潮の匂いと忘れられた約束
羽ペン
序章 霧の港町
朝の霧が、港町をゆっくりと包み込んでいた。海面は灰色に揺れ、波のさざめきは遠くの波止場で小さな金属音と交じり合う。少年は防波堤の端に座り、濡れた木板の冷たさを足の裏で感じながら、港の匂いを深く吸い込んだ。潮と魚と、かすかに焦げた薪の匂いが混ざり合う。その匂いは、まるでこの町そのものの記憶のように、彼の胸に静かに沁み込んでいった。
「また来たのか、こんな時間に」
声の主は老漁師だった。深く焼けた顔に、長い海風の跡が刻まれている。手には使い込まれた網、指先には無数の小さな傷があった。少年は少し驚いて振り向く。
「うん。朝の港が好きなんだ」
老漁師は小さく笑った。その笑みは言葉よりも雄弁で、静かな港の時間に溶け込む。二人の間には、特別な会話はまだない。ただ、霧の匂いと波の音が、ゆるやかに二人を繋いでいた。
少年は網の隣に座り、老漁師の動きを眺める。網を直す手の動きは無駄がなく、それでいてどこか優雅で、まるで海そのものと呼吸を合わせているかのようだった。
「この港も、ずいぶん静かになったな」
老漁師の声は遠くの波の音に溶ける。少年は何も答えず、ただ頷いた。言葉にしなくても、二人の間には日常の小さな空気が流れ、静かに時間を刻んでいた。
霧はまだ晴れず、港町は眠ったままのようだった。しかし少年の胸の奥には、この静かな朝の景色が、知らず知らず心に刻まれ始めていた。
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