第5章 計略 (2)
生物準備室の前を通りかかると、すりガラス越しにぽうっと明かりが漏れていた。
……まだ誰か居るのか。
「お疲れさまでーす」引き戸を静かに開ける。
独特の薬品と水槽の匂い。薄い蛍光灯の光の中で、三人の生物部員が作業していた。
男子二人と女子一人。……なんとなく、ぼくと涼太、さなえのあの頃と同じ構図だ。少し懐かしいような気分になる。
実は、生物部にはぼくたちの他にも何人か少し部員がいるらしい。けれど三年生に至っては、一度も顔を見たことがない。大体は二年になると、ぱたりと姿を見せなくなるのが通例。
――ぼくは、そうはならない。……と思いたい。
ふと、脳裏をかすめる。唯先輩の“授業抜け出し部活”。あれは活動としてカウントされるんだろうか。癒し目的でやってくるあの人は……部活というよりは趣味だろうな。
「おう、お疲れ」机の上で何かを切っていた男子の先輩が、軽く手を上げる。
覗きこむと、模造紙と色画用紙、スチレンボードが散らかっていた。学園祭に向けた展示の準備だ。どうやら装飾と説明フリップを作っている最中らしい。
「涼太くん、出てきてくれるのかしら?」
ハサミを持った女子の先輩が、こちらを見上げて聞いてくる。
Aセグに進んでも、涼太は生物部を辞めなかった。だからきっと、顔を出してくれるはずだ。
「来ると思いますよ。ポスター作るって言ってました」
そう答えると、女子の先輩はほっとしたように微笑んだ。涼太は先輩にも信頼されているらしい。
……まあ、当然か。
あいつは、やると言ったらやる。絶対に、こなす。そういう奴だ。
「ぼくもやります。何かありますか?」
そう言って袖をまくると、先輩たちがスペースを空けてくれる。糊の匂い、カッターの擦れる音、誰かの小さな鼻歌。
窓の外では、夜の風が木々を鳴らしていた。学園祭が、もうすぐそこまで来ている。
◇◇
いよいよ学園祭前日――金曜日の空気は、どこか浮き足立っていた。校舎のあちこちから聞こえてくる声と足音。まるで、全体がせわしなく脈打っているようだった。
この日だけは午前授業。午後からは準備に総動員で、どの部も教室も、熱気に包まれている。初めての学園祭。ぼくにとっては、初めての体験。
Aセグメントは、一応は何年何組という割り当てはあるのだが、専攻ごとに教室を移動して授業を受けているため、「クラス」と呼べる連帯感は薄い。学園祭でもクラスの出し物はなく、各専攻科の成果発表がメイン。それに対して、Bセグメントの生徒たちは、教室をそのまま活かして模擬店や展示に取り組んでいる。いわゆる“学園祭の賑やかさ”は、Bセグの役割だ。
ぼくのクラスも、例に漏れずメイド喫茶をやることになっていた。……正直どこか他人事。けれど、何も手伝わないわけにもいかない。せめて、装飾の紙花作りくらいは手伝おう。
画用紙を切りながら、時計の針ばかり気にしていた。「ごめん、部活の方に行くね」口にしたその一言も、逃げの言葉に聞こえて、少し胸がついた。
写真部。部室に向かう廊下の途中で、もう遠くから部長の怒号と笑い声が響いていた。「おう、風間!待ってたぞ!」引き戸を開けると、三年生の部長が満面の笑みで仁王立ち。すでに戦場のような部屋には、貼りかけの写真、半開きのパネル、ガムテープの山。一年生たちは、もはや道具扱いみたいだ。
言葉少なに頷いて、自分の作業に取りかかる。作品名のラベル、キャプションの印刷、配置のバランス確認。ただの作業に、神経が削られる。写真のこととなると、部長はやたらとこだわるから。
黙々と作業すること2時間。気づけば汗ばむほどに動き回っていた。ようやく抜け出すように部室を出て、次の目的地――生物準備室へと足を向ける。
扉を開けた瞬間、ほんのりと湿った空気と、草のにおいが鼻をかすめた。時計を見ると、すでに16時を回っている。完全下校まで、残された時間は3時間。
部屋の中は、ひととおりの装飾と展示が整い、今は生き物たちの餌やりの時間になっていた。水槽の水音。かさりと葉を揺らす音。静かな、いつもの空気。
だが、奥の方。ポスターの前で黙々と筆を走らせる大柄な背中――涼太だ。
ほとんど身体ごとポスターに覆い被さるように、筆先に魂を注ぎ込んでいる。Tシャツの背中には、じっとりと汗がにじみ、何かに取り憑かれたような集中力。その様は、鬼神のごとし。
そのすぐ脇。さなえが、補助の道具を手際よく差し出し、無言で筆を受け取りまた別の紙に手を伸ばす。まるで、熟練の職人コンビような呼吸。
声をかけようとしたけど……。躊躇いが遮る。いや、躊躇いというには、もう少し重たい。喉に引っかかった言葉が、なぜか胸の奥に沈んでいく。
……あいつは、いつもああだ。本気で何かに向かうとき、周りが見えなくなる。でも、それを笑う人はいない。なぜなら――どこまでも真っ直ぐだからだ。
そして、さなえ。彼女もまた、いつだって誰かの隣で、必要な役割を自然にこなしてきた。気づけばそこにいて、すっと支えている。
胸に、ちくりとした痛みが走った。自分には、あんなふうにはなれない気がした。言葉にならないその感情が、ほんの少しだけ、指先を冷たくした。
B0版のポスター3枚が、ようやく床一面を埋めた。「ふう、なんとか形になったな」涼太が深く息を吐き、額の汗を腕でぬぐう。その腕の筋が光を受けて浮かび上がる。
すかさず、さなえがペットボトルを差し出す。「おつかれさま」自然な仕草。笑いながら、キャップをゆるめて渡す。――まるで、世話女房みたいだな。
その距離感が、少しだけ眩しかった。声を掛けようとして、唇が動かない。何を言えばいいのか、自分でもわからなかった。
だが、涼太の方が先に気づいた。「つばさ。来てくれたか。写真部はもういいのか?」いつもの調子で声をかけてくる。
「ああ、もう終わったよ」言いながら歩み寄る。「それより、こっちはもう大丈夫? ごめんな、手伝えなくて」
「いや、今来てくれたのは助かる。こいつを貼るから手伝ってくれ」涼太が指さしたのは、ポスターの最後の一枚。二人で端を持ち、位置を合わせる。
貼り終えた瞬間、涼太は数歩下がって作品を眺める。「もうちょっと時間があればな……」残念そうにつぶやくその声に、思わず苦笑した。
――これで何の不足があるんだよ。
ポスターの隅々まで、細部にまで手が行き届いている。誰が見ても力作。けれど、涼太にとっては、まだ“未完成”なのだろう。
「出来たか?……おお、流石だな」いつの間にか先輩たちが集まり、涼太の肩を叩いていた。教室の空気が少し和らぐ。そこへ――。
「さなえちゃん。見たわよ。あの記事」女子の先輩が、ふっと含み笑いを浮かべて近づいてきた。「“秘書さんと佐藤先生のスクープ”ってやつ」
「え?」一瞬、空気が止まる。――スクープ?あの二人が、新聞に?
「いいのか?そんなこと書いちゃって」思わず口を挟む。
すると、さなえが少しだけ得意げに肩をすくめた。「どっちかって言うと、わざとなのよ」
……え?
「頼まれたの。秘書さんに」
ペットボトルを持ったまま、さらりと言うその口調。冗談には聞こえなかった。……ええ?!
頭の中で、いくつもの“?”が弾けた。笑い声と紙の擦れる音の中で、その言葉だけが妙に鮮やかに残った。
……頼まれたって、どういう意味だよ。つまり――沙織さんと佐藤先生が“そういう関係”だってことを、わざと学校内に広めたってことなのか?
思考が追いつくより早く、女の先輩のひとりが顔をしかめながら言った。「ああ、もしかして……校長とか、菅原のこと?」
その名前が出た途端、空気がほんの少し、ぴりっと張り詰めた。さなえは目線を伏せて、声をひそめる。
「そういうことですよ。……虫よけ、です」
その言葉が、やけに乾いた音を立てて胸に落ちた。
……頭が、痛くなってくる。菅原――あの、いかにも“体育教師”という体格の暑苦しい中年男。そして校長。どちらも既婚者だろ、たぶん。いい歳をして、美人秘書に色目を使っていたとは……。しかも、それを生徒にまで見透かされていたとは。
「……最低」その場の女子生徒たちが声を揃える。
ぞわりと背中を撫でるような不快感。――たしかに、あの脂ぎった中年ふたりに囲まれる沙織さんの姿を想像しただけで、胃がぎゅっと縮む。
それなら、なるほどと唸るしかない。佐藤先生と“交際中”という設定は、強力なバリアになる。噂の力を逆手に取って、近寄る隙を与えない。さなえは、それを――手伝ったのか。
悪気はない。むしろ、沙織さんを守るための、ちょっとした知恵。……でも。
「あのふたり、見た感じ全然釣り合ってない気もするけどな……」ぼそりとつぶやいたぼくの耳に、すかさず先輩の言葉が刺さった。
「お似合いよね」
さらっと。実にあっさりと。まるで、それが当然だと言わんばかりに。
……えぇ!?そうなの?
女子目線というやつは、やっぱりよくわからない。表情ひとつで、どこまでを見抜いてるんだろう。
さなえとその先輩が、また声をひそめて「昨日、わたし見ちゃったわよ~。ふたりが昇降口から……」と盛り上がり始めたあたりで、そっとその場を離れた。わずかに嫉妬の気配を自分の中に感じてしまって、勝手に気まずくなる。
唯さんという人がありながら……ぼくは。飼育ケースの前にしゃがみ込み、金網の固定を外す。小動物の残した餌と、乾いた砂利。えさの残り具合を確認して回る。
――こっちは、静かだ。言葉も視線も、追いかけてこない。それが、少しだけ救いだった。
完全下校時間が迫っていた。校内放送のスピーカーが、淡々とした女子生徒の声を流す。「完全下校時間となりました。速やかに下校してください」その抑えた声色が、逆に校内のざわめきを静かに締めるようだった。
――二十年くらい前なら、徹夜して準備なんて当たり前だったらしい。間に合わない展示、トラブル、徹夜の果ての事故。そんな積み重ねの上に、今の「絶対禁止」がある。夕方の空気はどこか「打ち切られた映画」のような余韻を残していた。
昇降口を抜けると、外の風がほんのり涼しくて、蛍光灯に焼かれた目にやさしい。さなえと並んで歩き、Aセグの昇降口の前で足を止める。涼太が出てくるのを、校門前で待つ。
「いよいよだね。……唯先輩の出番」さなえが空を見上げながら、ぽつりと呟いた。その横顔に、空の光が淡く映り込んでいる。
「さなえのおかげだよ。礼を伝えるように言われてる。ありがとうって」ぼくも自然に視線を上げた。夕暮れの空に、ひとすじの飛行機雲が薄く消えかけている。
「……うん。……唯先輩、ちゃんと守ってあげてね」
その声は、ひどくか細くて、風に溶けてしまいそうだった。ふと目を合わせると、さなえの頬に涙がひとすじ、光っていた。
「あ、あれ?……コンタクトずれたのかな」笑うような声で言いながら、指先で涙を拭う。けれど、その仕草には笑いの気配がなかった。
――その涙の理由を、今ここで問うたなら。何かが変わってしまう気がした。反射的に目を逸らした。
ちょうどその時、涼太が駆け寄ってきた。「ごめん。お待たせ」
三人並んで、校門を出る。さなえは、何事もなかったかのように、明日の文化祭のことや、新聞部での自分の活動をいつもの明るい声で話し始めた。
涼太もその話に応じて笑い声を返している。夕焼けのオレンジが、三人の影を長く伸ばしていく。
ぼくはその横を黙って歩き続けた。耳に入るのは、二人の声と、自分の靴音だけだった。
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