第3話 礼節

#3礼節


有珠は幸の横を通り抜け、自分の席に戻ると、椅子の背に手をかけたまま言った。


「なにか聞きたいことがあるんじゃないの?」


幸はただ、その背中を目で追うばかりで動けない。


すると有珠は、隣の椅子を引き、軽く顎で示した。


「座って」


促されるまま、おそるおそる腰を下ろす。


有珠は机に肘をつき、視線を合わせた。


「べつに、いじめたりしないわ」


そして、少しだけ口元を緩める。


「あなたは礼儀をわきまえているようだし」


「……礼儀?」


幸が聞き返すと、有珠は即答した。


「心の声を駄々洩れにして近づいてこないっていうこと。

あなたは、私を喜ばせて感謝されたい、とか、ほかとは違う人として記憶されたい、とか、そういうことは思わなかったでしょう?」


その言葉に、幸は胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。


――うれしい。


だが、その感情を表に出すのはやめようと思った。この子には、見せたくない。


そう思った瞬間、有珠がふっと笑った。


「そう、そういうところ」


まるで、心の奥を覗き込まれたような感覚が、幸の背筋をひやりと撫でた。


…同時に、幸は有珠の言った「礼儀」という言葉の意味をもっと知りたくなった。


「なんで、それが重要だと?」


問いかけると、有珠は迷いなく答える。


「単純な人間が嫌いなだけ。──“こう思われたいと思っているな”…って、相手が考えることを予想していないから。

それに、例えば神様にお祈りするとき、“ここまでしたんだから、さぞ喜んでいるに違いない”なんて心の中で思っていたら、失礼でしょ?」


その比喩に、幸はつい口をついて出た。


「だとすると、自分のことを神様だって思っている?」


言った瞬間、しまったと思った。


一般的に見れば、挑発や皮肉と取られかねない質問だ。


有珠の反応をうかがう幸に、彼女は何でもないように肩をすくめて答える。


「神様は何でもお見通し――って意味で言っただけ。別に、自分が神様ほど偉いとは思ってないわ」


そして、少しだけ口調をやわらげる。


「それに…神様的には、気になることがあれば、ストレートに聞いてくれたほうが嬉しいの」


その言葉は、挑発でも拒絶でもなく、むしろ「条件付きの許可」のように響いた。


幸は、自分が今まさにその条件を与えられたことを、直感的に理解した。


そして、この際だからと腹をくくった。


「……なんで家で勉強しないんだ? もっと言えば、家庭の事情なのか?」


口にした瞬間、自分でも踏み込みすぎたかもしれないと思う。


有珠は、予想していたというように、わずかに肩をすくめた。


「まあ、”家だと集中できないから”…ね。でも、しかたないの。両親に不甲斐ないところは見せられない」


――不甲斐ない、か。


幸は、その言葉の意味を探るように彼女を見た。

何を不甲斐ないと思うのだろう。


そして、先ほど耳にした拙い英語の発音が脳裏に浮かぶ。


あれだろうか、と一瞬考えるが、確かめることはしなかった。


代わりに、別の質問を口にする。


「有珠って名前……ガウスにちなんで、両親のどちらかがつけたのか?」


有珠は、少し困ったように視線を落とした。


「……わからない」


短くそう答えると、また表情を元に戻し、机の上のノートに視線を落とした。


その「わからない」には、単なる記憶の欠落ではなく、触れたくない何かが含まれているように、幸には思えた。

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