第17話:奇跡の治療
イシュタルは星の位置と月齢周期から、現在が西暦903年、初秋であると断定していた。
当時の日本列島では、各地で凶作と疫病が記録され発生しており、死亡率が急激に跳ね上がっていた。
この年はちょうど、菅原道真が太宰府で没した年でもある。彼の死後に都を襲った雷や疫病、飢饉の連鎖は「怨霊信仰」が浸透する背景となった。
イシュタルは、転生して間もなく、土壌の養分や水源の微生物、作物の成長にわずかな偏差がないかを優先して解析していた。
彼女の行動は祈りではなく予測であり、信仰ではなく確率で成り立っていた。
初穂は視線を遠くに向けた。
田畑の方角──そこには村の命が根を張っている。
初穂は無言のまま、ゆるやかな坂を下って田畑へと歩みを進めた。
足元の土を踏みしめるたび、感圧と湿度が皮膚を通じて、彼女の中に微細に記録されていく。
(土壌水分:平均値比−8%、乾燥傾向強まる)
(塩分濃度:前月比+0.3%、注意域接近)
見た目にはただ歩いているようでも、彼女の内では、気象変動と作物成長の予測モデルが絶え間なく稼働していた。
村人が「神」と呼ぶその存在は、まるで地の鼓動を聴いているかのように歩いていた。
畑に出ていた大人たちは、初穂の姿に気づくと、静かに頭を垂れた。
彼女はそのまま、実った稲の列のはずれにしゃがみこみ、草の一本を指先でそっと摘んだ。
細くて背の高い草が、稲と稲のあいだに、まるで隠れるように群れていた。
「……この草が多いところは、土が疲れている証です」
すぐ隣にいた佐平が、腕を組みながら感心したように頷いている。
「なるほどな……神さまは、草の顔まで見分けておられるのか」
「はい。この草は、痩せた地を好むのです。来年は、ここに豆を植えてください。土が元気を取り戻します」
言葉は穏やかだったが、彼女の声には確信ある力強さが宿っていた。
佐平は目を細めて笑い、ゆっくりと頷いた。
「そうか……なら、今年は豆を植えてみよう。土に力を戻してやらにゃあな」
初穂は微笑み、立ち上がった。
少し離れたところでは、数人の子どもたちが野草を摘んで遊んでいた。
初穂はその輪の中に歩み寄り、しゃがんで視線を合わせた。
「これは“オミナエシ”、そしてこちらは“ヒユ”……。草の声、聞こえましたか?」
きょとんとした顔をした子どもたちに、初穂はやさしく笑った。
「草にも言葉があるのですよ。土が、疲れているよ、とか、水が欲しいよ、とか。耳を澄ませば、わかるようになります」
一人の少年が、おそるおそる問いかけた。
「神さまは、草の言葉がわかるの……?」
「ううん、神さまじゃなくても、誰だってわかるの。何度も畑に足を運んで、よく見て、触って……そうすれば、草も、土も、お話ししてくれるのです」
子どもたちは目を輝かせながら、もう一度手元の草を見つめた。
初穂はそっとその様子を見守りながら、静かに立ち上がった。
風が、稲穂を揺らして通り過ぎていく。
初穂の白い衣が、ふわりと揺れた。
村の空気に溶け込むように、彼女はまた静かに歩き出した。
──夕暮れ。神域の静けさに包まれながら、イシュタルは高台に立ち、空を見つめていた。
彼女の眼差しは、西に沈む太陽ではなく、その上に浮かぶ白く淡い月へと向けられていた。
(月齢:11.6日。軌道ずれ0.04度。夜間冷却予測──緩やか)
わずかに揺れる木々の枝。
その間に垣間見える星のまたたきも、イシュタルにとっては正確な時刻を刻む装置だった。
だが、村の者から見れば、それは神が天を見て祈る姿に映ったのだった。
そのころ、裏手のかまどでは、柚葉が夕餉の支度を進めていた。
「柚葉や。御方さまに礼を申し上げたいのだが、どこにおられる?」
かまどのほうへ国重が姿を見せ、柚葉に声をかけた。
柚葉は、刻んでいた山菜から手を止め、顔を上げた。
「あちらです。ずっと空を見ておられます」
国重は柚葉に軽く頭を下げ、夕暮れの光の中をゆっくりと歩き出した。
高台の上、夕空に佇む白い影。その姿は、静かに風を読むように立っていた。
「……国重殿ですか」
風を背に受けながら、初穂が静かに振り向いた。
「ええ。ひと言、お礼を申し上げたくて」
国重は杖をつきながら近づき、深く頭を下げた。
「今日、田でのお導き、皆ありがたく思うております。そして……子らにも草のことを教えてくださった。あの中に、わしの孫の
彼の声は穏やかで、どこか誇らしげだった。
「観察し、感じ取ることは、生きる力のひとつです。
人は、語られたことよりも、見つめたものの中に真実を見出す。
咲は草を“話すもの”として見つめ、それを疑わずに語った。
その姿は、イシュタルにとって希望の記録そのものだった。
村が変わるなら、それは咲のような目を持つ者から始まる──彼女は確信していた。
「欲深い願いかもしれませんが……わしは、咲にこの村を守れる子になってほしいのです。神さまのおそばで、どうかその力の芽を育ててやってください」
初穂は、国重のわずかな仕草に注意を払いながら、その表情をまっすぐ見つめていた。
国重が話し終えたあと、国重がこめかみに手を当て、苦笑した。
「……いかん、ちょっと目の前が揺れたような。歳のせいですかな」
イシュタルは、即座に血中酸素飽和度と皮膚温の変化を検出した。
(脳循環反応に軽度の異常波形……)
(危険予測──48時間以内。要経過観察)
彼女は何も言わず、その異変の数値と兆候を記憶した。
人々は“異変”よりも、“異変を告げられること”に不安を覚える。
それを知る彼女は、言葉を選び、安静にするよう声をかけた。
「国重殿、今日はずいぶんお疲れのようです。今夜は水を多めに取り、早めにおやすみなさってください」
初穂はそう言って小さく一礼し、振り返ることなく御座所へと戻っていった。
国重は、そんな初穂の言葉にかすかな違和感を覚えながら、ゆっくりと家路についた。
──その夜、初穂は御座所の祭壇にひっそりと置かれた陶の
中には、村の古い風習で供物として納められていた“神豆”──年を越しても腐らず、淡く発酵の香を放つ豆が奉納されていた。
(豆表面に微量の酵素活性──抽出した構造、再構成可能。発酵菌種:枯草菌由来)
初穂は甕を手に、休息の間へと入り、静かに中央へ座した。
一粒の豆をそっと手のひらにのせ、両手でやさしく包み込んだ。
両手にナノユニットがフル展開されると同時に、青白いプラズマ光が幾何学的な軌跡を描きながら、掌の中心に収束した。
ナノユニットが微細な触手を広げ、豆表面の酵素をスキャンする。
分解された構造は、高純度のナットウキナーゼ類似体として分子単位から再構築され、ナノユニット内の医療モジュールへと格納された。
(応急投与モジュールの登録完了──緊急時、即時展開可能)
神前に捧げられた一粒の豆が、ひとつの命を救う鍵となったことを、誰ひとりとして知らなかった。
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