完璧な俳優なんていない
俺は憂鬱な気持ちでスタジオに入った。
病院のセットはそのままだが、スタッフ全員が妙にソワソワしている。
いや、俺の顔を見て笑っている。
「おはようございます、髙梨さん」
雨宮さんは、今日も元気だ。にっこり笑って肩越しに挨拶を交わす。
「おはようございます……で、何書いてるの?」
「決まってるじゃないですか、今日の演出案です」
ケータリングが小山となっているスタジオの片隅。
高宮さんは大きなホワイトボードに文字を書いている。
俺は、恐る恐るその文字を読んだ。
(1)髙梨さん、鼻水OKです
(2)セリフ噛んだらそのままGO!
(3)泣きすぎてカメラに鼻水が飛んでもカットしません
俺の全身の血が引いていく音が聞こえる。
「うわぁ……」
にやにや笑いながら長野監督が登場した。
「髙梨くん、準備いい? 雨宮さんの演出、楽しみだな~」
俺は、覚悟を決めてベッド脇に立った。
昨日はもう薬が効かなくなってきている恋人との約束のシーンだった。
今日はその恋人が死んでしまうシーンだ。
昨日よりも白っぽい化粧をした雨宮さんが、小声で囁く。
「髙梨さん、昨日のコメント見ました? みんな、私の鼻水を待ってるんですよ」
「……黙れ」
なんだよ、鼻水待ちって。
それからしばらくして撮影が開始した。
スタジオに長野監督の声が響く。
「よーい、アクション!」
ベッドに寝ている雨宮さんのセリフから始まる。
「ねえ……私、もう、ダメみたい……」
「……そんなわけないだろ」
ポケットに忍び込ませた目薬を探す指が震える。
横たわり、死にそうな表情をしていた雨宮さんの眼球がそろりと動いた。
「髙梨さん、私、昔から知ってるよ」
「え?」
そんなセリフ、台本になかった。
雨宮さんの突然のアドリブだということは、俺以外のスタッフも気づいていた。
「私、昔から知ってるんです。中学の時、教室で泣いてましたよね」
スタジオが静かなざわめきに満ちる。
俺は足元から凍ったように動けなくなった。
「あの時、私が守ってあげたかった。でも今は……髙梨さんを私が救いたいんです」
雨宮さんは涙を浮かべて、俺の手を握った。
「泣いてもいいよ。もう、隠さなくてもいいんだよ」
俺はポケットの目薬から手を引いた。
そして本物の涙が溢れ始めた。
泣いてしまったら、これまでの自分が崩れてしまう。そんな怖さはもう感じなくなっていた。
なぜなら、崩れてしまった自分を受け入れられることがわかったから。
「……やめろ。こんなの……演技じゃない……」
「演技じゃなくてもいいじゃないですか。髙梨さんが今、本当に泣いている。それでいいじゃないですか」
俺は膝から崩れ落ちた。カメラが回っているのに。沢山の人に囲まれているのに。
涙の後には、鼻水まで出始めた。
セリフも上手くいえなくて、噛んでしまう。
「俺は……お前が……い、いなくなるなんて……い、なくな、うなんて……う、うわああああああああ!!」
号泣。
顔をくしゃくしゃにして、雨宮さんの手にしがみついて。
子どもみたいに泣きじゃくる。
「ひぃっ……く、嫌だよ、お前が……ひっ、いなくな……いなくならないれ」
撮影スタッフは全員固まっていた。
監督も、口をポカンと開いたままだ。
唯一、助監督だけが泣いているのか下を向いている。
どれぐらいの時間そうしていただろう。
「……カット、でいいですか?」
雨宮さんの優しい声に、長野監督は首を横に振った。
「いや……いや、これはカットしない」
嘘だろ。もう、全然ダメだろ。
俺は鼻水を垂らしたまま顔を上げる。
「ダメじゃないよ。髙梨くん。これだよ。君に欠けていたのは、これだったんだよ」
モニターに映る俺の顔は、全然完璧じゃなかった。
鼻水は垂れてるし、目が腫れている。
でも、生まれて初めて、本物の感情が乗っている男の顔をしていた。
スタッフの1人がポロポロと泣き始めた。
それに連鎖するように、スタッフ全体がもらい泣きの状態にまでなった。
俺は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃなまま雨宮さんを見た。
「俺、こんな顔、初めて見せたよ」
雨宮さんももらい泣きしていた。
「かっこいいですよ。中学の時より、100倍かっこいい」
「お前ってもしかして、俺の中学の……」
「はい。後輩です。私の姉が髙梨さんのこと、よく知ってまして」
「なんだよ、それ、先に言ってよ」
カメラのファインダー越しに、自分の泣き顔が映っている。
昔の泣き虫の自分と、今の本物の涙が重なって見えた。
そうか、これが俺の本当の顔だったんだ。
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