第2夜 新橋の立ち飲みで、煮込みをつまむ ―

十一月の金曜日。

杉本亮介(すぎもと・りょうすけ)は、会社を出た瞬間に深いため息をついた。

空は雲が低く垂れ、今にも泣き出しそうだった。

週末前だというのに気持ちは晴れず、体の芯にはじわりと疲労が残っている。


原因は昼の会議だった。

大手クライアントの担当者が突然、企画案の大幅修正を要求してきた。

「この案じゃ弱い」「もっと話題性を」――

締め切りはすでに目前。

上司は外から電話で渋い顔をし続け、部下たちの肩は沈んだまま。

結局、亮介がほとんど再設計をする羽目になった。


(あー……腹も減ったし、酒も飲みてぇ。)


今日の夜飯は、しっとり座って食う気分じゃない。

湯気が立っていて、少し濃い味の、温かいやつが食べたい。

胃袋も心も、それを求めていた。


亮介はふと足を新橋方面へ向けた。

街の明かりは会社帰りの人間のために輝いているようで、どこか安堵感がある。

大通りから路地へ一本入ると、ネオンがややくぐもり、

サラリーマンたちの笑い声、赤提灯の光、焼き鳥の香ばしい匂いが混ざり合う。


その中に一つ、やけに人の出入りが多い立ち飲み屋があった。

暖簾には「立呑み こがね」。

声も煙も熱気も全部が飛び出してくるような店だ。


(よし、今日はここにするか。)


扉を開けると、カウンターが目の前に横一線。

客はほとんど立ち飲みで、それぞれが思い思いのペースで酒とつまみを楽しんでいる。

炊き込みご飯の香り、タレが焦げる音、そして何より、

奥の大鍋から漂う“煮込み”の匂いが強烈に食欲を刺激してきた。


「いらっしゃい! 一人? そこ空いてるよ!」


元気な女将が指差したカウンター端へ立つ。

ステンレスの台が手首にひんやりして、なんとなく気持ちが整う。


「はい、飲み物どうする?」


「じゃあ、レモンサワーで。」


「はーい!」


氷が音を立て、炭酸の弾ける音が耳に心地よい。

一口飲んだ瞬間、体中の疲れがしゅわっと抜けた。


(……うまい。)


今日の一杯は特に沁みた。


「注文決まったら言ってねー!」


壁に貼られたメニューに目を走らせる。


 ・牛すじ煮込み 430円

・ハムカツ 350円

・ネギ塩レバー 480円

・大根の味噌おでん 180円


全部うまそうだが、今日の亮介には迷いがなかった。


「煮込みください。」


「はいよっ!」


女将の威勢いい声が店内を駆け抜ける。


ほどなくして、小さな陶器の皿に盛られた煮込みがやってきた。

大ぶりの牛すじに、大根、こんにゃく、少量の刻みネギ。

薄茶色の味噌スープがとろりとしていて、なにより湯気の立ち方が最高だった。


「熱いから気をつけてね!」


亮介は箸で大根を割った。

ほろりと崩れるほど柔らかく、味が芯まで染みている。

口に入れると、味噌の甘味と牛すじの脂が混ざり合って、

一瞬だけ、世界が静かになった。


(……うまっ。)


思わず目を閉じてしまう。


一週間分の雑音が消え、心がほどけていくのがわかる。

こういう瞬間があるから夜飯はやめられない。


「兄ちゃん、仕事帰り?」


隣の客が話しかけてきた。

年は四十代後半、くたびれたスーツ、緩んだネクタイ。

頬は少し赤いが、嫌な酔い方ではない。

“今日もいろいろあったんだろうな”とわかる顔だった。


「ええ、そんなとこです。」


「わかるわー。新橋でレモンサワー片手に煮込み食ってる会社員なんて、

 だいたい何かから逃げてる。」


「逃げてますね、完全に。」


「俺もだよ。逃げて30年。

 でも、逃げながら食う煮込みはいつもうめぇ。」


男は笑いながら煮込みをかき込み、またレモンサワーを飲んだ。


「若い頃はさ、逃げるのが負けだと思ってたよ。

 でも今は違う。逃げるのも立派な戦略だってな。」


その言葉に、亮介の胸が少しだけ疼いた。


昼の会議で、上司に「全責任はお前が持て」と言われたとき、

本当は心のどこかで“逃げたい”と思っていたのを思い出す。


「兄ちゃん、がんばりすぎんなよ。」


男はそう言って、ふらりと会計を済ませ、店を出ていった。


(……がんばりすぎる、か。)


亮介は残りの煮込みをゆっくり噛みしめた。

牛すじの柔らかさが、妙に心に沁みる。

この皿一杯の温かさが、人の言葉よりずっと優しく感じた。


二杯目のレモンサワーを飲み干し、店を出る。

外はすっかり冷えていたが、腹の奥は温かいままだ。


夜風が顔をなでる。

街の雑踏はまだ起きている。

サラリーマン、OL、タクシー、赤提灯。

それぞれの夜が、ひっそりと続いていく。


(逃げる日があってもいいか。)


亮介は小さくつぶやいた。

その一歩が、少しだけ軽くなった気がした。


今日の夜飯も、たしかに彼を救ってくれた。


― 第2夜 終 ―

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