第18話:奇跡の治療 -2-
夜の帳が明け、東の空にかすかな朱がにじみ始めるころ──
新しい一日の始まりを告げるように、空気はひんやりと澄んでいた。
柚葉は、鳥のさえずりに目を覚まし、そっとまぶたを開けた。
薄明かりの中で身を起こした柚葉は、隣に視線をやって──思わず目を瞬かせた。
初穂はすでに境内の縁に腰を下ろし、遠く空を見つめていた。
その姿は、まるで最初からそこにいたかのようだった。
「お、おはようございます、御方さま。……すみません、寝坊してしまいましたっ」
初穂は静かに振り返り、小さくうなずいた。
「問題ありません。よく眠れていたようですね。……朝の空気は、澄んでいて気持ちがいいです」
柚葉は布団をたたみながら、気恥ずかしさをごまかすように笑みをこぼした。
初穂が視線をわずかに逸らした瞬間、一羽のカササギが社殿の屋根を蹴って、空へと舞い上がった。
人々はカササギを「神の使い」と呼ぶ。
だが彼女にとって、それは観測補助ユニットA-01という、もうひとつの視界だった。
カササギの網膜外層には、極薄の透明センサーが重ねられ、視神経には視覚共有ナノユニットが接続されている。
そこから取得された映像情報は、イシュタルへと同期送信されていた。
それは、ナノユニットによる細胞生成とデータ通信を統合した、イシュタルの視覚共有スキルだった。
このユニットは非侵襲型で、生体細胞を傷つけることなく、ナノレベルで皮膚表面に吸着し、安定する。
必要がなくなれば、静電界を用いて即座に分離され、生体機能に痕跡を残すことはない。
未来技術によって生成される細胞は、生体機能にほとんど影響を与えることなく定着していた。
イシュタルが視覚共有しているカササギは三羽。
社殿周辺を巡る、A-01。
村の中心部を飛ぶ、A-02。
山道沿いを縄張りとする、A-03。
三羽はそれぞれ、高精度の視覚センサーを備え、村の暮らしをそっと見守る静かな眼となっていた。
初穂は遠くの空を見つめていたが、その瞳の奥では別の視界が村の暮らしを見守っていたのだ。
柚葉はひととおり身支度を終えると、衣を整え静かに立ち上がった。
「お待たせしました。これより朝餉の支度をいたしますね」
薪をくべ、昨夜のうちに水に浸しておいた米を、かまどに据えた土の釜に移した。
柚葉は、初穂の様子をそっと横目に見る。
(朝の光の中の初穂……まるで別の世界にいるみたいだ)
柚葉はそう思いながら、音を立てぬよう慎重に薪をくべた。
空を見つめる初穂の後ろ姿に、話しかけたくなる衝動をそっと胸の奥に押しとどめる。
初穂が今、何を見ているのか──柚葉には想像もつかなかった。
ただ、何を見ているのかまでは分からなかったが、それでも──朝のこの時間を大切にしていることだけは、日々の素振りから感じ取っていた。
しばらくして、炊きあがった釜の蓋をそっと開けると、炊き立ての湯気が立ちのぼった。
甘く香ばしい匂いが境内に広がる。
柚葉はふと初穂の方を見やり、小さく息を吸った。
「……御方さま、
初穂はわずかに振り返り、静かに立ち上がった。
「ありがとうございます。いただきます」
初穂は膳の前に正座し、湯気の立つ飯椀に手を添えた。
動作は静かで無駄がなく、口に運ばれるたびに、ひとつひとつを確かめるように味わっていた。
咀嚼の音さえほとんど立てず、淡々とした所作には洗練された美しさが宿っていた。
しばらくして、箸を置いた初穂は、ふと柚葉の方へ顔を向けた。
「……今日は、国重殿のお屋敷に伺います。同行してもらえますか」
その声には特別な抑揚はなく、ただ淡々と告げられる。
初穂の言葉に、柚葉は小さく息を止めた。
理由は分からなかったが、背筋が自然と伸びる。
「──かしこまりました。支度いたします」
食後の片付けを終えると、初穂は静かに立ち上がり、社の外へと歩み出した。
柚葉はその背に軽く会釈し、あとを追う。
朝靄の満ちる竹林を抜けて、ふたりの影が静かに村へと延びていく。
目的は聞かなかった。けれど、問い返すこともなかった。
何も語らずに進む、その背中。
けれど──あの方が導く先に意味がある。
ならば、自分もその道を信じて共に進もう。
柚葉の心には、新たな決意が静かに脈打っていた。
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