俊彦の思い出 - 2
十月も中旬に入ったころ。
その頃は、日に日に寒さが増していた。それに加えて雨続きだったものだから、気温はグンと冷え込んだ。
学校には長袖の生徒が増えてきて、冬が近づいていることが感じられた。その間のあまりの冷え込みに、僕はジャンパーを引っ張り出して着込むようになった。
*****
その日も雨で、ジャンパーを着て登校した。
学校についてみると、教室には大体のクラスメートがすでに揃っていて、春ちゃんや天夏ちゃんの顔もあった。ただ、咲良ちゃんはまだ来ていないみたいだった。
自分の席に着いたら、机に教科書をしまって、ランドセルを教室の後ろ側にあるロッカーに入れる。
それから、着てきたジャンパーを廊下にあるコート掛けに持っていく。僕が廊下に出たタイミングで、ちょうど咲良ちゃんが登校してきた。
咲良ちゃんは僕以上に厚めに着込んでいて、首元には使い馴染んだようなマフラーを巻き、口元はマスクで覆われていた。そして彼女の隣には、見たことの無い女子生徒。恐らく上級生だろう彼女の両手は、手提げのバッグで塞がっている。
「おはよう、俊彦くん」
咲良ちゃんは目を細めた。マスクの下では微笑んでいるんだろうけど、声には明らかに元気が無い。
「咲良ちゃん、おはよう。大丈夫、風邪ひいたの?」
咲良ちゃんは弱々しく頷いて、
「ちょっとね‥‥‥でも、大丈夫だよ」
頑張って取り繕ってるけど、やっぱり具合は悪そうだ。
すると隣に立っていた女子が、片手に持っていた使い古したように見えるバッグを咲良ちゃんに手渡した。
「ありがとう、お姉ちゃん」
どうやら、それは咲良ちゃんのお姉さんらしかった。お姉さんは、咲良ちゃんの目をしっかりと見て、落ち着いた声で言った。
「具合が悪くなったら無理しないで。すぐに保健室行ってね」
確か咲良ちゃんのお姉さんは六年生だったと思うけど、そうとは思えないほど大人びた雰囲気があった。そんなお姉さんの言葉に、咲良ちゃんは「うん、ありがとう」と応じていた。
それから、お姉さんは僕の方を見た。冷たいような、感情の薄い表情をしていた。
「この子の体調が悪そうだったら、保健室に連れて行ってあげて。迷惑かもしれないけど」
年上の人と話すことはもちろん、まして年上の異性と話すことなんて全くないから、僕は思いっきり緊張してしまった。
「迷惑じゃないです、全然‥‥‥」
「お願いね」
そう言うと、お姉さんは自分の教室に向かっていく。一瞬しか話してないけど、咲良ちゃんとは真逆な感じの人だと思った。
立ち去るお姉さんの姿を見送る。その後ろ姿は不思議と際立っているように思えた。多分その理由は、身に着けているマフラーやコートなどが新品のようにきれいだからだ。
お姉さんを見送って、咲良ちゃんに訊いた。
「今のが咲良ちゃんのお姉さんなんだ」
「うん。あんまり似てないでしょ。名前も、わたしが咲良で、お姉ちゃんが冬美だから、イメージ的に春と冬って感じで正反対なんだよね」
咲良ちゃんには失礼かもしれないけど、確かに似てない。
「お姉ちゃんは心配性なんだ。さっきの頼み事だって、気にしなくていいからね。わたしは大丈夫だから」
言い終えてからけほけほと咳込むものだから、あまり説得力が無かった。
咲良ちゃんの言葉になんと返せばいいか分からないながらも、今日一日は咲良ちゃんの様子を気に掛けようと思った。
*****
午前中の授業の間、咲良ちゃんの体調が良くなることは無かった。朝は元気を装っていたけれど、時間が経つにつれてそんな余裕も無くなってきたのか、徐々に悪化しているようにも見えた。
もともと体が弱いということだったけど、普通に話しているときはそんな風には思えなかった。
お喋り好きなイメージがあるし、そのせいか元気が有り余っているように思っていた。
ただ、今日の咲良ちゃんを見て、そのイメージは間違っていたと気付かされた。普段は笑顔が多い咲良ちゃんが、苦しそうな顔をしている。目は眠たげな様子で、机に向かっているのですらやっとという風だ。
そんな様子を見ていると、咲良ちゃんが今にも消えてしまいそうな、目を離したら居なくなってしまいそうな、儚い感じがあった。
給食の時間になると、咲良ちゃんはあからさまに食欲がなさそうだった。普段から食べるのが早いわけじゃないけど、今日は輪をかけて遅い。挙句、ほとんど手を付けずに給食を残していた。
*****
いよいよ昼休みになって、咲良ちゃんには限界が来た。
僕はいつもなら図書室に行くところを、今日は咲良ちゃんの様子を見ておこうと教室にいることにした。
咲良ちゃんは机に突っ伏すようにしていた。
そこに天夏ちゃんが近づいていく。
「咲良ちゃん、大丈夫?」
ゆっくりした動きで顔を上げた咲良ちゃんは、マスクを顎まで下ろして、空元気で笑った。
「ありがとう天夏ちゃん、大丈夫だよ」
そうは言うけど、声に元気が無い。体調のせいか、活舌もおぼつかないみたいだ。
天夏ちゃんもその様子にはさすがに心配になったようで、「ちょっとごめん」と断ってから、咲良ちゃんの額に触れた。
「熱い。咲良ちゃん、熱あるよ。保健室行った方が良いよ」
「でも‥‥‥」
「無理しちゃ駄目だよ。わたし保健委員だし、一緒に行こ」
そこまで言われてようやく観念したように、咲良ちゃんは頷いた。
僕はほっとした気持ちだった。明らかに無理をしている様子だったし、保健室で休んだ方が良い。
咲良ちゃんは、天夏ちゃんの手を借りて立ち上がった。
その時だった。
急に咲良ちゃんの身体がすとんとくずおれた。それから額を床につけるようにして身を縮こめたと思えば、小刻みに震えはじめた。
「咲良ちゃん!」
呼びかけながら、天夏ちゃんは咲良ちゃんの顔を覗き込む。
かと思ったら、弾かれたように顔を上げて、教室を見回し始めた。その素早さには、何か大変なことが起きたことが察せられた。
教室には僕しかいなかった。他の生徒は、別のクラスに行ったり、体育館で遊んでいた。そのため、天夏ちゃんの視線は自ずと僕に留まった。
「俊彦、咲良ちゃん見ててあげて。わたしは先生呼んでくるから」
「あ、え‥‥‥」
あまりにも切羽詰まった口調だったので、返答に困った。ただ僕の答えを聞かないうちに天夏ちゃんは教室を飛び出してしまった。
無論、僕も天夏ちゃんの頼みを断るつもりは無かったので、急いで咲良ちゃんのほうに駆け寄りながら言った。
「咲良ちゃん大丈夫?今、天夏ちゃんが先生呼びに行ったから」
僕はしゃがみ込んで、床にうずくまる咲良ちゃんの様子を見た。そして、天夏ちゃんが焦っていた理由が分かった。
咲良ちゃんは吐いてしまっていた。今日は何も食べれてなかったんだろう、黄色がかった透明の胃液が吐き出されていた。口元から垂れた吐瀉物が、顎にかけたマスクを伝い、服を汚していた。
咲良ちゃんの固く瞑られた両目の端には、涙が浮かんでいた。
「嫌だ‥‥‥嫌だよう‥‥‥」
すすり泣くようにして、そんなことを呟いている。
僕はどうすればいいのか分からなかった。
何か声をかけてあげないと。だけど、大丈夫と呼びかけることしか出来ない。
背中をさすってあげようともしたけど、目の前の咲良ちゃんはあまりに弱々しくて、勝手に触ってはいけない気がした。
結局、天夏ちゃんが保健室の先生を呼んでくるまで、僕は特別なことは何も出来なかった。
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