第2章 死にゆく古書の霊安室 

暗く、埃臭い部屋。


その四畳ほどの空間の中には、所狭しと本が積まれていた。たださえ狭いのに、そのスペースの大半は本によって占拠されている。どの本も古びていて、ページは傷んだ果実みたいに変色していた。カーテンの閉まった部屋は光も入らず、地下室と見紛うぐらいに暗然としている。


図書準備室は、まるで死んだ本の霊安室だ。


その部屋に美由希はいた。

彼女は本を退けて、床に自分が座れるだけのスペースを確保している。


時間は正午過ぎ。

教室で昼食を食べたくはなかった。


美由希は鞄からサンドイッチを取り出すと、スマホのイヤホンを耳に挿す。今日のBGMはお気に入りのツイキャスの過去配信。イヤホンで外界から閉ざされる瞬間。それは彼女にとって最もリラックスできる時間だ。


部屋の中は、古い紙のすえた匂いで充満している。空調もなく、決して快適な場所とは言えない。しかし教室よりはマシだ。この学校の中で美由希が唯一、平和を感じられる場所だった。 


その時、扉の軋む耳障りな音がした。


美由希は驚いて、そのまま固まってしまう。


愛夢らむか、もしくはその取り巻きでも入ってきたのか?


少女の背筋が一気に凍った。


しかし開いた扉から顔を出したのは、よく見知った顔。


「美由希、またここにいたの?」


入ってきたのは、フレームのない眼鏡をした長い黒髪の少女だった。


「・・・里恵りえ


美由希は胸を撫で下ろしていた。


眼鏡の少女・・・工藤里恵りえは美由希の数少ない友人の一人だ。同じ美術部員で、放課後はよく一緒に絵を描いて過ごす仲である。


里恵は扉を閉めると、そのまま窓の方に足速に向かう。素早くきびきびした動き。美由希は彼女の機敏な動きを見るのが好きだ。


「カーテンぐらい開けなよ。暗すぎる」


眼鏡の少女はスカートがまくり上がるのも構わず、本の山をいくつも踏み越えた。


部屋の奥・・・窓にまで到着すると、里恵は一息にカーテンを開け放つ。太陽の光がモルグを照らした。舞い上がる埃がキラキラと星屑めいて輝く。


彼女がそのまま窓を開けると、ごう、と風が入ってきて、埃と同時に里恵の長い黒髪も巻き上げた。


「いくら教室に居づらいからって、こんなとこでご飯食べちゃ駄目だよ。埃とか吸って病気になっちゃう」


そう言うと眼鏡の少女は、美由希の側にストンと座った。


「今朝、大丈夫だった?」


里恵の大きな瞳が美雪を見ている。


「隣の教室から凄い臭いがするから、どうしたのかなって・・・そしたら、また美由希が何かされたって聞いて・・・」


彼女の心配と気遣いに満ちた視線を美由希は感じていた

こんな目で見てくれるのは里恵だけだ。


「ホルマリン漬けのカエルを食わされそうになった」


「はぁっ? 何それ?」


眼鏡の少女が声を上げた。


里恵の声はよく響き、そして透き通って聞こえる。高原に響く歌みたいで、すごく綺麗だと美由希は思う。彼女にもっと大きな声を出させたいとさえ思った。


「それって・・・嫌がらせするために、わざわざ理科準備室から持ってきたってことだよね」


里恵は呆れたようにそう言った後「どうかしてる」とボソリと続けた。


「実はホルマリン漬けは二回目」


「なに?」


「二回目」


「うそ」


「三ヶ月ぐらい前に、ホルマリン漬けのトカゲの瓶をカバンの中で割られたの」


「・・・・・・」


眼鏡の少女は呆れと嫌悪がない混ぜになった顔をしている。


正直、美由希はちょっと愉快だった。朝はひどい思いをしたが、里恵のこんな顔を引き出せたのは収穫だ。


「その時の瓶のラベルに、平成五年って書いてあった。多分作られた年だと思うんだけど」


「ラベル?」


「今日の瓶には昭和って書いてあった。それで・・・今日の方が臭かったんだよね・・・。古い瓶の方が匂いがキツいんだね、きっと」


「・・・何を言ってんの、あんた」


「ちょっとした気づきを得たってことだよ」


「何の得にもならない気づきだね」


里恵はほんの少しだけ笑った。

彼女が笑ってくれたことが、美由希には何よりも嬉しい。


そのまま美由希と里恵の会話は途切れた。

二人の間には、美由希がサンドイッチを咀嚼そしゃくする音しか聞こえない。

しかし気まずさはなかった。

美由希と里恵の間には、このような沈黙に任せる時間がままあった。この沈黙の時間こそが、二人にとって気持ちの良い時間だった。


だが、そのうちに外の生徒たちの五月蝿い声が聞こえてくる。図書準備室の前で男子たちが噂話をしているようだった。誰が好いたの惚れたの、どの女子の胸が大きいかだの、ひどく品のない会話が聞こえる。BGMにしておくにはあまりにも耳障りだ。


美由希はこれ以上、クズどもの会話を耳に入れたくはなかった。


彼女が沈黙を破ろうとした時、

「そう言えば」

里恵が口を開いた。


「さっきまでイヤホンで何を聴いてたの?」


里恵もまた美由希と同じ気持ちだったのかも知れない。


「ツイキャスのアーカイブ聴いてた」


「ツイキャス?」


「そう。ツイキャスの配信者で、怖い話をひたすら収集して披露してる人達がいてね」


「怖い話って、怪談話?」


「そう、そんな感じ」


美由希の楽しそうな言葉に、里恵が顔をしかめた。


「うぇっ、そんなの聴くの?」


「嫌い? 怖い話」


「得意な方じゃない」


「さっき聴いていたのはコックリさんの話」


「えー」


「里恵はしたことある? コックリさん」


「馬鹿なこと言わないでよ」


里恵は嫌悪に満ちた顔をした。部屋の隅にデカい蜘蛛でも見つけたような表情。


「するわけないじゃん! コックリさんなんて」


欲しい反応をしてくれるなぁ、と美由希は思う。

もっと里恵の色々な顔が見たかった。


「これは中学生のAさんの話なんだけど・・・」


心底嫌そうな顔をする親友に構わず、美由希は話し続ける。


「忘れ物をしてしまったAさんは、放課後の学校に取りに戻ったの・・・。時間は夜の7時を過ぎていて、教室は既に真っ暗」


「あたしなら絶対入れない」


「Aさんが、暗い教室に入った時、その隅に知らない生徒たちがいたの・・・。月の光の中で、四〜五人の生徒たちが円になって立っている」


「・・・・・・」


情感たっぷりに話す美由希を里恵が見つめている。


「『あれ? 誰だろう、何してるのかな』ってAさん生徒たちに近づくの・・・。月の光の中で、生徒たちが机の上に指を伸ばしている。机の上にはボロボロの紙があるのが見える。そして生徒が指を伸ばす先には硬貨が・・・多分10円玉が置かれてる」


「うえっ、なにそれ」


「Aさんが、『これってコックリさんってやつじゃないの?』って気づいたその瞬間、生徒たちが声を合わせて唱え始めたの。『コックリさんコックリさんコックリさんコックリさん・・・』」


「あーあーあーあー!!」


里恵は大仰おおぎょうにかぶりを振ってみせた。


「やめて! やめてよ! もう充分! 苦手だって言ってるのに!」


その嫌がる動きがあまりにも大袈裟なものだから、美由希はつい笑ってしまう。


「悪いけど、わたしは聴かないよ。怪談話のツイキャスなんて」


「そっか。でも、これ凄く面白いんだよ・・・それに」


「なに?」


「聴いてると、落ち着くの」


「落ち着くぅ?」


里恵が言い返す。理解し難いと言わんばかりだった。


「落ち着くって、わけわかんない。怖いんじゃないの?」


「怖いよ。結構、怖い。でもそれが落ち着くの」


「あんたさぁ」


里恵はまた呆れている。今日の彼女は呆れてばかりいる。


「あんた『蔦の家』にぶち込まれすぎて、頭おかしくなっちゃったんじゃあないの?」


「・・・そうかもね」


『蔦の家』とは、とある廃屋の通称だった。古い住居の廃墟で、二十年以上も空き家になっている。管理は行き届かず、小さなボロ屋は緑の蔦にぐるぐる巻きにラッピングされていた。蔦に巻かれたその見た目から、『例の緑の家』や『グリーンハウス』などとも呼ばれている。というのも『蔦の家』は心霊スポットとしてそこそこ有名だった。 


「あそこに住んでた夫婦の・・・妻が夫を刺し殺して、その後自殺したんだって噂じゃん」


里恵が眉をひそめながら言った。


「その夫婦の幽霊が出るって」


そんな廃墟だったが、美由希は愛夢らむに無理やり連れ込まれて、閉じ込められた事が何度もあった。


「幽霊は見た事ないなぁ。それにあの家、もう慣れちゃったよ」


「・・・・・・」


美由希がケロリとした顔で言うので、里恵は本日何度目かの呆れ顔をした。しかしその顔は同時にひどく悲しそうだった。


いじめられっ子は、親友に心配をかけていることに気づいた。


「・・・ごめん、里恵」


「担任が何もできないなら」


里恵の声は小さく震えていた。


「やっぱり、あたしがPTAとかに言って・・・」


「やめてよ。そんな事したらターゲットが里恵に移るかも・・・」


「でも、でもさ、なんとかしないと。美由希がカエル食わされるところなんて、あたしは見たくないよ」


眼鏡の少女は申し訳なくてたまらない、と言った顔をしている。

美由希は自分のためにそんな顔をしてくれる里恵が好きだった。


「じゃあさ、じゃあ、いい加減、親に言おう。それなら大丈夫だよ!」 


「それも駄目」


親友の提案に対し、美由希がピシャリと言った。


「なんで?」


強い断言に、里恵は困惑するしかない。


「何で? お母さんに伝えれば大丈夫だよ。心配かけたくないっていうのは分かるけど、もう限界だよ。今まで言わなかったのがおかしいぐらいだよ」


「駄目、駄目」


美由希は里恵から目を逸らすと、首を千切れんばかりに横に振った。


「駄目なの、それも」


なぜ駄目なのか、少女は親友に決して話さない。


その理由を話すなら、里恵はさらに美由希のことを心配するだろう。これ以上、親友にそんな思いをさせたくない。


「美由希の両親は、もはや美由希に全く関心がない」なんて、知られるわけにはいかなかった。



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女子高生、ドラゴンを飼う のぐのぐち @nogunoguchi0648

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