ひとりの夜、定食屋で。

@zunodayo

第1夜 夜の定食屋で、アジフライ定食を食う 。

十一月の風は、昼間よりもずっと冷たかった。

オフィス街を抜けると、吐く息が白くなる。

杉本亮介(すぎもと・りょうすけ)は、シャツの襟を立てて首をすくめた。

終電まであと一時間。

プレゼンの修正を任された部下がミスを見落としていたのは、夕方六時。

そこから怒鳴り合い、再提出、上司への謝罪、取引先への再連絡。

気づけばもう、夜の十時を過ぎていた。


「……腹、減ったな。」


亮介は独りごちた。

コンビニ弁当もカップ麺も、今日はどうしても食べたくなかった。

この疲れを、“適当なカロリー”では埋められない。

舌に油がほしい。

胃に温かさがほしい。

そして、心に――少しの慰めがほしかった。


オフィス街を離れて、裏通りへ入る。

ネオンが途切れ、街灯の下に小さな暖簾が見えた。

白地に黒で「味処 ふじ田」と書かれた文字。

見覚えはない。

だが、こういう店こそ当たりの予感がする。


扉を開けると、出汁と揚げ油の香りが鼻をくすぐった。

L字のカウンター、八席だけの小さな店。

カウンターの向こうでは、白髪交じりの店主が静かに魚をさばいている。

BGMは流れていない。聞こえるのは、包丁の音と、油の小さな弾け音だけ。


「いらっしゃい。」


低く、落ち着いた声。

亮介は軽く頭を下げて、カウンターの端に腰を下ろした。

壁に貼られた手書きのメニューを眺める。


 ・サバ味噌煮定食 八五〇円

 ・アジフライ定食 九〇〇円

 ・しょうが焼き定食 九五〇円

 ・ハムカツ単品 四五〇円


どれも魅力的だが、今の彼の胃袋が求めているのは決まっていた。


「アジフライ定食、お願いします。」


「はい。」


店主が短く返事をし、衣をつけたアジを油に落とす。

ジュワッという音が、静かな夜に溶けた。


亮介は、ふっと肩の力を抜いた。

こうしてカウンターに座って待っている時間が、妙に好きだ。

昼間の自分は、常に誰かの顔色をうかがっている。

上司、部下、取引先。

だが、ここでは誰も何も求めてこない。

ただ「待つ」という行為が、自分を少し人間らしく戻してくれる。


油の音が少し高くなり、香ばしい匂いが広がる。

揚げ物の音は、人を安心させる。

家庭の夕餉を思い出すからかもしれない。


十五分ほどして、定食が目の前に置かれた。


白い皿の上に、黄金色のアジフライが二枚。

端にキャベツの千切りとレモン。

脇には小鉢の冷奴、味噌汁、炊きたての白米。

まるで「今日一日お疲れさま」と言われたような、完璧な配置だった。


「どうぞ。」


店主の短い言葉を背に、亮介は箸を取った。


まずは一口、レモンを軽く絞ってかじる。

衣がサクッと音を立て、肉厚の身からふんわりとした甘味が広がった。

揚げたての熱が舌に乗り、噛むほどに旨味が滲む。

ビールでも欲しくなるところだが、今日は頼まない。

この“真剣な夜飯”を、最後まで味わいたかった。


米を一口。

味噌汁をすする。

塩分と油分が舌の上で調和し、心まで満たされていく。


(うまい……これだよな。)


亮介は目を閉じた。

この一瞬のために、一日を頑張っている気がした。


「仕事帰りですか。」

不意に店主が声をかけてきた。


「ええ、まあ。ちょっと遅くなってしまって。」


「この時間に来るお客さんは、みんな似たような顔してますよ。」


「……どんな顔です?」


「腹が減ってて、心も減ってる顔です。」


亮介は苦笑した。

図星だった。

しかしその言葉に、妙な温かさを感じた。


「でも、帰るころには少し顔が変わるんです。

 飯ってのは、そういうもんですよ。」


その言葉が、胸の奥にじんわりと残った。

彼はゆっくりと最後の一口を噛みしめ、味噌汁を飲み干した。


外に出ると、夜風が冷たい。

けれど、腹の奥はあたたかかった。

街の灯りが少しだけ柔らかく見える。


スマホに未読のメール通知が並ぶ。

仕事のことを考えれば、明日もまた面倒な日々が続くだろう。

だが今夜だけは、少し前向きな気分になれた。


(また来よう。今度はハムカツでも食うか。)


亮介はポケットに手を入れ、静かに歩き出した。

交差点の信号が青に変わる。

一日の終わりに、彼の“流儀”がまたひとつ刻まれた。


― 第1夜 終 ―

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