鼻水の約束
泣き疲れた俺は、撮影を終えて控え室のソファに座っていた。
空調のブーンという音が聞こえるぐらい静かだ。
テーブルの上には、涙を拭ったティッシュの山と、水分でくたくたになった脚本。それと、ポケットに忍ばせておいた目薬。
控え室のドアがノックもなしに開いた。
雨宮さんがコンビニの袋を下げて入ってくる。
「お待たせしましたー」
「ここで待ってろっていうから、ちゃんと待っておいたけど」
「ありがとうございます。で、鼻水は止まりましたか?」
「……まだ止まらねぇ」
クスッと笑いながら、雨宮さんは近づいて、缶コーヒーを1つ差し出した。
「これ、砂糖多めのやつです。泣いた後は甘い方がいいって母が言ってました」
「ほんとかよ」
缶を受け取って一口飲む。
「……甘過ぎ」
「でしょう?」
雨宮さんは笑いながらソファの端にちょこんと座った。
「髙梨さん。さっきの撮影分から、切り抜き動画で投稿されたの知ってます?」
「はぁ? 聞いてないぞ」
「モニター室で監督がしっかり編集して、これは髙梨くんの歴史に残るって笑い泣きしてました」
「あの監督、良くも悪くも俺のこと好きだよな。だってあれ、鼻水飛んでただろ。恥ずかしいから消してくださいって言ったのに」
「消さないって。これが真実だからって監督言ってましたよ」
呆れた俺は、ソファの背もたれにぐねっと体を預けた。
「もうこれ、一生言われるんだろうなぁ」
「一生どころか、Wikipediaに載りますよ。髙梨透が鼻水で号泣した日」
俺は思わず吹き出した。
「Wikipediaは自分で編集できるから、後で消しとく」
「あー、やはりファンの仕事は早いですね。もう項目ができてます」
「どんな項目だよ」
「髙梨透、代表作、鼻水の約束」
差し出されたスマホを覗き込んで絶句した。
本当にできてる。
しかも、鼻水の約束が正式な項目名になってる。
ドラマのタイトルと全然関係ないのに。
「これで髙梨さんは、100分の98側に来たんですね、ようこそ」
雨宮さんは両手を広げた。
「何の話だ」
「言ったじゃないですか、観客の100人中98人は泣くって。残りの2人は鼻水でひく。完璧な計算だって、助監の佐藤さんが絶賛してくれました」
「あれは絶賛じゃない。それに、俺はまだ2のほうだ」
俺はすっかり飲み干した缶コーヒーを握りしめた。
「……はぁ。ここまでコツコツと積み上げてきた、クールで格好いい俺のキャラはこれで終わりだ」
雨宮さんはゆっくり首を振った。
「終わってないですよ。今、トレンド1位は『#髙梨透の本気泣き』に変わりましたから。あぁあ、私の『#鼻水の約束』を1日で塗り替えないでくださいよ」
俺はスマホを恐る恐る開いた。そこには確かに──
#髙梨透の本気泣き 350万投稿 ↑↑↑
コメント
『鼻水で号泣してる透くん、初めて人間に見えた』
『完璧な透より、100倍好きになった』
『アメマリの「泣いてもいいよ」で俺も泣いた』
俺はしばらく、スマホを持ったまま固まってしまった。
「私の姉、今小さな赤ちゃんがいるんですけどね。赤ちゃんって一日中、隙あらば泣くんですよ。泣き声を聞くと、もうどうにかしてこの子を泣き止ませてあげたいって思って。泣くってこんなにも、人を動かすんだって思ったんです。だから、今日、髙梨さんが泣いてくれた時……私本当に嬉しくて」
俺はスマホから顔を上げた。
「……バカだな、お前」
でも、目がまた潤んでくる。
「髙梨さん」
「……ん?」
「もう、完璧じゃなくていいですよ」
「……でも、俺、下手クソだぞ。鼻水垂らすし、セリフ噛むし」
「それでいいんだと思います。私も下手クソですから」
「お前は天才だろ」
「天才じゃないです。ただ、泣けるだけです」
顔を見合わせると、初めて対等な目線を交わせているような気がした。
「なぁ、雨宮さん」
「なんですか?」
「またショートドラマ撮ろうな」
雨宮さんはもともと丸い目を、さらにもっと丸くして。それからふわりと笑った。
「鼻水練習ですか?」
「なわけないだろ」
でも、口元が緩む。
コンビニの袋からもう1本の缶コーヒーを取り出した雨宮さんは、カチンと俺の持っていた缶にぶつけた。
「お疲れ様でした、先輩」
「……お疲れ」
2人は同時にコーヒーを飲んだ。
「そういえば、涙はストレスホルモンを体外に排出する働きがあるそうですよ。副交感神経が優位になって、深いリラックス状態にもなりますし、泣くと脳内にエンドルフィンとオキシトシンが分泌されて頭がスッキリします」
半分感心して、半分呆れながら、雨宮がスマホで調べている解説を聞いた。
「泣くことで目の表面が洗浄されてドライアイが一時的に改善しますし、リゾチームと免疫グロブリンが増えるので、免疫力アップ! 風邪もひきにくくなります。それに、この後は髙梨さんにとって大事ですよ」
「俺に?」
「号泣した翌日は肌がツヤツヤになるそうです。ストレスホルモンが減少することで、皮脂バランス改善になるそうです」
「イケメンたるもの、美肌は欠かせないからな」
いつもの角度でキメ顔をすると、雨宮さんは乾いた笑いを漏らした。
「髙梨さんって切り替え早くていいですね」
「褒めてるか?」
「はい」
「嘘つけ!」
目薬の涙はただの水分。
本物の涙だけが、心の中の毒を外に出してくれる。
「俺はもう、完璧じゃなくていい。下手クソで、鼻水垂らして、セリフ噛んで……でも、この涙で誰かを守れるなら。いや守っていく」
「やっぱり髙梨さんって、文才ないですね」
「それは完全に褒めてないだろ」
「はい」
「ちょっとは否定しろよ」
完璧な容姿、何を考えているのかわからないクールな佇まい。
自分の気持ちを表出するのを恐れていた俺はもういない。
涙の魔法~完璧で泣けない俳優~ 佐海美佳 @mikasa_sea
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