午前6時05分
紙の妖精さん
6:05 a.m.
青川通り角に佇む小さなベーカリーの香ばしいパンの匂いが路地に漂い、通勤途中の人々の足を一瞬止める。店先の木製の看板には、「本日のおすすめ」とチョークで書かれた文字が揺れている。小さなベルが、開いたドアの向こうから軽やかに響くたび、街は朝のはじまりを告げる。
店内の木の棚には焼きたてのクロワッサンや丸いバゲットが並び、カウンターの奥からは湯気を立てるコーヒーの香りが漂う。
「おはようございます」
小さな声に振り向くと、店員の少女が笑顔で立っていた。制服のエプロンは少し大きくて、肩にかかった髪が黒青い。
カウンターの奥で、少女は丁寧に、棚のパンを一つずつチェックしていた。ふわりと漂うバターの香りが、まだ寝ぼけた街の空気に溶けていく。
「いつもの、お願いします」
低くて少しハスキーな声が、ドアの向こうから聞こえた。見上げると、スーツ姿の青年が立っていて、少女は自然に笑みを返すと、彼のために一番大きなクロワッサンとミックスフルーツサンドパンをトレーにのせた。青年はそれを受け取り、ありがとう、とだけつぶやいて店の奥の席に座る。
店内の時計の針が一つ進む。外の通りを歩く人々の足音、遠くで鳴く猫の声、コーヒーの香り――。
青年はクロワッサンを一口かじり、カップのコーヒーをゆっくり傾けた。
「今日は当番?」
少女は小さく肩をすくめて笑う。
「ええ、朝番です」
青年は窓の外を見やる。通りはまだ人影もまばらで、街路樹の葉が朝日にきらきらと光っている。
「良いですね」
少女はカウンターを拭きながら、軽く頷いた。
「はい」
青年はコーヒーをもう一口飲み、ふっと息を吐いた。
そのとき、ベルが軽く鳴った。ドアの向こうから小さな足音が近づいてくる。
「おはようございます!」
小学生くらいの少年が、少し息を切らせながらカウンターに駆け寄った。
「いつものください!」
少女はにっこり笑って、棚から フランスパンを一つ取り出して紙袋に包む。
「はい、今日も元気ね。朝から走ってきたの?」
少年はうなずき、フランスパンを受け取る、青年はその光景を横目で見ていた。
少女は、少し照れくさそうだった。
青空が広がり、店内に差し込む光はパンの香りと交差する。
木の机や壁の色、カウンターに並んだ焼きたてのパン、そして差し込む朝の光……。
青年は手にしたミックスフルーツサンドパンをそっとかじった。温かく、ほんのり甘い香りが口いっぱいに広がる。
少女はトレーに残ったパンを整え
カウンターの端に置かれた小さな花瓶を丁寧に花を生けた。
青年はコーヒーをゆっくり口に運び、ベーカリーのドアが開くたびに冷たい風が流れ込む。
少女は手を拭きながら、小さな声で「もうすぐお客さんが増える時間」と言った。
青年は答える。
「そう」
少女はショーケースのパンを並べ直す。
少女はカウンターの端に置かれた花瓶の小さな花をそっと見ると
朝の光が花びらに反輝していた。
青年はその光に気づき、カップを置いた。
「その花、綺麗になったね」
「パンと一緒で、人が恋しいのかも?」少女。
ベーカリーではコーヒーと焼きたての香りが空間を満たした。
「今日、忙しい?」青年。
「うん。……」少女。
ドアのベルがまた鳴る。
外から入ってきた風が花びらを揺らす。
青年は少女の横顔を見ていた。
「水雲井さんはずっと、ここで働くの?」
「?」
少女は少し考えてから答えた。
「たぶん……」
バス停に人が増え、信号の音が遠くかすかに聞こえる。
少女は棚からパンを一つ取り、紙袋に入れて青年の前に置く。
「これ、よかったら。試作品だけど……。今日の朝に焼いたやつ」
青年は少し驚いたように目を上げた。
「いいの?」
「うん。感想ほしいから」
少女は嬉しそうに目を細めた。
「バター変えたから合うかなと思って」
少女のエプロンの白の角が取れる。
「……きれいだね」
「?」
「?」
少女はエプロンのポケットに手を入れながら、少し照れたように笑った。
「パンの焼けた匂いも残ってるし、コーヒーの湯気がゆっくり見えるし……」
「……水雲井さんが毎朝、ここにいるし……」青年。
水雲井は一瞬、目を大きく開いた。
それから視線を落とし、静かに笑った。
「ふふん」
「冗談」青年。
水雲井は笑顔。
少女が花瓶から指を離した瞬間、店の奥でオーブンのタイマーが「ピッ」と短く鳴った。
青年はコーヒーの残り香が漂うカップを眺めた。
「また朝、来てくれる?」ほとんどささやくように少女言った。
青年は迷わず頷く。
「うん」
(了)
午前6時05分 紙の妖精さん @paperfairy
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