第16話:誰よりも大切な人

──朝露の中、初穂は新しい住まいを観察していた。

社殿の生活空間は、簡素にして静謐な佇まいだった。


室内には余計な装飾ひとつなく、中央には清められた白布が敷かれ、祭具や灯台が整然と置かれていた。

風呂は離れの湯屋に設けられ、薪をくべて釜を焚き、湯を沸かす昔ながらの仕組みだった。

炉の下で火が静かに燃え続け、湯船はその熱でじんわりと温められる。

厠はさらに奥、竹垣に囲まれた小屋として設けられ、柚葉が朝夕に掃き清める。

すべては、神を迎えるにふさわしい場であるよう、祈りの心で築かれていた。


初穂は、静寂の中で、御座所に敷かれた白布へと視線を落とした。

一見すればただの布。だが、そこに込められた意味を、人は直感で悟るのだろう。

生活と祈りを峻別する、目に見えぬ結界──。


(構造材:地元産の杉と栗。白布は綿。繊維密度・吸湿性に優れ、微細な埃を遮断する機能あり)

(宗教的象徴と衛生機能が、ひとつの構造に自然に組み込まれている)

(──この空間は、居住性を備えながらも、“祈り”の象徴として構築されている)

初穂はそっと目を伏せた。

『形なき祈りは、こうして形に宿る』

人は、それを通して、自らの願いを定義しようとするのだ。


静寂が満ちるなかで、ひとつ息を吐いた。

そして、迷いのない足取りで戸へと向かう。

まだ朝の空気が残る境内を、無言で歩き出す。


室内で掃除をしていた柚葉は、戸の開く気配に気づき、顔を上げた。

初穂の姿が見えないことに気づき、慌てて外へ出た。

「えっ、どちらへ行かれるのですか!」

初穂は一瞬だけ足を止め、振り返らずに一言だけ返した。

「村の様子を見に行くのです」

そう言い残し、再びまっすぐに歩を進めた。

「ま、待ってください……っ、私も……!」

柚葉は慌てながらも、すぐに歩調を合わせてその少し後ろを並ぶように歩いた。


境内を抜けると、村へと続くゆるやかな坂道が広がる。

朝の光が森を照らし、木々の葉がゆっくりと揺れている。

道すがら咲いた野花が、足元に色を添えていた。


(神さま──初穂は、私の事など気にも留めていないのだろうか……)

柚葉にとって、緊張の面持ちで踏み出した従者としての一歩。

けれど初穂は、終始動じることなくそれを受け入れていた。


(分かってもらえなくても、かまわない。ただ、一人きりじゃないと──そう感じてもらえたら)

神さまを守るという義務でも、崇拝でもない。

ただ傍にいたかった。

悲しみも、痛みも、誰にも言えない孤独も──誰かと分かち合えることがあると、初穂に思ってほしかった。

柚葉は歩調を合わせながら、そっと初穂の横顔をうかがった。気づかれないように。


初穂は沈黙を保ったまま歩き続けていた。

柚葉が隣にいることなど、初めから気にも留めていないようにさえ思えた。

だが、初穂の内部では、感覚系と視野の一部が常に柚葉の動きを捉え続けていた。

(対象:柚葉/距離は一定。視線と動作の同期を確認──精神状態は安定)

(顔色、歩幅、呼吸──通常値とわずかに乖離)

(……生理指標の逸脱、軽度の体調異常を示唆)


何の前触れもなく、初穂の手が、そっと柚葉の手に触れた。

 「っ……」

驚いて目を見開いた柚葉の心臓が跳ねる。

柚葉は息を呑み、思わずその場に立ち尽くした。


だが初穂は、まるで当然のことのように、指先で柚葉の脈拍を確認していた。

(皮膚温33.9度。末端循環に異常なし。脈拍72で安定。呼吸数も正常。ストレス反応、わずかに上昇)

「心配はいりません。少し体が冷えていたようなので、確認しただけです。……昨夜は、あまり眠れていなかったようですね」

目の下にわずかに滲む血流の変化と、皮膚温の揺らぎ。

そこから、軽度の体内リズムの乱れと体調不良を検知した。


「……わかるんですね、そんなふうに、そっと触れただけで……」

「少し疲れが見られます。今夜は、なるべく早く横になってくださいね」

初穂が手を放したそのあとも、柚葉の頬はかすかに紅く染まっていた。


村の入り口に差しかかったとき、柿の木の下で遊んでいた幼い子どもが、初穂の姿に気づいた。

「……神さまだ」

初穂は足を止め、その子どもをまっすぐに見つめた。

(体格の特徴、皮膚の色、栄養状態──識別結果:先に赤痢を治療した男児であると確認)


初穂はほんのわずかに歩を緩め、子どもと目の高さをそろえるようにそっと腰を落とした。

「朝ごはんは、もう食べましたか?」

初穂は微笑み、やさしい声で子どもに話しかけた。その問いの裏には、いくつもの分析意図が重ねられていた。

(口唇水分量、表情筋パターン、血糖値変動──解析中)

(食事の摂取有無は、家庭環境および養育状態の安定度に直結。応答内容により保護環境を再評価)


子どもは少し驚いたように瞬きをし、やがて照れたようにうなずいた。

「……おかあが、おにぎりくれた」

(発話速度・表情筋変化・発話内容──精神状態:安定。栄養指標:問題なし)


初穂は静かにうなずき、子どもの目をしっかりと見つめた。

「顔色がよくなっていました。きっと、ちゃんとごはんを食べて、よく眠れたのですね」


「ごはんを食べるまえや、外で遊んだあとは、手をこすってきれいにしてください。病は、見えないものから来るのです」

その語調は柔らかく、まるで普通の大人が子どもに声をかけるような自然さだった。

だが、イシュタルの内部では、井戸水の微生物濃度と感染症履歴、手洗い習慣との相関性などが即座に演算されていた。


「はい」と子どもが頷くのを確認すると、イシュタルは小さく微笑み、再び歩を進めた。

柚葉はそのやりとりを見届けると、そっとつぶやくように言った。

「……あの子が元気になったのは、神さまのおかげです」

その声は誰に聞かせるでもなく、ただ真っ直ぐに、イシュタルの背に向けて届けられた。

感謝と信頼が混じった言葉に、イシュタルは小さく振り返り柚葉を見た。

「あなたが隣にいたから、あの子も安心できたのです」

心のどこかで、もう二度と届かないと思っていた声が、まっすぐ自分に向けられた気がした。

(初穂……、あなたが神さまになったとしても……私は、あなたのそばにいたい)

息を吸うのも忘れそうなほど、胸がきゅっとなった。


初穂が“神さま”と呼ばれるようになっても、柚葉にとってはただの憧れの存在ではなかった。

小さな頃から一緒に笑い、祈り、泣いた時間が、今も心の奥に残っている。

その隣にいたいという想いは、役目や信仰では語り尽くせないものだった。

たとえ皆が神と仰いでも、柚葉にとっての初穂は、ずっと変わらぬ“誰よりも大切な人”だった。

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