応援コメント

第8話  ボンビー介護が始まった 」への応援コメント

  • ぼくは、結局、病院にいた母を家に帰さなかったです。

    兄姉に反対されたんです。

    このまま、母が帰ってきても、ええことなんて、なにもないわ、と。

    最期の最期になってから、母を連れ戻したいという、ぼくの願いを兄は、認めてくれました。

    でも、それは、母と別れる最期になったのです。

    作者からの返信

    病院で最期を迎えるか、それとも自宅に戻って死ぬのを待つか。
    難しい選択ですよね。
    うちの場合はお世話するのがヨレヨレの老婆ですからね、考えるまでもなく立派な介護や看護は出来そうにありません。
    でもね、みんながそれでもいい、家に連れ帰ってやろうってなったんです。
    余命がいくばくもないって分かっていましたからね。
    ならば家で何とかしようってね。
    病院に居たらもう少し生きてられたでしょう。でも、それだって1~2か月の差でしかなかったと思います。
    家族みんなで納得ずくの選択・看取りとなりました。

  • 馬さんが家に帰りたいと言われた気持ち、分かります!
    それに応えられた千鳥姐さんも立派!

    作者からの返信

    毎日、仕事に行く前に病院に寄って見ていた娘が、絶対に父親を連れ帰る!と言い張りました。
    私は老いたる身ですから、介護や看護にはどれだけ出来るか自信がありませんでした。
    安請け合いはしてはいけない、と思いながらも、帰れると思い込んでいる本人を見ると・・ねぇ。
    共倒れ覚悟、でした。

  • ローバ姉様。
    あのう、もう積極的治療はされないと言うことなんですよね?
    ならば、緩和ケアのある病院との関係を持たれてはいかがでしょうか。
    ただし、緩和ケアへの入院は条件がありまして。
    在宅でのお世話が限界の時にはいいと思います。
    緩和ケア病棟は自由度が高いですし、苦痛の緩和を中心に考えてくれますよ。
    例えば、痛みなどが強くなったときは、やはり麻薬を使う方がご本人にとっては楽だと思いますが
    これは、麻薬取り扱い資格の医師しか処方できませんし、老健などでは処方できません。

    ケアマネ時代に在宅で最後まで暮らされた方もおられましたが、往診医の先生も良い方で。
    あまり、抱え込まないでくださいませ。

    作者からの返信

    7月の末に救急で入院するまでは、抗がん剤の薬を飲んでいました。
    年ですので強いのはダメで、弱いものだったようです。
    足の付け根の所に、リンパに転移したと言われてから、2年ほどたっていました。
    そろそろ限界というところまで来ていたんだと思います。
    救急で運ばれた病院からかかりつけ医の病院へ転院しましたけど、次の行く場所を探すように言われました。
    最期は緩和ケアとなるでしょう、とも言われました。

    救急で運ばれた病院ではCTとったりして、頭の詳しい検査が行われました。
    本人の一番の心配事だった認知症は、脳外科の先生がノーと太鼓判を押してくれたので、私達はとても喜びました。

    でもかかりつけの病院では夫を認知症と決めつけて(片耳が聞こえないので聞き取れないこともあるんです)、老人ホームを勧めます。
    あまりの決めつけに娘は怒って、何としてもお父さんを連れ帰りたいと頑張りました。
    意地でも家で看取りたい、とみんなが思ったのです。
    (悲しい気持ちを逆なでするような病院の態度が、我慢ならなかった)

    そして家での介護と看護が始まりました。
    私の頑張りがどんなだったか、看護師さん達にどれ程よくしてくれたか、を書きたかったんですが文字数が限定されてて、詳しくは書けませんでした。

    明日、残りの3話を更新します。
    私の気持ちが伝わってもらえるといいな、と願っていますが・・・

    編集済
  • ローバちゃん。

    やはりご主人、家に帰りたいと思われますよね。
    ローバちゃん、その想いを汲んで在宅で介護しようと決心されたのですね。
    凄いです⤴⤴
    その決意が尊いです、が、なかなか家での介護は大変ですよね。

    作者からの返信

    自宅で看取る、それもこんなヨレヨレで自分のことも覚束ないっていう人が・・って、そう考えると迷いました。
    救急で運ばれたR病院は、家のそばのバス停から病院までバスで1本、殆ど歩かなくてすみましたから、毎日お見舞いに行けました。
    でもかかりつけの病院へは、なかなか行けません。

    もし老健や老人ホームなどに決まったら、もっともっと様子を見に行ってやれません。
    長くはないと分かっていたので、それならば私がお手上げになるまで頑張ってやろう、と家に連れ帰ったのです。
    お正月まではとても無理だと言われたけれど、まさか10月で逝くなんて・・
    自宅だったから?‥私の看護だったから?・・と悔やまれるところもあるけど、子供達はそれでも正解だったと言ってくれます。
    皆がそれぞれ出来ることをやったのだから、と納得できて悔いなく見送れました。