第2話 休憩室
#2休憩室
翌日、幸が受けている講義に、彼女の姿はなかった。
だが、その日も授業終わりまで予備校に残った幸が、自習室へ向かう途中、ふと休憩室を覗くと――いた。
グレーのフロアカーペット、白く塗られたコンクリートの壁。
折り畳み式の長机とホワイトボード。
腰の高さほどのクリーム色のスチール棚(その上には、過去問のファイルが整然と並んでいる)。
その無機質な空間の一角に、彼女は静かに座っていた。
気づけば、幸は休憩室の中へ足を踏み入れていた。
しかし、ただ立ち尽くすのは不自然だ。
壁際の棚にかがみ、ガラス戸を横に滑らせ、予備校のチラシを取り出す。最寄りの席に腰を下ろし、それを眺めるふりをしながら、視線を斜めに送った。
――しまった。
すぐに後悔が押し寄せる。
よりによってチラシなど、不自然極まりない。なぜ、すぐ近くにあった過去問を取らなかったのか。
彼女のような天才なら、昨日隣に座っていた人間の顔くらい覚えているだろう。そんな相手の視界に、こんな間抜けな形で入ってしまった自分――。
胸の鼓動を意識しながらも、彼女は特に気づいた様子を見せない。
安堵と同時に、妙な空虚感が残る。
幸はいったん席を立ち、今度は過去問を手に戻ってきた。
ページをめくるふりをしながら、視線の端で彼女を捉える。――もう少しだけ、観察してみよう。
そう思った瞬間、自分が何をしているのかを、改めて意識してしまう。
それでも、目は彼女から離れなかった。
…弁当はすでに食べ終えているらしい。
彼女は今、表紙にアルファベットが並んだ厚めの本を開いていた。児童向けの絵本ではない。
ページを追いながら、小さく口を動かしている。
耳を澄ますと、かすかな声が届く。英語の発音練習だ。
断片的に拾える音だけで、その発音が拙いことは分かる。
だが、彼女は小さく、しかし必死に、自分の舌と口を矯正しようとしていた。
やがて別の洋書を手に取り、同じように声を出す。
時にはノートに書き写し、また発音を繰り返す。――なぜ、家でやらないんだろう。
幸は思う。自分は授業後すぐの復習と、この夜の予備校の空気が好きで残っている。だが、彼女の場合は何なのか。
時計はすでに二十二時を回っていた。
部屋には幸と彼女、二人だけ。
ふいに彼女が席を立ち、荷物を置いたまま廊下へ出ていく。――トイレか。
幸は胸の奥にあった疑問の手がかりを求め、彼女の席へと足を向けた。
遠くからでは見えなかった机の上を、間近で確かめようと――。
「なにしてるの」
背後から声が落ちてきた。
振り返ると、薄暗い廊下の中、彼女が腕を組んで立っていた。
蛍光灯の光が背後から差し込み、表情は影に沈んでいる。
その輪郭だけが、妙に鋭く、幸の胸を刺した。
…言い訳を探したが、うまく見つからない。
幸は観念し、正直に口を開いた。
「夜遅くまで勉強してるから、気になって……机の上の様子を見ようとしただけで、けっして何かに触ろうとしたわけじゃないんだ」
彼女は一拍置き、低く問う。
「根本の動機は?」
その言葉の意味を測りかね、幸は口をつぐむ。
彼女は視線を逸らさず、さらに畳みかけた。
「一時間以上前から、私のこと観察していたでしょ。――“なにが知りたくて”私の席に向かったの? ぼかさず答えて」
そして、わずかに口角を下げる。
「まさか、“何を勉強しているのか気になって”なんて言わないわよね? あんなにわかりやすく、声まで出して教えてあげてたんだから」
その瞬間、幸の胸の奥で、隠していた動機が形を取った。――なぜ、この子は一人で、こんな遅くまで勉強しているのか。――厚かましくも、その事情を知りたい。
それがすべてだった。
言葉にすれば、きっと彼女はさらに距離を置くだろう。
だが、黙っていても、この瞳はすべてを見透かしているように思えた。
胸の奥に隠していた哀れみも、邪な好奇心も、すべて見透かされたようで、幸は言葉を失う。
沈黙を破ったのは、彼女の方だった。
「ねえ。なんで私が英語の本を開いて、その発音を練習していると思う? 当てられたのなら、通報は勘弁してあげる」
――通報?
心臓が跳ね上がる。何罪で? いや、そんなことより、もし噂になったら……。
脳が、これまでになく高速で回転する。
彼女の行動、授業後も残る理由、予備校が小学生を受け入れた背景――すべてを一気に結びつけようとする。
「あっ……海外留学?」
口から出た答えは、ほとんど反射だった。
彼女はわずかに目を細め、口元に小さな笑みを浮かべる。
「そう。意外と頭が回るのね」
その瞬間、幸の中で、これまでの断片が一つの像を結んだ。
受験直前のような切迫感も、予備校の特例的な受け入れも、すべてが腑に落ちる。
ただ、その像の輪郭は、まだどこか霞んでいた。
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