第3夜 深夜のラーメン屋で、味噌チャーシューをすする ―

雨の匂いには、ときどき記憶が紛れ込んでいる。


十一月の深夜一時半。

杉本亮介は、傘も差さずに会社を出た。

雨は粒を小さく、音を細くしながら、街をゆっくり濡らしている。

シャツの肩はじんわりと湿り、靴の中の空気が冷たくなる。


だが、今日はその冷たさすら心地よかった。

昼から続いたトラブルの連鎖で、頭は麻痺していたのだ。


(帰りてぇ……でも、なんか食わないと寝れねぇ。)


夜の雨が降った日は、胃も心も土砂降りになる。

そんな夜には、どうしても“熱いスープ”が必要だった。


亮介は、雨粒がゆっくり落ちていく通りを歩いた。

人影の少ない深夜のオフィス街は、昼の喧騒を忘れたように静かで、

どこかしら“自分しか存在していない”ような錯覚すら覚える。


交差点の角、薄暗いビルの一階にぽつりと灯った赤い提灯。

「らぁ麺 しずく」

提灯の揺れが、雨に滲んで赤い火のように見えた。


亮介は吸い寄せられるように、暖簾をくぐった。


■ 湯気の向こう、静かな優しさ


店内は狭かった。

カウンターが七席だけ。

深夜にもかかわらず、数人の客が黙って麺をすすっている。

店の奥の小さなテレビから、深夜のニュースの音が漏れるが、

誰も見ていない。


厨房に立つのは、無口そうな店主。

白いタオルを頭に巻き、丁寧な動作でスープ鍋をかき回している。


その鍋から立ち上る湯気が、

雨で冷えた亮介の体に触れた瞬間、

背中の緊張が少しだけほどけた。


席に腰を下ろし、メニューを眺める。


 ・味噌ラーメン

 ・味噌チャーシュー麺

 ・塩バター

 ・辛味噌

 ・半チャーハン


どれも名前の横に余計な説明はなかった。

ただ、堂々と真ん中に“味噌チャーシュー”が鎮座している。


亮介はそれだけで決めた。


「味噌チャーシュー、お願いします。」


店主は軽くうなずいた。

鍋の蓋を開ける音が、静かな夜にやさしく響いた。


■ 深夜の静寂に浮かぶ、ひとつの再会


注文を待つ間、亮介はカウンターに肘をついた。

指先に伝わる木の冷たさが妙に気持ちいい。

雨音、換気扇の低い唸り、客のすすり音。

それらがひとつの塊になって、雨夜の“子守唄”のようでもあった。


そのときだった。


「……杉本、じゃねぇか?」


声は、右隣からした。

濁声だけど、どこか聞き覚えのある響き。


亮介は振り向いた。


濡れたコートを脱ぎ、髪を手でぐしゃぐしゃと乾かしている男。

目の下に疲れを抱えながらも、どこか昔のままの表情。


「宮坂……? お前、宮坂か?」


「そうだよ。お前こそ、なんでこんな時間に?」


かつて同じ広告代理店で働いていた同期だった。

二年前、突然退職した。

人間関係が原因だったという噂だけが残り、

亮介はその理由を直接聞いたことはなかった。


宮坂はビールを一口飲み、

「相変わらず、疲れた顔してんな」と笑った。


亮介は苦笑しながら、改めて彼の顔を見た。

疲れているのは、宮坂のほうも同じだった。


■ 味噌チャーシューの湯気が語りたがるもの


「味噌チャー、一丁!」


店主の声とともに、

重厚な香りが二人の間に、湯気のように立ち込めた。


味噌ラーメンは、見るだけで胸が温かくなるほどの色をしていた。

濃い琥珀色。

溶けかけたラードが表面に薄膜を張り、

スープの呼吸がかすかに光っている。


チャーシューは四枚。

薄くない。厚すぎない。

“今日の疲れにちょうどいい量”を誰かが知っているかのようだった。


亮介は箸を取った。


麺を持ち上げると、雨のように湯気が立ち昇る。

一口すすれば、味噌の深みが舌に沈み、

じわりと体の内側が熱に満たされていく。


(……あぁ、生き返る。)


胃袋だけじゃなく、胸の奥の古い傷まで温かくなるような味だった。


宮坂も黙って麺をすすっていた。

一杯のラーメンが、言葉のいらない会話を作り出していた。


■ 二人の夜、そして一杯の本音


沈黙を破ったのは宮坂だった。


「なぁ杉本。

 俺が辞めた理由……知りたいか?」


亮介は少し迷い、うなずいた。


「俺さ……今日も、逃げてきたんだよ。」


その一言に、亮介の胸がズキッと反応した。

第2夜の立ち飲み屋で聞いた“逃げてもいい”という言葉がよみがえる。


「会社は変わったけど、やってることは同じ。

 人間関係が腐ってるとこで、無理して笑って……

 気づいたら、ラーメン屋で雨宿りしてんの。」


宮坂はスープを一口飲む。


その目は、

「お前も似たようなもんだろ」と言っていた。


亮介は、自分の胸の内側に沈んでいた言葉が浮かんでいくのを感じた。


「……逃げる場所が、あるだけマシかもしれないな。」


二人は、小さく笑った。

その笑いは、深夜の雨音よりも静かだった。


■ 夜のラーメン屋を出るとき、人は少しだけ軽くなる


外へ出る頃には、雨は細く弱くなっていた。

路面に映る街灯の光が、滲んだ金色で揺れている。


宮坂はタバコに火をつけ、煙を一度吐いてから言った。


「また会おうぜ。夜に。」


「……ああ。夜なら、いつでも。」


二人は別々の方向へ歩き出した。

深夜の静けさが、二人の背中をそっと押した。


亮介は思った。


“夜飯は、一人で食っても、誰かと食っても。

 どっちでも、救われる。”


雨上がりの道を踏みしめながら、

亮介はほんの少しだけ、今日を許せた気がした。


― 第3夜 終 ―

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ひとりの夜、定食屋で。 @zunodayo

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