第2話
日付が変わる少し前、僕たちは懐中電灯を手に生徒会室を出た。
廊下には非常灯だけが点いていて、昼間とはまるで別物のように静かだ。窓の外の校庭は、月明かりにうっすらと浮かんでいる。
「……夜の学校って、思っていた以上に背徳感ありますね」
歩きながら杏奈会長の言葉を借りるように、思わず本音が漏れると、彼女はくすっと笑ってみせた。
「生徒の皆さまにはあまりお勧めできませんわね」
「あはは、確かに……」
「ですが――」
杏奈会長は廊下に差し込む月明かりを一瞥してから、僕の方を見た。
「今夜だけは、特別ですわ。わたくしたち、生徒会執行部に許されているお仕事なのですもの」
そう言って、僕の歩調に自然に合わせてくる。
制服の袖が、時々、かすかに触れ合う。そのたびに、心臓のどこかがちくりと反応した。
正当な理由がある。しかしだからこそ、背徳感も増すというもの。
「裕人さん」
「は、はい」
「ふと思うのですが」
「……?」
「こうして夜……二人で校舎を見回っておりますと……なんだか、秘密を共有しているみたいで、どきどきいたしません?」
「秘密、ですか?」
「ええ。『学園一の生徒会長と、副会長が夜の学校で二人きり』――もし他の方が聞いたら、きっといろいろな想像をなさるでしょう?」
杏奈会長は、まるで誰かの噂話をしているみたいな声色で笑う。
いろいろな想像。
いろいろって……いろいろ?
いやいやまさか、杏奈会長に限ってそんな……。
「もちろん、真相は『真面目にお仕事をしているだけ』なのですけれど……誤解、されてしまうかもしれませんわね」
「あ、ですよね。誤解されたら大変ですよね」
必死で同意しながら、自分の胸の内に「ちょっとだけ誤解されたい自分」がいるのを自覚してしまう。
「……ですが」
杏奈会長は、ほんの少しだけ声のトーンを落とした。
「たとえ誤解であっても、副会長……裕人さんとご一緒なら……わたくし、ただの誤解もあまり嫌ではございませんのよ」
「えっ」
「だって、真に誤解ではないですもの」
なんてことのない調子でさらりと、とんでもないことを言う。
僕は一瞬、ピタリと足を止めてしまった。
口から出たのは情けない声だけだった。
「な、なんかそれ、すごいこと言ってません?」
「そうでしょうか?」
会長は首を傾げ、くすっと笑う。
捉えようによっては……そうとしか聞こえないのだから。
「わたくしにとって、裕人さんは頼りになる方ですもの。ご一緒できるのは、光栄なことですわ。さしてすごいこと、ではないかと」
「ああ……そ、そういう意味、ですよね。ええ」
(そっちかー!!)
勝手に期待して、勝手に一人で撃沈。
夜の学校だから無意識に舞い上がってしまっているのかも。
……だけど、誤解されることを嫌じゃないと言ったのは事実だ。ラブコメなら重要な伏線だ。意味を深読みするな、と言われても無理な話なんだ。
杏奈会長は僕のことを、どう思っているのだろうか。
そんな内情を知ってか知らずか、彼女はスタスタと歩みを進める。
「さあ、そろそろ件の掲示板が見えてまいりますわ。準備はよろしい?」
「は、はい」
進路指導室の前にある掲示板は、廊下の突き当たり、校庭に面した大きな窓のそばに設置されていた。
近づくにつれて、例の「よくない落書き」がうっすらと視界に入ってくる。
月明かりに照らされ、ミステリアスに主張するソレが。
プリント、プリント、プリント、その端に――
(うわ)
思わず視線をそらしたくなるような曲線が、黒いマジックで描かれていた。直接的な形をしているわけではないのに、どう考えてもアレを連想させる。線に妙な勢いがあるのも良くない。
だが、あろうことか杏奈会長は顔色一つ変えずに近づいていく。
「……ふむ。本日も、健在ですわね」
確か今朝は紙を貼って隠してあったはず。誰かが悪ふざけで外していったのか。あるいは同一人物による犯行か。
今さっき新しく描かれたものではないようだ。
「裕人さん、こちらへ」
「い、いや、別に近くで見なくても……」
「犯人の手掛かりが隠されているかもしれませんもの。細部の観察は大切ですわ」
細部ってなんだよ。
杏奈会長は、真面目そのものの顔で落書きに視線を走らせている。
「あらまあ、線がたいへん滑らかですわね。ためらいがありません。描き慣れていらっしゃるご様子」
「……描き慣れ、ですか」
「二日目以降からは、陰影が加わっております。ここからここにかけて、わずかに太さを変えて……」
重箱の隅まで、よく観察しているものだ。
白い指先が、宙で線をなぞる。
その光景はさながら……。
「……あの、杏奈会長?」
「!?」
彼女はハッとして、勢いよく手を引っ込めた。
「い、いえ! これはあくまで、客観的な分析ですわ! ほら、裕人さんも、ここなどご覧になって!? 無駄に躍動感が――」
「一先ず躍動感言うのやめましょう!?」
思わずツッコミが口から飛び出すと、杏奈会長は頬をわずかに染め、咳払いをした。
「と、とにかく。これほど手の込んだ落書きが繰り返されているのです。犯人は、ただの悪ふざけではなく……ある種の、執念を持っておられる方かもしれませんわ」
「執念の方向性が間違ってる気しかしない……」
「間違っている、だからこそ、是正する必要がございますの。それがわたくしの、わたくしたちのお役目ですから」
キリッと真面目な顔に戻った。
――こんな魚肉ソーセージの落書きひとつで、ここまで真剣になれるのが、この人のすごいところだ。
(……いや、真剣になりすぎて若干ノリノリなのは気のせいだろうか)
ともかく、疑問を胸にしまいながら僕たちは掲示板から少し離れた場所に移動した。
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