13.零れ落ちる言葉
都内某所、もう誰も住まないアパートの一室。
壁にはカビが点々と浮かび上がり、畳は朽ちかけていた。
そんな部屋に、男はいた。
名を、織田(おりた)という。齢は五十に差し掛かろうとしていたが、その顔には子供のように無垢で好奇な色が浮かんでいる。革靴を履いたままの彼の足元には、数冊の古びたスケッチブックが散らばっている。
織田は、この都市に満ちる『幻詩(げんし)』を狩る者だった。
幻詩とは、人々の無意識のつぶやき、忘れ去られた夢の残滓、あるいは未来への微かな予感。それら言葉の断片が、ごく稀に空間に定着する現象を指す。
通常、それは意味をなさない単語の羅列か、支離滅裂な自由詩とも呼べない代物にしか過ぎなかった。だがごく稀に、それらが特定の条件下で繋がり合い、ある種の予言めいた『真理』を垣間見せる幻の詩となる。
織田は、その稀有な詩を求めて、朽ちたビルや廃墟となった地下街を、連日彷徨っていた。
その日、織田が狙っていたのは、このアパートの最上階で、夜毎囁かれるという『詠み人知らずの詩』だった。
数日前、友人の情報屋から連絡が入った。今では廃墟となったアパートを寝ぐらとする、ホームレスからの情報だ。
深夜決まった時刻に特定の部屋から、意味不明ながらも、どこか予言めいた詩が詠まれるのが、微かに聞こえてくるのだという。内容までは聞かなかった、聞いても無駄だからだ。
それでも、ホームレスは金目当てのために、織田の興味を惹こうと耳障りのいい言葉を並べ立てるが、それが嘘だと言うのはわかっていた。
遠い過去から届く、誰かの祈りのようだと言ってはいるが、内容までは覚えてないという。それは当然だろうと、織田は苛立ちを覚えた。
何より、彼は自分で確かめない限り何も信じない男なのである。
「雨、降る。誰彼時(たそがれどき)、開かれしは黒き門。我は待つ、赤き門にて……」
微かな、しかし確かに存在する陰鬱に過ぎる声が、織田の耳に届いた。
彼は息を潜め、速記術でスケッチブックにその言葉を書き留める。幻詩は、織田のような『幻詩を狩る者』たちが何かに書き記すことで、言の葉の力を失う。そして、空間だけではなく人の記憶からも消滅してしまうのである。音声や動画、各メディアではデータとしてなぜか記録できないため、織田は常に筆記具を持ち歩いていた。
書き逃すと現実にどんな悪影響を及ぼすかは、誰にもわからない。
大きな災害が起きてから、『幻詩』との関連性が毎回検証されるというレベルだ。
最後まで書き終えた途端、室内の空気がわずかに張り詰め、詩を紡ぐ陰鬱な声はぴたりと止んでしまった。
織田は声が聞こえてきた部屋に躊躇なく踏み込んだ。いつも通り、その部屋はもぬけの殻で人の気配などなかった。
「そうだ。仮にいるとしても、それが人であるはずがない」
織田はそれでも満足げに頷き、別のスケッチブックを開く。そこには、過去に彼が採集した幻詩がぎっしりと書き込まれていた。
「風が哭く。廃れた街路に、残るは影」
「微睡む記憶、揺れる炎。消えることなき灯火は、誰がために」
「欠けた月、映すは虚ろ。過ぎ去りし、遠き日々は、夢か現か」
それらの詩は、ひとつひとつは断片的ではあるが、どこか共通のテーマがあるようにも織田には思えた。それは、喪失と再生。あるいは、存在の儚さ曖昧さ。
彼はこれらの幻詩が、最終的にひとつの巨大な『黙示録』を構成しているのではないかと考えていた。かつて世界を揺るがした大災害。その際に歴史から失われた、ある重要な『鍵』ではないのかと──。
幻詩は、その鍵の在処を示す、或いはその鍵が解き放つ『真理』の断片なのではないか、と。
その時、閉めきられていたはずの窓から、微かな風が吹き込んできた。破れたレースのカーテンが、ゆっくりと揺れている。
織田は顔を上げた。
窓の外には、月明かりに照らされた、東京の高層ビル群が墓標のように建ち並んでいる。その中に、ひときわ高くそびえ立つ、かつての旧庁舎の廃墟が見えた。
まるで、その旧庁舎が、織田を呼んでいるかのように、彼には思えた。
織田はスケッチブックを抱え、静かに立ち上がった。次なる幻詩の気配が、彼を呼んでいる。
都市の片隅で、彼はまた言葉の欠片を追い求めるのだろう。
それらが導く先が、真理なのか、それとも単なる幻影なのかを知らぬままに──。
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