第20話 真っすぐに流れ

 朔は沈痛な面持ちで夜影の報告を聞いていた。


「望遥様は陽善とお話になり、それからご自身の部屋へお戻りになりました。その間、誰かと接触する様子はありませんでした」


「何を話したのかは」


 朔の質問に、夜影はさっと頭を下げた。


「申し訳ありません。礼部省の内部には潜り込めず、交わした言葉までは確認が取れておりません」


 朔は崩れ落ちるように椅子に座った。そのまま深く溜息をつき、額を押さえる。じわじわと締め付けるような頭痛がしていた。


 恐れていた通りの事態となった。


 望遥は、流民に対する朔の対策──いや、その他にも理由はあるのかもしれない──によって、心が離れた。その隙を陽善に突かれ、うまく取り込まれてしまった。実際に望遥と陽善がどのような会話をしたのかは定かではないが、朔から玉座を奪い取るための話が出なかったとは思えない。


(こうなっては、望遥を殺すしか手はないか)


 しかしそうなれば、兵部は一気に朔の手元から離れることとなる。望遥は今や、兵部の全てを握っていると言ってもいい。張忠などは名ばかりの兵司であり、実際に兵を動かす力を持っているのは望遥だ。それらを失ったとなれば、朔の力は大きく削がれる。賢明な判断とは言えなかった。


 だからと言って陽善を処断すれば、今度は月の宮の勢力が動く。巽と全面的な派閥争いが始まった場合、朔の勝率はそう高くない。巽は、郷中を失って以来大人しくしているが、牙を失ったわけではないだろう。朔が気を抜けば、すぐに喉元へ食らいついてくるはずだ。


 朔は、陽善のにやけ面を思い浮かべた。きっと今、彼は自身の計画が順調に進んで有頂天だろう。朔すらも、陽善の手のひらの上で転がされている。苛立ちを感じ、こめかみを指先でとんとんと叩いた。


「とにかく、お前は今まで以上に望遥の行動に目を光らせろ。怪しい動きがあればすぐに私へ報告するように」


 そう命じると、夜影はさっと礼をしてから姿を消す。後には、揺らめく蝋燭の光と壁に映る影だけが残った。


 朔は揺れる小さな炎を見つめながら思案した。


(望遥は、陽善の手を取ったのだろうか。彼に協力し、自らが皇帝となると)


 分からない。望遥という男は、朔の予想を遥かに超えてくる。彼が何を考え、どんな動きをしてくるのか、朔には予測できなかった。


 こんなことになるのならば、もっと早くに望遥を殺しておくべきだったか。


 そのことについて考えてみても、答えはいつも同じだ。ギルジャ族に対抗するため、早期の兵部掌握は必要だった。そのためには望遥が生きていなければならない。そして、北伐を終えた後の兵部は既に望遥に心酔していた。望遥を殺すことができる瞬間は、朔には存在しなかったのである。


 時折訪れる強烈な殺意を、朔は理性でもって押しとどめてきた。必要だと思ったからこそそうしてきたというのに、その結果がこれか。望遥に裏切られ、朔はこのまま帝位を失うのか。


 朔が打ちひしがれていると、扉の外から声がかかった。皇帝付きの女官の声だ。


「陛下。直士ちょくしが陛下への謁見を希望しているのですが」


 朔は訝しんだ。今日は誰とも約束はしていないはずだ。それに直士などが皇帝に会って何を話そうと言うのか? 


 直道ひたみは、人が善く生きていくための道を説くものだ。貧しい民に寄り添うような教えが多いため、貴族や月の宮ではあまり主流ではない。朔だって、北原にいる頃に流経直士るけいちょくしから教えを受けなければ無関心でいたであろう。その僧たる直士が、朔に何の用があるのか。


 そこまで考えてから、はっと気が付く。朔は戸の外の女官へ呼びかける。


「その者の名は」


流経るけいと」


 その言葉に、朔はすっと背筋を伸ばした。それから声を僅かに上擦らせながら、私室へ通すよう命じる。


 平時謁見が執り行われる太平殿ではなく私室へ呼んだことに、女官は微かに動揺していたが、意見をしてくることはなかった。そのまま下がっていき、客人を呼びに行く。


 そのまま落ち着かない気分で待っていると、しばし間を空けてから来訪者が案内されてくる。軽い戸が軋みながら開き、その向こうにいる小さな人影を露わにした。


 その影は細く痩せた老人の姿をしていた。薄汚れたぼろきれのような衣を身に纏っており、かなり高齢の男性のように見える。だが見た目から察せられる年齢の割に、まだ背筋はしっかりと伸びている。顔には深い皺が刻まれているが、年ばかりをとった貴族のような頑固さはそこにはない。皇帝の前でも緊張した様子はなく、凪いだ湖に似た穏やかな空気がある。薄くなった白髪をひっつめて結び、理知的な眼差しを朔へ向けていた。


「流経直士」


 やはり、彼であった。北原にいた頃、朔を教え導いた師。直道では高名な僧である。


 朔は椅子から立ち上がり、彼を出迎えた。流経直士を連れてきた兵たちは、朔の態度に驚きを隠さない。


 流経直士は、朔の顔を見るなり深く礼をした。朔もまた彼に習って礼を返そうとしたが、兵たちの目がある。流経直士が朔の師であったとしても、皇帝の立場は彼に礼をすることを許さない。朔は一度呼吸を挟んで心を落ち着け、兵に改めて命じた。


「私の客人だ。人払いをせよ」


 兵は、はっと短く答えると、流経直士を中へ入れ、扉を押した。戸が閉まると、煌びやかな室内には朔と流経直士の二人だけとなった。


 朔は椅子から立ち上がると、流経直士の元へ駆け寄った。


「先生、顔を上げてください」


 朔にそう言われ、彼はようやく頭を上げた。そして、温和な笑みを浮かべて朔を見つめた。


「立派な王となられましたね」


「いえ、そのような。理想には程遠い若輩者です」


 朔の謙遜にも、流経直士はただ笑みを向けてくるばかりである。昔と変わらない笑みに懐かしさを覚えながらも、彼が記憶の中よりも痩せていることが気がかりだった。


(年月が過ぎたのだ、人であれば老いもする)


 そう理解はしていても、師と仰ぐ人物が老い、徐々に命の終わりに近づいていくのは受け入れがたかった。朔は一瞬だけ物思いに沈んでから、すぐに気を取り直した。


「今日はなぜこちらへ? 私が北原を発つのと同じくして、各地を巡る旅へ出られたと伺っていましたが」


「偶然、都の近くを通ったのです。そこで、貴方のことを思い出しました。久方ぶりに顔を見たくなり……突然の来訪で申し訳ない」


「いいのです、先生。私も先生とこうして会うことが出来て嬉しく思います」


 流経直士に椅子を勧め、自らも座る。流経直士は、やはり静かな笑みでもって朔の言葉に答えた。


 こうして向かい合って座ると、北原で教えを乞うた幼年の頃に戻ったようだ。


 朔は昔に帰ったような気持ちで流経直士へ語りかけた。


「先生。直道には『困難はあるべき姿でしか現れることはない』、つまり、乗り越えられない試練は訪れないという教えがありますね」


「はい」


「では、私が皇帝という地位を脅かされたとしても、それは必ず乗り越えられるのでしょうか」


 朔は皇帝という立場に立ってからほとんど初めて、弱音を吐き出した。流経直士は、朔が弱い内側を見せられるほぼ唯一の人間だった。


 流経直士はゆっくりと瞬きをし、口を開く。


「貴方が最大限の努力をしていれば、必ず乗り越えられるでしょう」


 その言葉には、暗に「朔にはまだやれることがある」という意味が込められているように感じられる。朔は思わず声を荒らげた。


「私はこれまで全力で走ってきました。北原で学んでいた頃から、今まで……これ以上など、どこにその余地があると」


 そこで、流経直士がじっと朔を見つめていることに気がつく。静かな瞳が、何を言うこともなく朔を見据える。まるで心の奥まで裸にしていくように。その視線に圧され、朔は言葉の続きを呑んだ。


 部屋に沈黙が落ちる。やがて朔が落ち着きを取り戻すと、流経直士はゆったりと告げた。


「貴方にはこれまで数多の困難があった。双子として生まれたこと、傀儡として利用するために連れ去られたこと……ですが、貴方は立ち上がった。巽殿ではなく自らの意思で、国を握った」


 流経直士の眼差しに晒されたことで、気がついたことがある。


 朔は、自身の計画を彼に話したことはない。双子の弟として歩んできた呪われた人生をひっくり返すために皇帝となり、善い政治を行うことで人々を見返してやろうという朔の思惑は、望遥にしか語ったことはなかった。しかし、こうして流経直士の前に座ると、それら全てが見透かされているような感覚に陥る。きっと、彼には全てが見えている。朔が憎しみでもって皇帝となり、民のためではなく自分の目的のために王としての力を振るっているのだと。


「貴方の道の始まりは呪われていたのかもしれない。しかし、今の貴方はそれだけではないでしょう。道を切り開き、歩んだことで、得たものがあるはずです」


「ですが、私が何をしようとも、人々は私を呪われた子としてしか見ない。皆が私に従うのは、恐れからのみです」


 兵、女官、官僚。皆が朔を見る目には、はっきりとした恐れが映っている。呪われた皇帝に恐怖し、その厄が自身に降りかからないよう祈っている。忠誠心などあるはずもない。


「本当に?」


 流経直士が囁く。その問いかけに朔は頷くが、彼は納得しなかった。


「よく、思い出してごらんなさい。目を閉じて、感じて……貴方を見つめる目を」


 引く様子のない流経直士に困惑しながらも、師の言う通りにした。目を閉じると、暗闇が降りてくる。流経直士の気配は希薄で、瞼を下ろしてしまえば途端に一人きりのように感じられた。自分の呼吸する音だけが聞こえ、しかしその音も段々と遠のいていく。


 それは過去、直道の教えを受けていた頃と同じ感覚だった。流経直士の声を聞いていると、こうして自分の精神とだけ向き合う時間が訪れる。見栄や自尊心が剥がれ落ち、自分に必要なものだけを見つめられる時間が。


 光も、音もない。朔だけを椅子に残したまま、世界は通り過ぎて消えていった。


(私を見る目。憎しみと、恐怖を抱いた目)


 思い出されるのは、そんなものばかりだった。朔を軽んじるばかりで、尊重されたことは一度もない。敵意を含んだ眼差しにはもう慣れている。朔を一人の人間として扱うのは、この世界で流経直士だけだ。そう再確認し、目を開けようとした、その時。


 一陣の風が吹き抜けた。


 はっとすると、そこに浮かんでいたのは、自分と同じ顔をした男だった。


 否、昔ほど似てはいない。月の宮に閉じこもってばかりの朔と違い、彼はすぐに外へ飛び出していき、兵たちと一緒になって訓練に混ざる。ほどよく日に焼けた肌と、しなやかな筋肉のついた体。健康的なその彼の目は、動物のように純朴で曇りがなかった。


 ──望遥。


 望遥はいつも、朔を正面から見据えていた。彼が朔に対し、恐れや軽蔑を向けてきたことはない。朔の行動に失望はしたが、それは朔に期待をかけていることの裏返しだった。望遥は朔を信じていた。民のための国をつくること。そのために彼は自分の力を朔に預けていた。無謀ともいえる北での戦いに文句ひとつ言わず従った。その他、理不尽にも思える要求にも。


 よく見れば、望遥の傍には違う人の影もある。彼らはぼやけた姿から徐々に霧を晴らし、人の形を取った。


 それは宵華や青月、夜影の姿だった。彼らの目の中に恐れはなく、ただじっと、一人の人間として朔を見つめていた。


(そうか。私を見る者は、少なからずいるのだ)


 朔はひとつ深呼吸をした。爽やかな空気が肺を満たし、朔の中に巣食う疑念を払っていく。


 望遥の黒々とした瞳が朔を見る。彼はゆっくりと頷き、微笑んだように見えた。


 朔が目を開けると、世界が急速に形を取り戻した。花窓からは陽光が差し込み、外の鳥の囀りを届ける。目の前には、先ほどと変わらない流経直士の姿があった。


「『生きる者は助け合い、これを続けよ』……これもまた、直道の教えです」


 流経直士が言う。朔が頷くと、彼はやはり笑みを浮かべたまま続けた。


「貴方を見ている者は必ずいます。その者たちと助け合いなさい。きっと、それ自体が貴方の助けとなるでしょう」


 朔は静かに立ち上がった。そして師へ向けて、手を合わせて深く礼をする。朔はしばし、そのまま頭を下げ続けていた。

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