第2話  いつの間にかボンビーに 1

 ボンビーな我が家といっても筋金入りの貧乏ではない。なので家族で力を合わせれば、何とか日々の暮らしは成り立たせていけている。ボンビーになりたての頃は「以前は良かったのにな」などと、時折そんな泣き言が出たこともあったが、いつの間にか「ボンビー暮らしもまたヨシ!」と笑って言えるようになっていった。そう思えるのも大した苦労も知らずに過ごせた、長い年月の幸せな毎日があったからこそと言えようか。


 昭和四十八年に私は落研(落語研究会)の先輩である馬さん(芸名をつけ馬という)と結婚し、二男一女をもうけ半世紀以上も共に過ごしてきた。婚家は特に金持ちとは言えないものの会社の経営も順調だったし、義父母や義弟妹にも恵まれ居心地の良い穏やかな家だった。


 婚家の会社は義父が興したもので、友人の工場の片隅を借り借金で買った、たった一台の機械でから始まったものだった。当然暮らし向きは酷いもので、義母の苦労は相当なものだったろう。しかし持ち前の大らかさと呑気な性格の義母のこと、「現金なんて見たことなかったわ。昔はみんなツケで済ませていけたからねぇ」といつも笑って思い出を語ってくれた。


 義父の苦労話にはよく父親の給料の話が出てきた。その額は当時の校長先生よりも多かったというのに、宵越しの銭は持たないという父親の性格から、家計はいつも苦しく義父は子供の頃から、牛乳配達や飼育したウサギを売ったりしてよく働いたそうだ。後に上京して住まいを構えた都営住宅は六畳・四畳半・三畳の三部屋で、そこに義父の両親と義父の二人の妹、義父母に馬さんと馬さんの弟、そして生まれたばかりの妹が住んでいた。窮屈そうではあるが戦後の住宅不足からすると、当時この大家族が都営住宅に住めたのはとてもラッキーだったようだ。  


 この大人数をその三部屋で賄っていたそんな状況の中に、一家の大黒柱となった義父を頼って、義父の弟夫婦がころがりこんで来た。身重の兄嫁の為にと義父の妹達が明け渡した三畳の部屋は、弟家族の部屋となり増々もって人口密度?の高い住まいとなった。ただでさえ賑やかな家は、義父の父親や義父の弟、そこに近所に住むもう一人の弟も頻繁にやって来ては、呑兵衛達の酒盛りでいつでも大賑わいだったという。


 昔、♬狭いながらも楽しい我が家~という曲が流行った。馬さんちは正にそうだったようだが、受験の頃ともなるとそうは言っていられない。苦肉の策として馬さんは机の横にベニヤ板を立てて防音を図ったが、この酔っ払い達の騒々しさには敵わない。よほど辛かったとみえて、馬さんの思い出話に時々出てくる話である。彼のゆとりある家への憧れは、どうやらここから始まったようである。


 


  



 


 


 

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