14.只今、諜報活動中
「おーい、味噌汁温め直してくれー」
おれは、居間で新聞を広げながら妻に声をかけた。妻は「はいはい」と気の抜けた返事をしながら台所へ消える。平和な日曜の昼下がり。だが、おれは知っている。こいつはスパイだ。
半年前、政府が突如として発表した『全日本国民諜報員化計画』が事の発端だった。
曰く、世界情勢の不安定化に伴い、国民一人ひとりが国家の安全保障上からの観点により、スパイ的諜報活動に協力することで、国防のレベルを強固にする施策を執行した。
最初は悪い冗談だと思った。
だが、テレビのニュースも新聞もさらにはネットまでも、どこを見てもその話題で埋め尽くされる状況となり、様々な議論と憶測を呼んだ。
どうやら、国は本気らしいと国民が気付き始めた頃、おれのスマホに知らないアドレスから『指令』が届いた。
本来、未登録のアドレスはブロックの対象なのだが、そんな障壁を軽々とクリアしてきたのが不気味だった。通信キャリアのシステムさえ掌握できる、強大な権力に、個人情報を掴まれてしまっているのだと実感した。『拒否』することなど、恐ろしすぎて到底できない。
問題は『指令』の内容だ。どんな危険な任務なんだ?
『近所のスーパーの特売情報、向かいの家の犬の散歩の時間、そして妻の行動を逐一報告せよ』
軽く目眩がした。何だこれは? これが諜報活動だと? 悪い冗談にしか思えない。バカバカしい、こんなのまともに付き合ってられるか。気分がやさぐれて仕方ない。
最初は拒否しようと思った。だが、指令書には『協力しない場合、国家反逆罪に問われ、投獄される可能性がある』と小さく書かれているのに気づくと、さすがに震え上がってしまった。
それからだ。おれの日常は一変した。
朝食のテーブルでは、妻の「今日の味噌汁、ちょっと味が薄いかしら?」という何気ない一言にも、隠された意味がないか探る。隣の佐藤さんの庭で、いつもと違う花が咲いているのを見れば、それが何かの暗号なのではないかと疑う。
そんな、先の見えない毎日が始まった──。
「はい、お味噌汁」
湯気を立てる汁椀を差し出す妻の顔を見る。その無垢な笑顔の裏で、彼女は一体何を企んでいるのだろう? もしかしたら、おれの行動を逐一政府に報告しているのかもしれない。いや、もしかしたら、おれの味噌汁に何かを混ぜているのか?
そんな馬鹿な、とは思う。だが、疑心暗鬼は一度芽生えると止まらない。
「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴った。宅配便だ。
おれは身構える。最近、荷物の中身を巧妙に偽装して、盗聴器を仕込む手口が流行しているとネットニュースで見た。
「どちら様ですか?」
インターホン越しに声を張り上げる。
画面には、見慣れた宅配業者の制服を着た男が立っている。だが、その顔には見覚えがない。新顔か? いいや、それとも、別の組織からの刺客か?
「〇〇急便です。お荷物のお届けに参りました」
男はそう言うが、おれは信用しない。
おれは用心深くドアを開け、片手で受け取りサインをしながら、空いている方の手で荷物を軽く揺さぶる。中でカタカタと何か小さな音がする。
おれは男の目をじっと見つめた。男はニコリと営業スマイルを向けてくる。その笑顔が、なぜかひどく嘘臭く見えた。
ドアを閉めた瞬間、スマホが鳴った。見ると、政府からの緊急メッセージだ。
『本日〇時、隣家より発信されるモールス信号に注意せよ』
隣家? 佐藤さんの家か。あそこはいつも静かだ。まさか、佐藤さんまでスパイだったとは。しかもモールス信号。レトロだな。だが、だからこそ盲点なのかもしれない。
おれはこっそりと窓を開け、隣家を凝視する。
すると、屋根に何やらアンテナのようなものが設置されているのが見えた。昨日まではなかったはずだ。
「あなた、一体何をしているの?」
背後から妻の声がした。おれはギクリとして振り返った。妻は訝しげな表情でおれを見つめている。その目は、まるでおれの心の奥底を見透かすかのようだ。
「いや、なんでもない。ちょっと外の空気が吸いたくてね」
おれは誤魔化すように言った。妻は何も言わずに、ただおれを見つめ続ける。おれはたまらず視線を逸らした。この状況で、おれの行動が筒抜けになっているとしたら、一体どうすればいい?
その夜、おれは寝室で妻の寝息を確かめると、そっとベッドを抜け出した。
クローゼットの奥に隠しておいた、政府支給のスコープ型ナイトビジョンと、小型だが超高性能のICレコーダーを取り出す。
二階の書斎にそっと向かい、カーテンの隙間からスコープを隣家に向ける。漆黒の闇の中、佐藤さんの家の窓から微かな光が漏れている。そこには、人影が蠢いているのが見えた。
おれはICレコーダーを起動し、接続した集音マイクを佐藤さん宅に向けた。音声データによる記録を開始する。だが、その時だった──。
「カチャリ」
背後で、書斎のドアが開く音がした。おれは凍りつく。
ゆっくり振り返ると、そこには、真っ赤なネグリジェを着た妻が立っていた。扇情的な姿だが、その手にはナイフが握られている。
「あなた、何してるの?」
妻の声は、まるで地獄の底から響いてくるように冷たかった。やはり、こいつはおれを常時監視しているのだ。
おれは震える声で答える。
「いや、ちょっと、寝つきが悪くてな」
妻はゆっくりとおれに近づいてくる。その目に宿る光は、明らかに平常のものではない。おれは恐怖で足がすくんだ。
「ねえ、あなた。全てわかってるのよ。こちらへ寝返りなさい。報酬は倍になるわ。ウチの家計もたいへん助かるし、家のローンだって──」
まさかの二重スパイの勧誘だった。
「ねえパパ、ちょっと待って。話は聞かせてもらったわ。寝返るんなら、わたしたちの組織にしない? 報酬は変わらないけど、わたしのギャル友なら何人でも紹介できるんだけど、どう?」
不意に娘が、おれと妻の間に割り込んできた。
すると妻が急に激昂した。
「ガキが! 色気づきやがって! 泥棒猫が!」
「うるせえ! くそババア!」
妻は、ヒステリックに喚き散らしながら、ナイフで娘に斬りかかった。その顔は、おれが知る妻の顔ではなかった。娘もどこから取り出したのかわからない程の、大振りなアーミーナイフで応戦している。
激しく斬り結ぶ金属音を聞きながら、おれは絶望した。
日本中がスパイだ──。そして、おれの妻や娘までもが、いつの間にか高度な戦闘技術を身に付けた、恐るべきスパイと化していた。
だが、誰がどの組織に属しているのかは、まるでわからない。あるいは国外勢力だったりする可能性もあるのか?
今や日本列島は、世界的な諜報戦の最前線となっていた。
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