第一章:朝の網と記憶

翌日も、港は霧に包まれていた。少年は昨日と同じ防波堤に腰を下ろす。水面には淡い光が差し込み、波に揺れる小舟の影がふわりと動く。老漁師は既に網を広げ、指先で丁寧に絡まった糸をほどいていた。


「おはよう、また来たのか」


「おはようございます。昨日と同じ時間に…」


少年の声は少し緊張していた。昨日はただ見ているだけだったが、今日は手伝ってみたい気がしたのだ。


老漁師は黙って少年の前に網の端を差し出した。「ほれ、少し持ってみろ」


少年が網を手にすると、塩の匂いと古い魚の匂いが混ざり合い、思わず顔をしかめる。だが、その匂いの奥には、どこか懐かしい、海辺の町の記憶のような温かさもあった。


「…これ、魚を獲る前の匂いだよね?」


「そうだ。獲る前の匂いには、まだ未来が残ってるんだ」


老漁師の言葉に、少年は首をかしげる。簡単な説明ではない。でも、どこか腑に落ちるものがあった。


二人はしばらく無言で作業を続けた。網を直す手の動きが交わるたびに、少年は老漁師の過去に触れられるような気がした。手の皺や指の傷、海の匂い――すべてが語るものがあるようで、でもまだ何も明かされていない。


「昔、この港には大きな漁船がいくつもあったんだ」


突然、老漁師が語り始める。少年は網を置き、耳を傾けた。


「港の外れには、灯台まで続く小道があった。そこには、毎朝決まった時間に魚を運ぶ少年がいた…お前にちょっと似ていたな」


少年は微かに笑う。自分のことを言われたわけではないのに、妙に心が温かくなる。


霧は少しずつ晴れていく。波の音は変わらず静かだが、港町の空気には昨日とは違う重みが漂う。少年は、言葉にできない何かを胸に抱えながら、老漁師とともに港の朝を迎えていた。

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