12.答える男

「はい」と、目の前の男はにこやかに答えた。


 わたしが尋ねたのは、彼の名前だ。しかし、彼はわたしの問いをまるで理解していないかのように、ただ満面の笑みを浮かべ続けている。


「あの、失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


 もう一度尋ねる。今度は少しだけ、語気を強めて。すると男は、わたしの言葉を聞き取れないふりをするかのように首を傾げ、ゆっくりと口を開く。


「はい」


 また、それだ。わたしは内心、苛立ちを覚え始めていた。この男は、わたしをからかっているのだろうか? それとも、本当にわたしの言葉が理解できないのか?

 わたしは男の顔をじっと見つめる。細い目、薄い唇。どこにでもいそうな、ごく普通の顔だ。しかし、その顔には、どこか奇妙な、とらえどころのない雰囲気が漂っている。

 男は、わたしの視線に気づいたのか、さらに笑みを深めた。その笑顔は、まるで貼り付けられたみたいに不自然で、わたしにはそれが、ぞっとするほど恐ろしく感じられた。


「あの、どちらからいらっしゃいましたか?」


 今度は、質問を変えてみる。しかし、男の答えはやはり同じだった。


「はい」


 わたしは、もうこれ以上、この男と話すのは無理だと悟った。背筋に冷たいものが走るのを感じながら、わたしはゆっくりと後退りする。


「では、わたしはこれで失礼します」


 そう言って、わたしは踵を返した。男は何も言わず、ただそこに立ったまま、わたしを見送っている。その笑顔は、一瞬たりとも崩れることはなかった。

 わたしもそれ以上何も言わず、全速力でその場を後にした。

 それ以降、決して振り返ることはしなかった。

 しかし、わたしの脳裏には、あの男の不気味な笑顔がいつまでも焼き付いていた。

 あれから数日経った今でも、わたしはあの男のことが忘れられない。

 彼は一体、何者だったのだろうか?   

 なぜ、わたしの問いに「はい」としか答えなかったのだろう?

 そして、一番恐ろしいのは、これほど気になって仕方のない存在であるあの男の顔を、もうほとんど思い出せないでいるということだ。

 ただ、あの不気味な『笑み』の印象だけが、鮮明に記憶に残っている。それとは逆に、あの男の存在自体は、わたしの記憶から急速に消え去ろうとしている。

 まるでちぐはぐで、説明がつかない。

 わたしは、もしかしたらあの男は、最初から存在しなかったのではないかと、考えるようになった。あれは、孤独なわたしの心が作り出した幻影だったのではないか?

 下手を打ち続けてきた、わたしの人生をただひたすらに肯定するためだけの、イエスマンがあの男なのではないか?


 しかし、そう考えると、あの「はい」という言葉だけが、まるで呪いのように、私の耳元で今も囁かれ続けている。


「はい」


 今日もまた、その声が聞こえる。

 わたしの口から発せられた、わたし自身の言葉で。

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