第三章 金木犀の記憶
カフェの窓際の席。
街の灯りがガラスに映って、
リリィの横顔をやさしく照らしていた。
私たちは並んで座って、
温かいコーヒーを手にしていた。
「ねぇ、覚えてる? あの坂道のこと」
リリィがマグカップ越しに微笑む。
私は少し息を飲んだ。
あの言葉だけで、
心の奥にしまっていた風景が静かに開いた。
――あの日も、風が吹いていた。
金木犀の香りが街いっぱいに広がっていて、
リリィの笑い声がその中に混ざっていた。
「秋が一番好き」って言っていたリリィ。
私はその横で、
彼女の髪に小さな花びらが引っかかるのを見ていた。
あのとき伝えられなかった言葉が、
今も胸の奥で、静かに形を持たずにいる。
「……覚えてるよ。金木犀の香りと、君の声も。」
そう言うと、リリィは目を細めた。
「うれしい。あのときの風、今でも思い出せるんだ」
私たちはしばらく黙った。
街のざわめきの中で、
カップを置く小さな音と、
窓の外を行き交う人々の足音だけが響いていた。
外の光がゆっくりと夜に溶けていく。
カフェの中は少し暖かくて、
でもその空気の中に漂う金木犀の記憶が、
どこか懐かしく、そして優しかった。
リリィがぽつりと呟いた。
「ねぇクレア、
もしあのとき言えてたら、何て言ってた?」
私は少しだけ笑って、
窓の外の灯りを見つめながら言った。
「“離さない”って言ってたかも」
リリィの頬が、少しだけ赤く染まった。
その瞬間、
外の光が一段と強くなって、
冬の夜がほんの少し、春のように暖かく見えた。
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