第5章 計略 (4)
……涼太に勉強を教えてもらって、少しずつ点が取れるようになってきた。だけど――Aセグに来たいなんて、とてもこの場で口に出して言えることじゃない。
それでも、目の前の彼女のあの輝くような瞳を見てしまうと、どうしても心の奥がざわつく。
好きなことに没頭して、誰にも邪魔されずに勉強できる。そんな場所に、自分も身を置いてみたい。たとえ届かないとしても、憧れだけは持っていたい。
説明は一通り終わっていた。ホワイトボードに描かれた蜘蛛の構造図の前で、彼女は小さく息を整え、「何か質問は?」と微笑む。
「あ……いえ。特には」
慌てて答えると、彼女は軽く肩をすくめて、柔らかく笑った。
「そういう時はね、何もなくても“何か考えて質問する”ものよ。――礼儀として」
その言い方が上品で、少し挑発的にも聞こえた。
「えっ……あ、じゃあ……」
必死に頭の中を掘り返そうとするぼくを見て、彼女は口元に指を当てて小さく笑う。
「もういいわ。……ふふっ」
そう言って、ポケットから小さなカードを取り出した。
白地に淡い青の模様、そして――劒崎理子という彼女の名前の文字。その綴りが、妙に印象に残る。
「良かったら、連絡ちょうだい」
ほんのわずかに潤んだ瞳。その視線がまっすぐこちらを射抜いて、ぼくの心臓が小さく跳ねた。
「あ、ありがとうございます。すみません、ぼく名刺とか作ってなくて……」
慌ててスマホを取り出すと、理子も同じようにポケットからスマホを取り出した。
二人の画面が向かい合う。指先が触れそうな距離で。
そして――ブブッと震える感触が、掌に残った。
それだけのことなのに、胸の奥がふわりと浮くような、不思議な感覚。
「ありがとうございました」頭を下げ、教室を後にする。
無意識に手の中のスマホを見つめる。画面には、新しい連絡先の表示。
劒崎さん。
紐タイの色からして――二年生。……先輩、か。
思わず、小さく息を吐く。その吐息が笑いに変わる。
次の展示を見に行こう。カメラのストラップを握り直し足取りが軽いことに気づく。
講堂へ向かう。渡り廊下を抜けた先、すでに建物の前には人の波。開演は11時。時計を見れば、まだ10時過ぎ。
それでも、階段まで人が連なっている。
他校の制服姿があちこちに。あれは音大付属校のブレザー。あっちは見たことのない制服。県外からだろうか、遠征してきたような空気が漂っている。
それだけじゃない。年齢も格好もまちまちな、どこか“業界”の香りを纏った男女たち。スーツにジャケット、ファイルを抱えた女性。ちらつく名札や、社員証のようなタグ。
――あれは、雑誌の取材かもしれない。一部では“謎のバイオリニスト”として既に話題になっていた『泣きぼくろの女王』。今日が、初めての“予告済み”出演。
注目されて当然だ。
そんな中、ふと視界の端にひらりと揺れるものがあった。
あのポスター。
講堂の前に掲げられている演目紹介。の中で、ひときわ目立つボールド文字。
何気なく、けれど引き寄せられるように近づいた。
――違和感。
何かが、変わっている。けれど、それが何なのか、すぐには掴めない。
じっとポスターの文字を追う。
「Vn独奏:並谷翔子」「チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35」
……え?
チャイコフスキー?
呼吸が止まる。
……この前見たときは、メンデルスゾーンって、書かれていたはずだ。確かに――そうだった。
目を疑った。
いや、見間違えたのか?
ポスターを見上げる。何度も、何度も、文字をなぞる。でも、そこにあるのは紛れもない“チャイコフスキー”の文字。
どういうことだ。どうして、演目が……?
ただの印刷ミス?でも、こんなミスするだろうか。
……まさか。こんなことがあるのか。こんな、重大な――。
背中に氷水を浴びせられたような冷たい震えが走る。汗が、じっとりと首筋を伝う。
このことを唯さんは、知っているのか?これは、誰の仕業だ?これは――故意だ。
そう思った瞬間、足元の感覚が、ぐらりと揺らいだ。
どうして、こんなことを。誰が、何のために。
……やはり大沢か。
唯さんが、学園の名を背負ってコンクールに出ることを――頑なに拒み続けてきた。それに対する、報復。
あるいは……翔くんの姉であることに意識が向いたのか。それが何かに繋がってしまうことを、恐れたのか。
どちらにしても――こんなひどい仕打ちが、許されていいわけがない。
リハーサルを潰していた理由が、ようやく分かった。
単なる“練習不足”を生ませるためじゃない。
本番で、全く違う曲をぶつけるためだった。
舞台に立ち、拍手を受け、そして――指揮者が棒を振り下ろした瞬間に、知らない曲が始まる。
それが、どれほど恐ろしいことか。
楽譜もない。
準備もない。
誰にも言えない不安だけが、襲ってくる。それを、唯さんに――味わせようとしている。
だから、ブレーカーを落とした。
毎回、確実に。
「リハーサルができなかった」のではない。“させなかった”んだ。意図的に。
……思い出す。三日前。あの時の、荒川先輩の顔。「並谷翔子は来ないんですか?」とぼくが尋ねた時の、あの、怪訝そうな視線。
当然だ。代役が弾いたチャイコフスキーの後、彼らが練習しようとしていたのはメンデルスゾーンだった。
あれは3日後の市民文化祭の練習をしていたんだ。そこに並谷翔子が来るわけがない。
……どうして、もっと早くに気づかなかったんだ。どうして、聞き返さなかった。
いくらでも、あの時点で止めるチャンスはあったのに。全部、自分の手の中からこぼれ落ちていた。
悔しくて、胸が張り裂けそうだった。
その場に、ガクンと膝をついてしまった。人波の端。誰にも気づかれない場所で、頭を抱える。
どうすればいい。どうすれば、間に合う。
……そうだ。知らせるしかない。
スマホを取り出し、震える指で画面を開く。
さっき送ったメッセージ――既読が付いている。
……よし。まだ、届く。
時間は、あと1時間を切っている。でも、知らないまま舞台に立たせるよりは、ずっとマシだ。
震える指で急いで打ち込む。
『曲はメンデルスゾーンじゃない。チャイコフスキー』
短く、必要最低限の情報だけを詰め込んで、送信。
画面に表示される、水色の吹き出し。メッセージが届いたことを示すその色を、目を凝らして見つめ続けた。
……けれど。
いつまで経っても、既読は付かなかった。
画面の中は、沈黙のまま。まるで、こちらの焦りを嘲笑っているかのように。
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