第5話 聡と紗恵
「美味しかったね」
レストランを出た紗恵が、夜風に肩をすくめながら言った。
付き合って3年になる記念ディナーだった。
聡が予約してくれたのは、街でも評判の高級フレンチ。
料理も雰囲気も申し分なかった。
けれど、紗恵の胸には、ずっと小さな棘が刺さったままだった。
「ねえ、あの店員さん、言ってたよね」
「ん?」
「このお店、結婚記念日に来る人が多いって」
「……ああ、言ってたね」
聡は笑ってうなずいた。でも、それだけだった。
紗恵は、そっとため息をついた。
3年。もう十分だと思っていた。
今日こそプロポーズしてくれるんじゃないかと、密かに期待していた。
でも、聡は今日も、何も言わなかった。
乾杯のときも、デザートが運ばれてきたときも、彼の口元ばかりを見ていた。
けれど、何も起きなかった。何も、言ってくれなかった。
「このあと、どうする? ホテル、行かない?」
聡が言った。
紗恵は立ち止まり、少し間を置いてから言った。
「……行かない。ちょっとカフェに行かない?」
「え?」
「話したいことがあるの」
聡の表情が、わずかにこわばる。
紗恵は、歩き出しながら言った。
「私たち、もう若くないんだからさ」
「……うん」
「いつまで、こんなふうに曖昧なままでいるの?」
「曖昧って……」
「だって、今日だって、何も言ってくれなかったじゃない」
「……」
「どうせ、結婚する気なんてないんでしょ!」
声がわずかに上ずった。
通りの灯りが、ふたりの影を長く伸ばしていた。
「紗恵」
聡が呼び止める。
振り返ると、彼はポケットから小さな箱を取り出していた。
「本当は……ホテルで渡そうと思ってたんだけど」
紗恵は、その箱を見つめたまま、言葉が出なかった。
開けると、中には指輪。
シンプルだけど、ちゃんと選んでくれたことが伝わるデザインだった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
期待していたはずなのに、いざ目の前にすると、涙が出そうだった。
「……なんで、そんな回りくどいのよ」
「ちゃんとした場所で渡したかったんだ。実はホテルもいいところを予約してた」
「……バカ」
紗恵は、ふっと笑った。
そして、少しだけ顔を赤らめながら言った。
「じゃあ……行こっか。ホテル」
聡は、安心したように笑ってうなずいた。
ふたりは手を繋ぎ、並んで歩き出す。
指先が触れた瞬間、互いの体温がゆっくりと溶け合っていくのがわかった。
夜風はまだ冷たかったけれど、ふたりの手のひらはあたたかかった。
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