の衣を纏っている。衣の前見頃には、朔たちが生まれた時に姿を現したとされる大鳥が刺繍されていた。輝かしいその衣は、一目で皇帝その人と分かるものである。そしてそれに付き従う望遥もまた上級武官である緋色の衣であり、この二人が供も連れずに兵部省へ向かってくれば、すぐに目を引くのは道理であった。


 周辺にいた兵が、はじめに気が付いた。彼もギルジャ族との戦いに尽力してくれた兵の一人だ。朔と望遥が歩いていることに呆気に取られてから、二人を匿おうとこちらへ駆け寄ってくる。


 しかし、朔はそれを片手で制した。


 す、と音もなく掲げられた手によって、兵はその場にぴたりと止まった。目を大きく見開き、口を薄く開いたまま、何者かに時を止められたかのように静止する。その間も、朔は歩みを止めることはない。


 歩き続けるうち、朔と望遥の存在に気が付いた者の波が徐々に広がっていく。だが、なぜか大きな騒ぎとはならなかった。誰かが声を上げようとするたびに朔の鋭い眼差しが飛び、その者を諫める。兵たちは知らず知らずのうちに道を空け、かき分けられた人の壁が兵部省の建物へ向かってまっすぐに伸びていた。


 ──これが、民の前に立つ皇帝の姿。朔の持つ力。


 望遥は我を忘れ、前を歩く朔に見惚れていた。


 朔は、望遥のように人の心を集めることはできないと嘆いていた。望遥は誰彼構わず話しかけ、友人のように接してしまう。それが結果的に良い方向へ働き、いつも助けられている。


 しかし、朔は違う。彼は、畏怖によって相手を圧倒し、自らに跪かせる力がある。呪われた出自が人々に恐れを抱かせるのか、それとも朔の持つ雰囲気がそうさせるのか。朔がちらと目を向けるだけで、相手は射すくめられる。それこそが、朔の皇帝としての姿だった。


 朔は兵部省の入口へ到達すると、立ち尽くす兵の一人に声をかけた。


「陸正はいるか」


 話しかけられた兵は、脱力したようにどっと膝をつき、頭を垂れて「すぐに呼んで参ります」と告げた。それから今度は飛び起きて、兵部省の中へ駆け込んで行った。

 しばらくの後、兵部省からは巨体が転がり出てきた。陸正だ。


 彼は目を白黒させながら望遥たちを見、それからほうけた顔で「ご無事でしたか」と呟いた。望遥がそれに頷いてみせると、ようやくほっと表情を和らげた。それから、大きな体を窮屈に縮めて朔へ頭を下げる。


「上級武官は巽の言いなりと聞いたが……お前はどうだ、陸正」


 朔に問われ、陸正は頭を下げたまま即答する。


「巽様に従うのは、北原での戦いを知らない者だけです。あの地で望遥殿が我らと共に剣を取ってくれたことを知っている兵ならば、あのような命令を聞くはずもありませぬ」


 その言葉を聞き、朔は「よし」と答えた。それから陸正の顔を上げさせる。


「陸正。兵を集めてもらいたい」


「は。しかし、下級の兵にも多少『理解の悪い者』はおりますが……」


 望遥や朔が害される危険を考えてか、陸正が口ごもる。そこへ望遥は割って入った。


「頼む。朔の言うようにしてくれ」


 望遥自身からそう告げられ、陸正は納得できないと言いたげに口を曲げつつも了承した。皇帝の命令に反発してみせるとは、陸正は恐れ知らずというべきか、望遥への忠義に厚いというべきか。「兵」という生き物の御し難さを望遥は改めて実感した。


 陸正は銅鑼を叩かせ、月の宮に散っていた兵を呼び寄せた。体を震わせるような銅鑼の音が、夜の空に響き渡る。朔と望遥は、兵部省の入口付近に立ち、兵たちの様子を眺めていた。


 それからしばらくして、駆け足の兵たちが兵部省へ集結しはじめる。彼らは皆、望遥と朔の存在に気が付くなりぎょっと目を剥き、呆然とした。中には激しく動揺している者もいたが、彼らは巽や陽善の手の者だろうか。落ち着かない様子ではあったが、すぐに望遥たちの目の前に飛び出してくるほどの度胸はないようだった。


 粗方の兵が集まると、彼らは陸正の指示によって整列した。兵部省前の庭に収まらなかった者たちが、塀や屋根に上り、なんとか朔たちを視界に入れようと奮闘している。朔はそれらを無礼と咎めることなく、大勢の兵を前に背筋を伸ばして立っていた。


「望遥、何か話せ」


 すると、小声で朔から囁きかけられ、望遥は吐息の音を漏らした。何を、と目で問いかけるが、朔はそれ以上何も言わなかった。


 何か、と突然言われたところで、何を話せばいいのか。望遥は頭を悩ませたが、その思考をすぐに捨てた。あれこれと考えるのは自分の性には合わない。思うままに振る舞えばいい。


 望遥は一歩前へ進み出た。

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