第3話
「では、裕人さん。ここでしばらく待機いたしましょう。犯人は、掲示板に近づいたところで、わたくしたちが出て行く。その作戦でよろしいですわね?」
「了解です」
僕と杏奈会長は掲示板から死角になる中庭側の茂みに身をかがめる。
一人なら余裕のスペースでも、二人で隠れるとなると話は別だ。膝と膝が触れ合うくらいの距離で、僕と杏奈会長は肩を並べることになった。
夜気はひんやりしているのに、やけに体温を意識する。
「……せまいですね」
「そうですわね」
杏奈会長は隣で困ったように微笑む。
「でも、こうして寄り添っておりますと……なんだか、秘密基地のようで楽しくありません?」
「た、楽しいって言っていい状況なのかは微妙ですけど……」
「ふふ。わたくし、子どもの頃からこういう『誰にも見つからない場所』が好きでしたの。木の陰、机の下、隠れ家……」
「あぁ、分かります。ワクワクしますよね」
「ええ。わたくしの兄がよく隠れ家を作っておりましたのよ。まだ小さかった頃、そこにこっそり入り込んで叱られたものですわ。『姉小路家の娘たるもの、もっとお淑やかに』などと」
「お嬢様って大変ですね……」
小さな思い出話をしている間にも、校舎の静けさは増していく。
遠くで、時計の針が十二時を打つ音がかすかに聞こえた。
そのときだった。
廊下の向こうから、足音が聞こえてきた。
「……!」
思わず息を呑む。杏奈会長も、僕の腕をぎゅっと掴んできた。
「来ましたわ、裕人さん……!」
耳元でささやく声が、妙に近い。甘い匂いが、ふっと鼻をかすめる。
僕は咄嗟に懐中電灯のスイッチに指をかけた。足音は、掲示板の方に近づいてくる。
しかし――
「おーい、誰か残ってないかー……っと。さすがにいないか」
聞こえてきたのは、勤務時間外のはずの若い先生の声だった。
こんな時間まで、本当にご苦労な職業。涙が出そうだ……。
なんて冷静に労わっている余裕はない。
廊下の照明が一瞬点き、すぐにまた消える。
先生は掲示板をちらりと見ただけで、早々に引き上げていった。
「あぶなっ……セ、セーフですね」
小声で呟くと、杏奈会長の指がまだ腕を掴んでいることに気づく。
「あの、会長。その……そろそろ、腕から離していただけると」
「――あっ」
慌てて手を離し、みるみる頬を赤くした。
「も、申し訳ございません! つい、びっくりしてしまって……。変でしたわよね?」
「い、いえ、全然! むしろ光栄というか、その……」
「光栄……ですの?」
「杏奈会長に頼られてる感じで、ちょっと嬉しかったです」
普段助けられてばかりだからこそ、こういう時は頼りにして欲しい。
正直に伝えると、杏奈会長は一瞬目を丸くして、それからふわりと微笑む。
「……そう言っていただけると、わたくしも少し安心いたしますわ」
その笑顔を見て、胸のあたりがじわっと温かくなる。
落書き犯はまだ現れていない。
だけど、まだもう少し、現れないでいて欲しいだなんて。
言ったらどんな反応をするのだろうか。
しばらくそればかりが気になってしまった。
***
何度か警備の先生が巡回に来たものの、それらしい怪しい影は現れないまま、時間だけが過ぎていった。
深夜二時を回った頃、僕たちは一旦、掲示板から引き上げることにした。
さすがにこの時間に犯人が現れることはないだろう。
「……今夜は、空振りでしょうか」
生徒会室へ戻る途中、杏奈会長がぽつりと漏らす。けれど決して残念という感じではなかった。
「明け方近くに来る可能性もありますけれど……裕人さんのお身体も心配ですわ」
「杏奈会長こそ、眠くないんですか?」
「……少しだけ」
そう言って、口元を隠してあくびをこらえた。
暗い廊下に、窓からの月明かりが差し込む。その光に照らされる横顔は、昼間よりも少しだけ柔らかく見えた。
「裕人さん」
突然、会長が立ち止まる。
「はい?」
「……わたくし、ひとつ重大な告白をしなければなりませんわ」
「きゅ、急にどうしました?」
まさか、このタイミングで恋愛的な告白!?
なんて、展開あるわけないよなぁ……。
……な、ないよな?
心臓が勝手に期待しているのを無理やり宥めていると、杏奈会長は深呼吸を一つした。
「今回の落書きの件……実は犯人の目星はついているんです。おそらく――いえ、確実に」
「えぇっ!?」
「その犯人というのは……」
「……ごくり」
そこで一拍置き、真っ直ぐ、僕の目を見る。
「……わたくしですわ」
「……は?」
脳内で、何かの回路が変な音を立ててショートした気がした。
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