第五章 動乱の夜

第22話 太り月夜

 望遥は庭に出て、空に浮かぶ月を眺めていた。


 考え事に囚われている時、部屋の中に閉じこもっていると悪い方にばかり思考が転がって行ってしまう。そのため、庭で剣でも振って気を紛らわそうと考えたのだが──それはあまりうまくいっていなかった。構えをとって、何度か剣を振り抜いてみても、頭の中を漂う不穏の影は晴れてくれない。望遥は自身の愛刀をぶら下げたまま、ぼんやりと空を仰いでいた。


 ここ最近、庭で空ばかり見ている。


 日が落ちた空には、いつかのようにとんびもいない。円に近づき膨らんだ月が、ぽっかりと空に浮いている。あと数日もすれば月は完全に満ちて満月となる。だというのに、望遥の胸の内は焦りに支配されたままだった。


 陽善にはめられてから、望遥はどう動くべきか悩んでいた。


 彼の思惑は分かっている。望遥を利用し、陽善派を再起させて玉座の奪還をしようと目論んでいる。望遥を皇帝に据え、自分はそれをそばで操ろうというのだろう。巽が朔を利用して為そうとしたことと全く同じである。全く、貴族というものは本当に権力が好きなものだと呆れてしまう。


 ──望遥様がおりますれば、我らの力も取り戻せましょう。


 陽善は薄っぺらい笑みを浮かべ、こちらを懐柔するように囁きかけた。陽善派の頭となるよう、望遥に持ちかけた。陽善は決断を急がせはしなかったが、望遥に圧力をかけることには成功していた。


 朔を裏切りたくない望遥にとって、「玉座の簒奪」を相談されたこと自体が危険だった。このことが朔に知られたら、きっと彼は真っ先に望遥を切り捨てるだろう。そしてそれだけで話が済めばいいが、陽善がそれだけで終わらせるとは思えない。きっと何らかの理由をつけて、朔を引きずり降ろそうとするはずだ。そうなった時、望遥が既に胴体と首で分かれていては、力になることができない。しかし、かといって現状を打破するだけの案を、望遥は持たなかった。こういった頭脳労働は苦手なのだ。


 朔に相談しようにも、先日怒鳴り合いになってしまった手前、顔を出しづらい。四六時中望遥を監視している夜影の報告によって、陽善と話をしたことは知られているだろうが、朔が動く様子はない。望遥の処遇を考えているのだろうか。


 すると、背後に気配を感じた。


 何者か、と咄嗟に振り向くと、そこにいたのは満だった。


「……満?」


 彼女は恐らく、庭で棒立ちをしている望遥を気遣って声をかけようとしていたのだろう。突然振り向いた望遥に驚いて目を瞬いていた。しかしすぐに気を取り直すと、さっと礼の姿勢をとって頭を下げた。


「訓練のお邪魔をしていまい、申し訳ございません」


「いや、構わない。どうせ剣を振ってもいなかった」


 くっと自嘲気味に笑うと、まるで自分が朔になったような錯覚を覚える。時間を共にするうちに、似てきたのだろうか。とりとめもないことを思いながら、満へ目を向ける。


「来てくれて助かった。一人では、考えが頭の中を回ってばかりで、妙案が浮かぶ様子もなかったのでな」


 人差し指を立てて、こめかみの近くの空気をぐるりとかき回す。その茶化すような動きがおかしかったのか、満はくすりと微笑んだ。しかし望遥の隣に立つと、可愛らしい笑顔はすぐにしまわれた。


「お悩みは、まだ続いているのですね」


「残念ながらな。お前の言う通り、他の者の考えを聞いてみたのだが……聞く相手を間違えたらしい。自分の愚かさが嫌になる」


 肩をすくめるが、今度は満は笑わなかった。彼女は、その柔らかな雰囲気に似合わぬ鋭い目つきで望遥を見ていた。そして、囁くように告げる。


「不敬にも、お言葉をお許しいただけるのでしたら……」


「言ってみろ」


「望遥様は……今も、私と同志でいらっしゃいますか」


 その言葉に、望遥は言葉を失った。


 満と出会ったばかりの頃、彼女が朔を皇帝として認めていると知り、望遥は言った。望遥と満は、朔の忠臣としての同志なのだと。


 満は、その言葉を違えていないかと問いかけている。望遥が陽善と話をしたことを耳にしたのかもしれない。謀反の兆しありと噂される望遥の心が、未だ朔の元にあるのかどうか、彼女はそれを問いただしてきた。すなわち、満が今も朔を皇帝として慕い、尽くしていることの現われだった。


「なぜ……そこまでの忠義を尽くす? お前は双子の呪いを恐れているだろう。その上で、なぜ朔を信じている?」


 望遥は戸惑い、喘ぐように問いかけた。


 この国において、双子への忌避感は強烈だ。いかに誕生時に瑞兆があったといえど、朔が呪われた皇帝であるという抵抗は、民の間にも月の宮の人間にも根深く居着いている。その中で、朔を恐れる気持ちと共に彼を認め、忠誠を誓っている満の真意を知りたかった。


 満は背筋を伸ばして答えた。


「私の従兄弟は北原の警備にあたっておりました」


「……それはいつ頃の話だ?」


「私が幼い頃、十年は前のことでございます」


 十年前というと、朔がまだ北原で巽と共に潜伏していた頃だ。ギルジャ族の脅威に晒される北方の地で、満の従兄弟は過ごしていた。


「従兄弟は正義感の強い青年でした。ギルジャ族による略奪や誘拐、破壊活動を許せなかった。けれど、その頃の北原はギルジャ族と繋がっておりましたので、咎めようにも、一兵士に過ぎない従兄弟には何も出来ず……悔しい思いをしていたと」


「彼は、今は?」


 満が目を伏せる。下を向いたまつ毛の影が、頬に落ちる。


「ある時、従兄弟が帰らぬ人となったことだけが知らされました。亡くなった原因は教えてもらえず……」


「死因が分からなかったと言うのか?」


「少なくとも、私たちには知らされませんでした。ですが、父は常々言っていました。彼はきっと、ギルジャ族との諍いによって命を落としたのだ、と」


 望遥は言葉を飲み込んだ。


 満の従兄弟ということは、仮にも都に暮らす貴族の親族であったはずだ。その彼が命を落としても問題にならなかった。いや、巽が握り潰したのだ。


 同じような話を、北へ遠征していた頃に陸正から聞いたことがある。


 ──以前の北原は酷いもんでした。元より北の国境付近で火種が燻ってるって言うのに、巽様が月の宮から引き上げてきてからは、ギルジャ族の奴ら益々つけあがりやがって。うちの民が誘拐されていっても、それを取り返しに行くことすらできない。悔しかったですよ。


 その話をした時の悔しさ、憤りが再び望遥の胸を満たす。強く、拳を握りしめた。


「ですが陛下は、北からギルジャ族を切り離してくださいました。数多の困難があった事と思います。それでも、北原をかの蛮族たちの手から救い出してくださった。そのご恩を、私の家の者は皆忘れてはおりません」


 満ははっきりと口にはしなかったが、恐らく巽のことを恨んでいたはずだ。一族の者を死に追いやり、そして原因を隠匿した。何故なのか、と怒ったであろう、悲しんだであろう。巽が月の宮へ帰還し朔を擁立した時に何を思ったのか、想像もできない。


 だが、朔は巽を切り捨てた。自らの目で見続けてきた北原の窮状を憂い、巽の意に背いてでも北伐を実行することを選んだ。満はその事を、今でも恩に感じているのだ。


「陛下は確かに、双子としてお生まれになりました。その事で口さがない噂を立てる者もおりましょう。けれど、私たち一族は、陛下に大恩がございます。これに忠義で返さずして、何といたしましょう」


 満の目には強い決意が宿っていた。双子を恐れる気持ちを持ちながらも、彼の起こした行動を信じている。家の者が受けた痛みを晴らしてくれた恩として、忠誠を誓うと決めている。彼女には、一つ通った筋のようなものがあるのだ。


「なるほど、よく分かった」


 望遥は頷き、満の思いを受け取った。彼女は話しながらどこか熱が入っていたのか、望遥の笑みを見て、ふっと肩の力を抜いた。それから再度、望遥の真意を問うように目を向けてきた。望遥は、その視線に小さく笑って見せた。


「今も同志のままか、という問いには……そうだと答えよう。私は、今も朔を信じている」


 望遥の言葉に、満はぱっと顔を明るくした。それからさっと頭を下げて礼をする。彼女は頭を下げたまま謝罪をした。


「望遥様のお心を試すようなことをしてしまいました。どのような罰も受けます」


「良い、許す……お前はいつも罰ばかり求めているな」


 望遥が笑うと、彼女もまた顔をあげて微笑んだ。初めて出会った時のような怯えは、そこにはなかった。見つめあうと、満の瞳の透き通った色がよく分かる。


 不思議な空気が、二人の間に流れた。言葉を交わさなくとも、満の考えが手に取るように分かるようだ。望遥は初めて満という人間の心に触れられたような気がした。彼女が何を思い月の宮にいるのか、それを知った今、彼女のことを心から尊敬していた。家の誇りを忘れず、家が受けた恩を忘れず、たおやかに折れることなく朔に仕えるその強さ。芯の通った彼女の姿勢に、望遥は感銘を受けていた。


 望遥が満を見る。満もまた、望遥を見ていた。


 永遠のような一瞬の後、何者かが駆け足で歩み寄ってくる気配で二人は我に返った。知らず近づいていた距離をはっと離し、なんでもない顔をする。満が駆けてきた人を振り向くのを、横目で見ていた。


「み、満様」


 駆けてきたのは、満と同じ服装をした女官だった。彼女は満の隣に望遥の姿があることを知ると、慌てた様子で頭を下げた。望遥が楽にしろと伝えると、彼女はそわそわとしながら満に耳打ちをする。


 満は耳元で告げられた内容に顔を強ばらせた。真偽を確かめるように女官の顔を見ると、彼女は青い顔で頷いた。


「分かりました。貴方は皇后様の元へ戻ってください、かの御方をお守りするのです」


 満が発した震える声に、女官は頷き、不安定な足取りで元来た道を戻っていく。望遥が何事かと様子を見守っていると、顔面蒼白の満がこちらへ向き直った。

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