第二章:潮風の記憶
翌週、港はいつもの霧に包まれていた。少年はいつもの場所に座り、波止場に漂う潮の匂いを吸い込む。昨日の雨で濡れた木板が、靴の下で微かにきしむ。
「今日は少し手伝えるか?」
少年の問いかけに、老漁師は肩をすくめる。
「手伝うかどうかは、やってみてからだな」
少年は網の端を持ち、慎重に絡まった糸をほどく。指先に残る潮と魚の匂いが、どこか懐かしい感覚を呼び起こす。老漁師はそんな少年を、遠くから穏やかに見守る。
「昔、この港には灯台守がいてな」
老漁師が語り始める。声は波の音に溶けて、少年の耳に静かに届く。
「灯台守は毎晩、港の船のために灯を守った。ある夜、大きな嵐が来て…港の船のほとんどは岸に打ち上げられ、港町の人々は大騒ぎだったそうだ」
少年は網を置き、海を見つめる。霧の向こうに見える小舟たちは、まるで嵐をくぐり抜けた灯台守の話を覚えているかのように、ゆらりと揺れている。
「その嵐で、多くの漁師たちが港を去った。俺の友達もな…」
老漁師の声が途切れる。少年は何も聞かず、ただそばに座る。沈黙が二人を包む。波の音、潮の匂い、木板のきしむ音――すべてが、過去の記憶を柔らかく照らす灯りのようだった。
「でも、この港は消えない。毎朝霧が来て、海の匂いが戻る。港町の記憶も、少しずつだけど残っていくんだ」
少年は微かに笑った。言葉にしなくても、老漁師が伝えたいことがわかった。町も人も、そして過去も、すべてこの港に染み込んでいる――その匂いと音に、確かに生きている。
霧が少し晴れ、朝の光が港を淡く照らした。少年の胸には、まだ知らない老漁師の物語が、少しずつ形を成していく予感があった。
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