第15話「村での新生活(エピローグ)」

 丘の稜線を越えた瞬間、夕陽が視界いっぱいに広がった。


「わあ……」


 エルピスが小さく声を上げる。


 オレンジ色に染まる空の下、メリディア村が静かに佇んでいた。煙突から立ち上る夕餉の煙、家々の窓に灯る温かな明かり。どこかで子供たちの笑い声が響いている。


「ここでいいか? 」


 ミズキが隣を歩くエルピスに尋ねた。


 彼女は神殿を出るとき、あの白いローブを脱ぎ、村娘のような質素なワンピースに着替えていた。金髪を後ろで一つに束ね、少し大きめの布袋を肩に掛けている。


 その姿は、もう「神様」には見えなかった。


「うん」


 エルピスは頷いた。


「静かでいいね」


* * *


 二人が村への坂道を下り始めたとき、荷車を引いた初老の男が向こうからやってくるのが見えた。


 日に焼けた顔、たくましい腕。見覚えがある。


「あれ?  神様! ? 」


 男は荷車を止めると、目を丸くした。第3話でミズキたちにパンを分けてくれた、あの農夫だ。


「いや、ただの旅人だよ」


 ミズキは苦笑して手を振った。


 農夫はしばらくきょとんとしていたが、やがて破顔した。


「そうかい。それじゃあ、ゆっくりしていきなよ」


 荷車がきしむ音を残して、農夫は去っていった。


 エルピスがほっと息をついた。


「……もう神様じゃないんだって、実感するね」


「そうだな」


 ミズキは空を見上げた。夕焼けが少しずつ藍色に変わり始めている。


* * *


 村の中心にある集会所の前で、村長が待っていた。


 背の低い、丸い顔の初老の男。第4話でモンスターのスポーン位置異常を報告してくれた人物だ。


「おお、来られましたか! 」


 村長は満面の笑みで二人を迎えた。


「神様のおかげで、村はすっかり平和になりました。モンスターも出なくなりましたし、作物もよく育つようになって……」


「あ、あの」


 エルピスが慌てて手を振った。


「もう神様じゃないんです。ただの……えっと」


「住民だ」


 ミズキが言った。


「俺たちも、ここで暮らしたいと思ってる」


 村長はしばらく二人を見つめていたが、やがて深く頷いた。


「そうですか。それなら歓迎しますよ」


 彼は集会所の方を指差した。


「ちょうど空き家があるんです。東の外れの古い小屋ですが、よろしければお貸しします」


「家賃は? 」


「いえいえ、神様……いや、恩人にそんなものは」


「いや」


 ミズキは首を横に振った。


「ちゃんと払う。労働で」


 村長は困ったように笑ったが、ミズキの真剣な目を見て頷いた。


「わかりました。それじゃあ、畑仕事を手伝ってもらえますか?  人手が足りなくて困ってたんです」


「任せてください」


 ミズキが村長と握手を交わす。


 エルピスはその後ろで、頬を赤らめて俯いていた。


* * *


 東の外れの小屋は、想像以上にぼろかった。


「うわあ……」


 扉を開けた瞬間、エルピスが思わず声を漏らした。


 土間、囲炉裏、奥に寝床らしき場所。それだけ。壁には隙間があり、屋根の一部が破れている。


「前の住人が五年前に出ていったきりだって」


 ミズキが村長から聞いた情報を伝えた。


「修繕は自分たちでやってくれとさ」


「す、すごい家だね……」


「神殿よりは狭いな」


「比較にならないよ! 」


 エルピスが思わず笑った。ミズキもつられて笑う。


 二人で笑いながら、荷物を床に下ろした。


「とりあえず、飯にするか」


 ミズキが囲炉裏を見た。薪は村長が用意してくれたものが積んである。


 エルピスが布袋から野菜と干し肉を取り出した。村を出るとき、住民たちが持たせてくれたものだ。


「えっと……」


 エルピスが囲炉裏の前でうろうろした。


「火おこし……どうするの? 」


「やったことないのか? 」


「神殿では、その、意思で火が……」


「そうだったな」


 ミズキは苦笑して、火打ち石を手に取った。


「いいか、よく見てろ」


 カチン、カチンと石を打ち合わせる音が響く。火花が散り、麻くずに火が移る。ふうっと息を吹きかけると、小さな炎が育った。


「すごい……」


 エルピスが目を輝かせた。まるで魔法でも見たかのような顔だ。


「やってみるか? 」


「うん! 」


 ミズキの手ほどきで、エルピスが火打ち石を握る。


 最初は上手くいかず、何度も石が滑った。それでも諦めず、十回目でようやく小さな火花が麻くずに落ちた。


「できた! 」


「おう、上出来だ」


* * *


 火が安定したところで、今度は鍋を吊るす。


 水を汲んできて、野菜を切る。包丁を握るエルピスの手つきがおぼつかない。


「危ないって」


「だ、大丈夫だもん」


 案の定、玉ねぎが不揃いな塊になった。


 ミズキは何も言わず、横で人参を薄切りにしていく。干し肉を小さく裂いて鍋に放り込み、塩と香草で味を調える。


 やがて、スープがぐつぐつと煮えてきた。


「いい匂い……」


「もうちょっとだな」


 ミズキが木べらで底をかき混ぜようとしたとき、エルピスが「わたしやる! 」と手を伸ばした。


 勢い余って木べらが鍋の縁に当たり、スープが跳ねる。


「あちっ! 」


「おいおい」


 慌てて水で冷やすエルピス。ミズキは呆れながらも、その背中に手を置いた。


「無理すんな」


「……ごめん」


 それでも、なんとかスープは完成した。


 二人で木の椀に注ぎ、囲炉裏を囲んで座る。一口啜って、エルピスが顔をしかめた。


「……しょっぱい」


「お前が塩入れすぎたんだろ」


「えー、ミズキが『もうちょっと』って……」


「『ほんの少し』って言ったんだよ」


 二人で顔を見合わせて、また笑った。


 焦げ臭くて、しょっぱくて、お世辞にも美味しいとは言えないスープ。それでも、不思議と温かかった。


* * *


「……神様だった頃は」


 エルピスがぽつりと言った。


「こんな味、知らなかった」


「そうか」


「いつも、神殿の中で、上位存在が用意したものを食べてた。綺麗で、美味しくて、でも……」


 彼女は椀を見つめた。


「こんなに温かくなかった」


 ミズキは自分の椀を見下ろした。


「俺も、過労死する前はコンビニ飯ばっかりだった」


「コンビニ? 」


「ああ。いつでも買える、便利な店だ」


 ミズキは小さく笑った。


「温める暇もなくて、冷たいまま食ってたな」


「寂しかった? 」


「……わかんねえ」


 ミズキは首を傾げた。


「寂しいって感じる暇もなかった気がする」


 囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜた。外からは虫の声が聞こえる。


「ねえ、ミズキ」


「ん? 」


「神様じゃなくなって……後悔してない? 」


 ミズキはエルピスの顔を見た。不安そうに、それでもまっすぐに見つめてくる青い瞳。


「後悔なんかするか」


 彼は笑った。


「お前は? 」


「わたしも」


 エルピスも笑った。


「全然」


* * *


 食事を終えて、二人は寝床の準備を始めた。


 藁を敷いて、毛布を広げる。簡素だが、眠るには十分だった。


 窓辺に腰掛けて、ミズキは夜空を見上げた。無数の星が瞬いている。神殿からは見えなかった、生の星空。


「ねえ」


 隣に座ったエルピスが言った。


「明日から、何しよう? 」


「畑でも耕すか」


「畑かあ……」


 エルピスは想像しようとして、首を傾げた。


「できるかな」


「やってみりゃわかる」


「そうだね」


 しばらく沈黙があった。風が窓から吹き込んで、二人の髪を揺らす。


「……住民として生きるって」


 エルピスが呟いた。


「こういうこと? 」


「そうだな」


 ミズキは手を伸ばして、エルピスの手を握った。


 小さくて、少し冷たい手。エルピスが驚いたように顔を上げたが、やがて握り返してきた。


「大丈夫だ」


 ミズキは言った。


「一緒だから」


「……うん」


 星空の下、二人の影が寄り添っていた。


 神様でも、使徒でもない。ただの人間として。


 明日からの日々を生きるために。


* * *


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