第5章 計略 (3)
文化祭当日の朝。空気はひんやりとしていて、それでも街はどこか浮き立っていた。けれど、ぼくの朝はいつも通り――いや、ちょっとだけ過酷なまま始まる。
愛想もなければ軽さもない、かつての“電動自転車”――今はただの筋トレマシーンと化したその代物を立ち漕ぎして坂道を登っていた。
「最近、筋肉ついたね」さなえの声がふと蘇る。笑いながら、つん、と二の腕をつつかれた感触が脳裏に残っている。
……ふふっ。ま、たまには報われることもある。
校門をくぐる。実行委員会がゲートを立て付けている脇をすり抜ける。自転車を所定の場所に止め、足早に昇降口へ。
まずは、生物部だ。生き物たちに朝ごはんを届けなければ。
「おはようございまーす」生物準備室に入ると、すでに2年の先輩が作業を始めていた。水槽の温度チェック、餌の仕分け、静かに着々と。
しばらくすると、涼太も登場。大きな荷物を抱えて、目にはやる気がぎらついている。――あれなら任せても問題なさそうだ。
ぼくは自分の持ち場を淡々とこなしながら、「餌をやり終えたら、講堂でも見に行こうかな」そんなことを考えていた。
と――その時。
カラカラッ。引き戸の音が、ことさら鋭く響いた。
ふり向くと、そこに立っていたのは意外な人物。小柄で、黒縁眼鏡の奥に鋭い眼差しを宿すAセグの少女。白川ちせ。
……え、なんで?
言葉を交わすのは、あの音楽コンクール以来。しかしちせは、ぼくの姿を見るなりまっすぐ歩み寄ってきて――「ちょっと来て」
その言葉とともに、制服の袖を軽く引っ張られる。女子の先輩が、興味深そうにふたりを見送っていた。……見世物じゃないんですけど。
「なんだよ」声に少し、警戒がにじむ。
ちせは足を止めると、眉をわずかに寄せて言った。「……唯おねえさまと、連絡とってない?」
その口調は、珍しく慎重だった。……何かあったのか?
「それがね……並谷翔子、つまり唯おねえさまとのリハーサル、まだ一度も出来てないの。今日まで、ずっと」
胸が、ぎゅっと強く締めつけられる。
「最後のチャンスは、今朝からだったの。でも、それも出来そうにないのよ」
ちせの声が、少し震えている。小さな肩に重いものを背負っているが、ひしひしと伝わってくる。
「……なんで、そんなことに?」
「並谷翔子とのリハをやるって決めてた時間、今まで2回とも講堂のブレーカーが落ちたの。それでリハーサルができなかった」
「……え?」
「そして、今朝も。さっき、また落ちたって」
講堂のブレーカーが、三度。偶然にしては、あまりに都合が良すぎる。
「おかしいと思わない?」
ちせの目が、じっとぼくを見上げる。その瞳には、明確な“疑い”の色が浮かんでいた。
誰かが――並谷翔子の出演を、妨害しようとしている。そう言いたげな、鋭い光だった。
……唯さん……。練習に集中しているだろうからと、あえて連絡を控えていた。その配慮が、まさか裏目に出ていたとは――。
「リハーサルできないってことは、演奏会も中止ってこと?」問いながら、喉が少し乾くのを感じた。
けれど、ちせは小さく首を振る。その動きに、いつになく静かな緊張が漂っている。
「わたしたちはいいのよ。代役の先生の演奏で、全体の練習はしてきたから。外部のバイオリニストを招いて協奏曲を演奏すること自体は、珍しくないの。だけど――」
ちせは一度、言葉を切った。眼鏡の奥の瞳が、遠くの講堂を見つめるように細められる。
「肝心のソリストが、リハーサルできないままなら……本番は、ぶっつけってことになるわ」
そして、ぽつりと。「……大丈夫かしら。……唯おねえさま」
その声のトーンに、思わず胸がざわめく。
――3回。唯さんには、3回もチャンスがあった。講堂でのリハーサルの予定が、ことごとくトラブルで潰された。……その被害を唯さんが被っていたのに。
……なぜ、自分には何も言ってこなかったんだ。いや、言えなかったのか。
――『ちゃんと守ってあげてね。……唯先輩のこと』
昨日のさなえの声が、不意に脳裏に浮かぶ。その言葉が、何度も、何度も反響する。
……何も、出来ていない。ぼくが守るなんて、口だけだった。ただ近くにいたって、それだけで安心してしまっていた。
講堂のブレーカーを意図的に落とすなんて――家にあるあの、ブレーカーのついた配電盤。エアコンとドライヤーとホットプレートを同時に使って、落としてしまった記憶が甦る。
「パチン」――ほんの一瞬のことで、世界は止まる。
学内の設備に詳しい人間なら、たったひとつスイッチを落とすだけで、混乱を作り出すのは容易いことだ。
誰が、そんなことを。並谷翔子のリハーサルの時間だけを、狙って。
――狙ってやるとすれば。そう、やるとすれば。
大沢か。いや、その息のかかった教員か。
思わず唇を噛んだ。思えば、並谷翔子の出演許可を取るため、沙織さんに依頼したとき――その後があまりにスムーズすぎた。拍子抜けするほどに。
……違う。出させて、その上で潰すつもりだったのかもしれない。
計画的に。冷酷に。“完璧なバイオリニスト”を、“本番で失敗させる”という形で。音楽的にも、精神的にも――破壊するために。
ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。胸の奥で、何かが音を立てて崩れそうになる。
唯さんは、今どこで、何を想っているんだろう。
そして――このまま、本当に“ぶっつけ本番”で舞台に立つことになるのか。
「わかった。ぼくから連絡を入れてみるけど……どっちにしても、あと数時間で本番だ。いまさら中止なんて――」そこまで言いかけたぼくの言葉を、ちせが静かに遮った。
「中止なんてこと、しなくていい。……唯おねえさまなら、きっと大丈夫よ。つばさには、支えになってあげて欲しい」
その声は細くても、芯があった。あの人なら、たとえリハーサルを飛ばされても立て直す。
ちせがここで求めているものを、なんとなく理解した。練習や技術じゃない、精神的な支え。いくら天才でも、不安に囚われているに違いない。だから、自分が少しでも力になれればいい。
「……そうだな。きっと大丈夫」まるで自分自身に言い聞かせるように、小さくつぶやいた。
「写真、ちゃんと撮りなさいよ」ちせが腰に手を当てて、ほんのり説教するように言う。
「まかせておけって。ちせも、ばっちり撮ってやるからな」
そう返すと、ちせはふっと笑って、いつもの彼女に戻ったようだった。「頼んだわよ。……唯おねえさまにメッセージ、出してあげて。きっと喜ぶから」
じゃあね、と軽く手を振り、踵を返していく。その背中が人混みに紛れていくのを見送りながら、息を吐いた。
生物準備室に戻ろうと、引き戸に手をかけると――ちょっと開いた隙間から、先輩たちが目をきらきらさせて覗き込んでいるのが見えた。
「……先輩。……なにしてるんすか」ため息混じりに言いながら引き戸を開けると、支えを失った女子生徒たちが「おっとっと」とよろめく。
「いやー、風間くんも隅に置けないなーって。さなえちゃんのみならず、あんな可愛い子まで」ぷぷっと手を口に当てて笑う女子たち。
「やめてくださいよ、そんなんじゃないですよ」苦笑いを返しながらも、もう心ここにあらずだった。
スマホを手に取る。唯さんへのメッセージを打とうと、画面に指を滑らせる。
「大丈夫?リハーサル出来ないんだって?」――打ったところで、指が止まった。
いや、こうじゃないだろう。何か違う。
全部削除して、深呼吸。画面に浮かんだ白い入力欄に、改めて文字を打ち込む。
「もうすぐ本番ですね。必ず聴きに行きます」
送信ボタンを押す瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。小さな震えが指先に伝わる。
――ひとつ、息を吐く。画面には、吹き出しが表示されていた。その中に、自分の言葉が小さく光っていた。
さて――。ぼくもこうしちゃいられない。自分のやるべきことをきちんと果たさないと。
肩にカメラを引っかけ、準備室の出口で軽く頭を下げる。「すみません、あとお願いします」
先輩たちが手を振り返してくれたのを背に、校舎の廊下に足を踏み出した。
文化祭の日の空気は独特で、晴れていても、内側がざわざわと浮ついている。一歩ごとに、誰かの笑い声や、拍手や、呼び込みの声が遠くで重なってくる。
とりあえず、校内をぐるっと回ってみる。写真部の「記録係」として。それに、今日は堂々とAセグの教室にも入っていける機会だ。まだ時間もあることだし、せっかくだから覗いてこよう。
けれど、その渡り廊下を歩きながら、妙に足取りが重いのを自覚する。
BセグとAセグを繋ぐルートは、まるで迷路みたいに煩雑で、いくつもの校舎と階段を経由しなければならない。
だが、本当に面倒なのは――距離ではなかった。
足音が響くたびに、この空間に“自分の存在”が少しだけ浮いてしまうような、そんな断絶を、肌で感じる。
ここにいると、ひときわ“部外者”なのだということが、あらゆる壁や掲示物から静かに伝わってくる。
――さなえは今ごろ、取材メモを片手に走り回っているだろうな。あの子はこういう空気にもひるまない。
ふと目に留まった教室の展示に足を止める。数学科。自然科学科。ガラス窓の内側、整然と並ぶポスターの群れ。
――Aセグの教室って、こんなに明るいんだ。床まで白っぽい色で塗られて蛍光灯の数も多い。机や椅子は淡いパステルカラーの青やオレンジ色。高校というより、予備校か専門学校に近い雰囲気だ。
数式や専門用語、英語だらけの内容に視線はスルーしかけるが、ふと目を引いたのは――。
「クモの糸における強度とタンパク質構造」
……ああ、生物だ。これなら分かるかも。そう思って近づく。
絵が多くて、説明も丁寧。蜘蛛の体内で、どうやって糸が紡がれていくのか、その図解が、とても分かりやすかった。
と――背後から、柔らかくもはっきりとした声。
「ご興味がありますか?」
不意にかけられた声に振り向くと、そこに立っていたのは、黒髪をすっきりまとめた眼鏡の女子生徒。Aセグらしい清潔感に、どこか近寄りがたい雰囲気もある。
「あ、はい。ぼく、生物部なので」
そう答えると、彼女はぼくの肩から提げられたカメラに視線を移した。レンズからストラップ、メーカーのロゴまで、じろじろと見る。
「……ああ、えっと。写真部も掛け持ちで」苦笑いしながらカメラを持ち上げて見せる。
「ふーん」
短い反応のあと、彼女は展示の方を指さす。「じゃ、説明するね」
そのまま淀みなく、話し始めた。クモの腹部にある糸腺の構造。タンパク質の種類と生成順序。分泌の刺激条件。それらが化学式や模式図で補足され、専門的な単語が次々と流れていく。
――正直、半分もわからなかった。
でも、彼女の目はまっすぐで、濁りがなかった。話しながら、いちいちぼくの顔を確認するようにして、わかりにくそうなところは少しだけ表情を和らげて補足する。
言葉じゃない部分から伝わってくる、熱意。説明するその姿勢そのものが、研究の一部みたいだった。
その横顔を、カメラ越しに捉えたくなる衝動をぐっと堪えながら、ふと、自分のことを考えた。
――ぼくも、来年の今ごろにはこうなっていられるのだろうか。
誰かに何かを語れるだけの、自分なりの“熱”を持って。そして、それを伝える術を、ちゃんと身につけられているだろうか。
まだ分からない。だけど。
この文化祭は、そんな「問い」に出会う場所でもあるのかもしれない――そう思えた。
夢みたいな話だ。Bセグの自分が、この世界に混じるなんて。
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