第21話 朔の夜の影はあたたかく

 再び旅に出ると話す師を見送ると、その頃には日は沈み、夜の闇がすっかりあたりを覆い尽くしていた。部屋の中で蝋燭の明かりが揺らめく。


「夜影」


 朔は忠臣の名を呼んだ。すると、即座に空気が動き、黒い人影を浮かび上がらせる。夜影は膝をついた姿で現れ、朔の前に頭を垂れていた。


「顔を上げろ」


 夜影が朔を見上げる。そこで、朔は改めて夜影の姿をじっくりと眺めた。


 墨を流したような黒髪に、同じく黒い衣。そこから病的に白い手と顔だけが露出し、この世のものならざる雰囲気すら感じさせた。


 北原にいた頃から付き従ってくれた彼に、それ相応の地位を与えるか迷っていた頃もあった。だが、夜影はそれに頷かなかった。朔の言葉には全て従ってきた彼も、それだけは頑として受け入れなかったのである。


 ──朔様には、目となり耳となる影の者が必要でございます。そしてその者は、朔様に忠誠を誓う者でなければならない。であるならば、私が朔様の影となりましょう。貴方の目が届かない裏側まで、私が駆けていきます。


 夜影はじっと朔を見つめている。そこには、恐れも憐憫もない。ただ、尽くすべき主を見上げる静かな忠誠の心が、真っ黒な瞳から伝わってきた。


「お前の心は、まだ私の元にあるのだな」


 その言葉に、夜影は一瞬目を瞬いた。しかしすぐに、強く頷いて肯定の意を示す。


「北の地で生まれた哀れな双子の男は、拾っていただかなければどこぞで野垂れ死んでいたでしょう。この命は、その時から陛下のものでございます」


 朔はふっと笑った。そして夜影の前に立ち、彼を見下ろした。


「一つ、尋ねたい。私が月の宮へ戻ってから、ほとんど全ての時間を望遥の監視に費やしてきたお前に」


「なんなりと」


 朔は浅く息を吸って、告げた。


「望遥は私を裏切るだろうか」


 ほんの僅かな間だけ、静寂が聞こえた。しかしそれは夜影の声ですぐに打ち破られる。


「いいえ」


 朔の疑問に関して、夜影ははっきりと断言した。


「他者の策略に絡め取られることはあっても……あの方自身が陛下を裏切ることはないでしょう。あの方は陛下を信じていらっしゃる」


「お前はそう考えるのだな」


 夜影がさっと顔を伏せる。自分の考えは口にしたが、最終的な判断は朔に任せるということだろう。夜影の白い首筋が、朔の前に晒されていた。


 ──貴方を見ている者は必ずいます。


 流経直士の言葉が脳裏をよぎる。師が言っていたのは、望遥のことだけではない。夜影は、朔を心から慕い忠義を尽くしてくれる数少ない同志だった。そしてその同志は、数は少ないとしても確かに存在している。


「……では、私も信じよう」


 朔は頷いた。再び顔を上げるよう命じ、夜影の瞳を覗き込む。


「お前の判断を信じる。私に尽くしてくれたお前の忠義を」


「……ありがたき、幸せです」


 朔から飛び出した言葉に、夜影は僅かに動揺した。常に冷静なこの男にしては珍しく、瞳が揺らいで、一瞬だけ泳ぐ。しかしそれもすぐに収まり、静かな色の瞳が朔を見つめ返した。


「望遥を呼べ。人目につかないよう」


「は」


 夜影は短く答えると、さっとその姿を消した。後には揺れる蝋燭の火だけが残る。朔は椅子に腰掛け、顎を撫でながら兄の来訪を待った。


(私も向き合う時が来たようだ。私の内側に巣食う殺意と)

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