第16話 アスレオン
海は、終わりがないように見えた。
低く垂れ込めた雲と、鈍い銀色の水平線。
その境目を、一隻の貨物船が、眠たげな速度で切り裂いていく。
セリウス・クレイドは、甲板の手すりにもたれ、潮の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
(……塩っ辛い)
思わず顔をしかめる。
それでも、どこか懐かしさが胸の奥をくすぐった。
エルデナの港。
白の塔から見下ろした海。
その横で、眩しそうに目を細めていた黒髪の少女。
(こんなところで、センチになってる場合かよ)
セリウスは自分にそう言い聞かせ、視線を前に向け直す。
「おーい、兄ちゃん」
甲板をモップ掛けしていた船員が、日焼けした顔を上げて声をかけてきた。
「船酔いか? 顔色わりぃぞ」
「ちょっと、揺れに慣れてないだけです」
「こんなベタ凪でそれじゃ、アスレオンじゃ生きていけねえな」
豪快に笑いながら、男は足元の木箱をドンと蹴った。
蓋が少しずれ、中身がのぞく。氷と、銀色の魚体がぎっしり。
「魚、魚、魚! 行きも帰りも魚だらけさ。
帝国様が“食糧輸入”だなんだ言いやがるせいで、こっちは毎日大漁祈願だ」
「……おかげで、俺もここまで運んでもらえた」
セリウスは素直に頭を下げた。
帝国の定期便ではなく、アスレオン商人が出した貨物船。
その一角に「荷物のついで」として乗せてもらっている。
革命軍――リバースオーダーの手配だ。
港の裏路地で落ち合った、小柄な連絡係の顔が浮かぶ。
(カイゼン・アドラー。相変わらず、準備が抜け目ない)
時間魔法を使う天才。
だが、その頭脳は過去帝国の発展のために使われた。
「礼なら、あの怪しい男に言ってくれよ」
船員が鼻を鳴らした。
「港で声かけて来た。“この青年をアスレオンまで運んでほしい”ってな。
“こいつは世界を変えるかもしれない”なんて、クサい台詞までつけてよ」
「……それは、買いかぶりすぎだな」
セリウスは苦笑する。
だが同時に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
(世界なんて大それたものじゃなくていい。
せめて、目の前の誰かくらいは――守れるようになりたい)
視線を遠くへやると、霞の向こうに黒い影が見え始めていた。
「……あれが、アスレオンですか」
「ああ」
船員が顎で示す。
「群島国家アスレオン。
島と岩と波と酒と喧嘩と船と魚しかねえ、最高にめんどくせえ国だ」
口ぶりは悪いが、声にはどこか誇りが混じっていた。
⸻
船はやがて、入り組んだ湾内へと入っていく。
視界に飛び込んできたのは、帝国の港町とはまるで違う景色だった。
入り江を取り囲むように、斜面にへばりつく木造の家。
石畳ではなく、湿った板を組み合わせた桟橋があちこちへ伸び、帆船や小舟がそれに縛り付けられている。
赤茶けた瓦屋根。
風雨に晒され色あせた板壁。
港沿いには干された網と、塩漬け魚の桶、酒樽が雑然と並ぶ。
古くて、少し汚い。
でも、そのどれもが“生きている”匂いを放っていた。
何より――。
「……うるさいな」
セリウスは思わず口に出した。
怒鳴り声、笑い声、魚の競りの声、酒場から響く歌。
そのすべてがごちゃ混ぜになり、波音と一緒になって押し寄せてくる。
「な? 活気あるだろ」
船員は胸を張る。
「漁から戻る船、今から出る船、荷を積む船、怪しい荷を積む船。
全部ひっくるめて“アスレオンの朝”ってやつさ」
セリウスは桟橋を見下ろしながら、息を吐いた。
(帝国とは真逆だな)
秩序と規律でぎちぎちに固められた帝都。
レムナスの石造りの神殿都市。
エルデナの、柔らかな魔法の街並み。
そのどれとも違う、荒っぽくて雑多な自由。
「セリウス!」
海は、終わりがないように見えた。
低く垂れ込めた雲と、鈍い銀色の水平線。
その境目を、一隻の貨物船が、眠たげな速度で切り裂いていく。
セリウス・クレイドは、甲板の手すりにもたれ、潮の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
(……塩っ辛い)
思わず顔をしかめる。
それでも、どこか懐かしさが胸の奥をくすぐった。
エルデナの港。
白の塔から見下ろした海。
その横で、眩しそうに目を細めていた黒髪の少女。
(こんなところで、センチになってる場合かよ)
セリウスは自分にそう言い聞かせ、視線を前に向け直す。
「おーい、兄ちゃん」
甲板をモップ掛けしていた船員が、日焼けした顔を上げて声をかけてきた。
「船酔いか? 顔色わりぃぞ」
「ちょっと、揺れに慣れてないだけです」
「こんなベタ凪でそれじゃ、アスレオンじゃ生きていけねえな」
豪快に笑いながら、男は足元の木箱をドンと蹴った。
蓋が少しずれ、中身がのぞく。氷と、銀色の魚体がぎっしり。
「魚、魚、魚! 行きも帰りも魚だらけさ。
帝国様が“食糧輸入”だなんだ言いやがるせいで、こっちは毎日大漁祈願だ」
「……おかげで、俺もここまで運んでもらえた」
セリウスは素直に頭を下げた。
帝国の定期便ではなく、アスレオン商人が出した貨物船。
その一角に「荷物のついで」として乗せてもらっている。
革命軍――リバースオーダーの手配だ。
港の裏路地で落ち合った、小柄な連絡係の顔が浮かぶ。
(カイゼン・アドラー。相変わらず、準備が抜け目ない)
時間魔法の天才。
だが、その頭脳は今、帝国ではなく革命軍のために使われている。
「礼なら、あの怪しい男に言ってくれよ」
船員が鼻を鳴らした。
「港で声かけて来た。“この青年をアスレオンまで運んでほしい”ってな。
“こいつは世界を変えるかもしれない”なんて、クサい台詞までつけてよ」
「……それは、買いかぶりすぎだな」
セリウスは苦笑する。
だが同時に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
(世界なんて大それたものじゃなくていい。
せめて、目の前の誰かくらいは――守れるようになりたい)
視線を遠くへやると、霞の向こうに黒い影が見え始めていた。
「……あれが、アスレオンですか」
「ああ」
船員が顎で示す。
「群島国家アスレオン。
島と岩と波と酒と喧嘩と船と魚しかねえ、最高にめんどくせえ国だ」
口ぶりは悪いが、声にはどこか誇りが混じっていた。
⸻
船はやがて、入り組んだ湾内へと入っていく。
視界に飛び込んできたのは、帝国の港町とはまるで違う景色だった。
入り江を取り囲むように、斜面にへばりつく木造の家。
石畳ではなく、湿った板を組み合わせた桟橋があちこちへ伸び、帆船や小舟がそれに縛り付けられている。
赤茶けた瓦屋根。
風雨に晒され色あせた板壁。
港沿いには干された網と、塩漬け魚の桶、酒樽が雑然と並ぶ。
古くて、少し汚い。
でも、そのどれもが“生きている”匂いを放っていた。
何より――。
「……うるさいな」
セリウスは思わず口に出した。
怒鳴り声、笑い声、魚の競りの声、酒場から響く歌。
そのすべてがごちゃ混ぜになり、波音と一緒になって押し寄せてくる。
「な? 活気あるだろ」
船員は胸を張る。
「漁から戻る船、今から出る船、荷を積む船、怪しい荷を積む船。
全部ひっくるめて“アスレオンの朝”ってやつさ」
セリウスは桟橋を見下ろしながら、息を吐いた。
(帝国とは真逆だな)
秩序と規律でぎちぎちに固められた帝都。
レムナスの石造りの神殿都市。
エルデナの、柔らかな魔法の街並み。
そのどれとも違う、荒っぽくて雑多な自由。
「おい!兄ちゃん!」
船員の声が最後に笑顔で飛ぶ。
「楽しめよ!」
拳を突き上げる船員に困るセリウス。
「はぁ、」
肩にかけた小ぶりの荷を持ち直し、セリウスは貨物に紛れて桟橋へと跳び降りた。
⸻
港は混沌そのものだった。
濡れた網を担ぐ漁師。
魚の箱を抱え走る子ども。
酒樽を転がす逞しい女たち。
その合間を、古い型の軍服を着た男たちがすり抜けていく。
帝国式の軍装とはまったく違う。
上着は擦り切れ、肩章も古く、胸の紋章も色あせている。
だが、その目だけは鋭かった。
(あれが、アスレオン海軍か)
帝国の報告書で読んだことはある。
地形と潮流に精通し、接近戦に特化した“世界屈指の海軍”。
近代的な魔導砲や装甲艦こそ持たないが、島と霧と暗礁に守られたこの国では、彼らの方がよほど脅威になる――。
そう資料にはあった。
「さて」
セリウスは、ざわめきの中で小さく呟く。
(まずは、情報と――それから、あの男だ)
風のセイクリッドルート。
オルド・ノクス。
カイゼン・アドラーから渡された、古い記録と、ぼやけた似顔絵。
「今はアスレオンのどこかで酒と海に溺れているはずだ」という、雑にもほどがある情報。
(探すところは決まってる)
セリウスは港の一角、ひときわ騒がしい建物に目を留めた。
魚と酒瓶と踊る女が描かれた古い看板。
剥げた文字で《人魚亭》と書かれている。
扉の隙間から、酒と煙と笑い声が溢れていた。
「……分かりやすいな」
セリウスはため息を吐き、扉を押し開けた。
⸻
中は、外以上の喧噪だった。
水夫、漁師、流れ者、兵士。
ごちゃまぜになった男たちが、酒を煽り、腕相撲をし、歌い、怒鳴り合っている。
カウンターの奥では、腕っぷしの強そうな女主人が、器用にジョッキを並べていた。
その喧騒の中で――ひときわ目立つ存在が、静かに眠っていた。
カウンターの端のテーブル。
古びたコートを羽織り、海賊じみた帽子をかぶった男。
シャツの襟は開きっぱなしで、胸元には酒のシミ。
長く伸びた黒と灰色の髪はぼさぼさ、頬には無精ひげ。
テーブルの上には、空になった酒瓶が数本、無造作に転がっている。
その男の周囲だけ、なぜかぽっかりと空間が空いていた。
他の客は誰も、彼のテーブルには座らない。
女主人でさえ、酒を注ぎ足す時には、少し距離を取る。
(……あいつだな)
セリウスは直感した。
部屋の中なのに、彼の周囲だけ、風の流れ方が違っていた。
煙のたなびき方、ランプの揺れ方。
細かな“流れ”が、酔いつぶれたその男を中心に渦を巻いている。
「お、おい兄ちゃん」
カウンターの隣に座っていた漁師風の男が、小声で話しかけてきた。
「あのだらしねぇオッサン、見てると目を付けられるぞ」
「知り合いか?」
「知り合いっていうか……アスレオンじゃ知らねぇ奴はいねぇ」
男は肩をすくめる。
「“嵐呼びのオルド”。
昔は海軍だか海賊だか知らねぇが、とんでもねぇ奴だったって話だ。
今は酒と喧嘩と賭け事だけしてる、ただのクズだがな」
「ただのクズにしては、皆やけに距離を取ってるように見えるけど」
「そりゃそうだ。あいつが本気で怒鳴ると、港の風向きが変わる」
横から、女主人が口を挟んだ。
「漁師たちは、みんなあいつの機嫌と風を見て出航決めてるくらいさ。
死にたくなけりゃ、あまり近づかないのが賢明だよ」
「……」
セリウスは、ほんの一瞬だけ躊躇した。
だが、迷っている時間はない。
リヴィアも、グレイも、今この時もどこかで戦っている。
自分だけここで足踏みするわけにはいかない。
「悪いけど」
セリウスは椅子から立ち上がった。
「近づかない、って選択肢は持ってない」
「おい、あんちゃん?」
漁師の制止を背中で聞き流し、オルドのテーブルへと歩いて行く。
⸻
「おい」
テーブルの端を、こつんと指で叩く。
オルドは、盛大ないびきをかいたまま動かない。
「起きろ。話がある」
セリウスは声を少し張った。
周囲のざわめきにかき消されそうだったが、男の耳には届いたらしい。
オルドは眉間に皺を寄せ、面倒そうに片目だけを開けた。
「……酒、切れたか」
「違う。あんたに用がある」
「なら、酒を注げ」
オルドは欠伸を噛み殺しながら、空になったジョッキを持ち上げた。
「用がある奴は、まず一杯奢るもんだ」
「……ルールがあるのか」
「俺のルールだ」
理不尽にもほどがある。
だが、ここで揉めるのは得策じゃない。
セリウスはカウンターの女主人に声をかけた。
「同じのを一杯」
「へいよ」
ジョッキが満たされ、オルドの前に置かれる。
男はそれを一息に飲み干し、テーブルに乱暴に叩きつけた。
「で?」
先ほどまでのだらしない目は、どこかへ消えていた。
酔いの膜の下から現れた瞳は、驚くほどよく澄んでいる。
「何者だ、お前」
「セリウス・クレイド」
「名前は聞いてねえ。何者かって聞いてんだ」
セリウスは、一拍置いて答えた。
「帝国の敵だ」
オルドの目が、わずかに細くなる。
「……続けろ」
「帝国を止めたい。できることなら、ぶっ壊したい」
セリウスは真正面から言葉をぶつけた。
「そのために、あんたに会いに来た。
風のセイクリッドルート――オルドに」
一瞬、酒場のざわめきが遠のいた気がした。
酔いどれた海賊の仮面の底で、何かがきしむような気配。
オルドはしばらく黙ってセリウスを見つめ――。
「……そうか」
ぼそりと呟き、ふらりと立ち上がった。
そして、セリウスの肩に片腕を回してくる。
「おぶれ」
「……は?」
「帰る。歩くの、めんどくせぇ。
それに、ここでそんな話続けてたら、海軍のガキどもに耳持ってかれる」
耳元にだけ届く声。
「落としたら殺す」
「脅し方が雑すぎるだろ……」
セリウスは呆れたように笑いながらも、その身体を支えた。
酔っているくせに、妙に重い。
筋肉の重さだけじゃない。何か、もっと別の“重み”が乗っているような感覚。
(これが、“理”に触れた奴の重さかよ)
心の中でため息をつきながら、セリウスはオルドを背負い、狭い路地へと歩き出した。
⸻
オルドの住まいは、港外れの傾いた木造家屋の二階だった。
階段は軋み、廊下はところどころ穴が開いている。
部屋の扉を開ければ、酒瓶と古びた本と、風でめくれた紙束が床一面に散乱していた。
「……散らかしすぎだろ」
セリウスは呆れながら、オルドを布団代わりの毛布の山に投げ出した。
男は「うぐ」とひと声出したが、またすぐに寝息を立て始める。
(さて、どうする)
椅子らしきものを掘り出し、セリウスはそこに腰を下ろした。
部屋の隅には、小さな窓。
割れたガラスから潮風が入り込み、薄いカーテンを揺らしている。
この男が本当に風のセイクリッドルートなら――。
世界の“理”に半分足を突っ込んだ存在なら――。
(教わりたいことは山ほどある)
しかし同時に、胸の内で何かがざわついていた。
エルデナで聞いた“兵器”の轟音。
魔力が一瞬で霧散した感覚。
血の匂いと、焼けた石の匂い。
あの魔力無効化装置。
それを生み出す理論の一部に、カイゼン・アドラーの研究が使われている。
本人は、それを“人を守るための応用”だと信じていた。
だが帝国は、それをそのまま兵器に組み込んだ。
目の前の伝説が、平和へ繋がる鍵を知っているかもしれない。
セリウスは拳を握った。
エルデナを守れなかった。
リヴィアを、帝国に残した。
レムナスで、カイゼンを失った。
あの日の炎の中で、何度も何度も心の中で誓った。
(このままじゃ終われない)
窓の外では、港の灯りが揺れている。
酒場の喧噪は、さすがに少し落ち着いてきたようだ。
まぶたが、知らないうちに重くなっていく。
海風は冷たいが、不思議と心地よかった。
セリウスはいつの間にか、椅子にもたれたまま眠りに落ちた。
⸻
最初に目に入ったのは、床だった。
しかも妙に近い床。
「……え?」
腕を動かそうとして、自分の身体が拘束されていることに気づく。
麻縄。
手首、肘、肩、足首。
きれいに要所を縛られている。素人仕事じゃない。
「おはようさん」
頭上から、聞き慣れてきた声が落ちてきた。
顔を上げると、逆光の向こうにオルドが立っていた。
髪もひげも相変わらずだが、瞳は完全に冴えている。
昨夜の酔っ払いとは別人のようだ。
「随分、乱暴な起こし方するんだな」
「勝手に人ん家で寝た礼だ」
「おぶれって言ったのはそっちだろ」
「そうなのか。俺は覚えてないぞ」
理不尽にも程がある。
オルドは椅子を蹴り倒し、縛ったままのセリウスを仰向けに転がした。
「さて」
腰のホルスターから、黒光りする拳銃を取り出す。
「改めて、聞くぞ」
セーフティが外れる乾いた音。
銃口が額に当てられる。
「お前、何者だ」
「……セリウス・クレイド。昨日も言った」
「名前はいらん」
オルドの声は静かだが、底に尖ったものを含んでいた。
「どこで、誰から、何を聞いて、ここに来た」
一瞬、迷いがよぎる。
だが、隠して意味がある相手じゃない。
「まず一つ、言わせてくれ」
「遺言か?」
「昨夜、酔いつぶれたあんたをここまで運んで、ちゃんと布団まで放り込んだのは俺だ。
縛る前に、礼の一言くらいあってもいいと思うんだが」
「……」
妙な沈黙。
次の瞬間、銃口が額から離れた。
「そうか」
オルドはあっさりと答え、しゃがみ込んで縄を解き始めた。
「助かった。ありがとな」
「礼の言い方が独特すぎるだろ」
「素直ってのは慣れてねぇんだよ」
縄がほどけ、セリウスは上体を起こして手足を回した。
血が通い直して、少し痺れが抜けていく。
「それで、質問だ」
オルドは自分の分の椅子にどかっと腰を下ろした。
「お前、俺に何のようだ。いろいろ訳ありそうだな。」
「近々帝国が、このままいけば世界大戦を起こすつもりだ」
セリウスは息を吐いた。
「レムナスの件は、そのための“導火線”だ。
中立国家を潰して、正義面して介入する。
その先に、小国を全部飲み込む算段を立ててる」
カイゼン・アドラーの命をかけた戦いで得た情報。
「それを止めたい。
だから、そのために必要な力が欲しい」
「それで俺のところに来た、と」
「ああ」
オルドはあくびを一つし、窓辺に目をやった。
「帝国の犬かと最初は思ったが……カイゼンの名前を出された時点で、だいぶ評価が変わったな」
「カイゼン・アドラーを、知っているのか」
「知ってるも何も――」
オルドは頭をかきむしる。
「あいつの“時間魔法(もどし屋)理論”に付き合わされたせいで、こっちは何度寝不足になったか分からねぇ」
「……寝不足?」
「理論の話だ。“もしも”と“別の未来”と“巻き戻し”と“固定点”だの、面倒な言葉並べやがって」
文句は多いが、その声にはどこか親しみが滲んでいる。
「エルデナで使われたっていう“魔力無効化装置”も、元を辿ればカイゼンの理論だ。
あいつは“魔力暴走事故を防ぐ安全装置”のつもりで出したんだろうがな」
「帝国は、それを兵器にした」
セリウスは、あの日の光景を思い出す。
王宮魔導師たちの詠唱が、途中でぷつりと途切れた瞬間。
魔法陣が崩れ、光が霧のように散った。
「俺の半端な天界の血も、あの時は封じられた。
あれがなければ、あの日、もう少しできることはあったかもしれない」
「“もしも”を数え出したらキリがねぇ」
オルドは肩をすくめる。
「そういうのを数えるのが好きなのはカイゼンだ。お前じゃない」
「……そうだな」
セリウスは苦笑した。
「質問に答える。
俺は帝国の正式な兵士じゃない。革命軍――リバースオーダーの一員だ」
「リバースオーダー、ね」
オルドが小さく呟く。
「カイゼン・アドラーが作った、帝国へのカウンター組織。
書類上は“テロ組織”だが」
「実質、そう扱われてる」
セリウスはうなずいた。
「本名で言えば、俺はエルデナ出身の元学生だ。
帝国に国を潰され、白の塔も燃やされ、残った生徒なんて片手で数えられるくらいだ」
オルドの目の奥で、何かが微かに揺れた。
「生き残った判断は、間違ってなかったか?」
「少なくとも、あの日の台詞を今も覚えてる」
セリウスは目を伏せる。
……
「なあ、いつか――俺たちで、空飛ぶ魔法船作ろうぜ。」
「え?」
「上から世界を見てみたい。
塔の上じゃ足りないんだ。もっと広い世界を、リヴィアと見てみたい。」
「……夢みたいな話ね。」
……
中庭で、芝生に寝転びながら言った言葉。
リヴィアの頬が赤く染まり、グレイに盗み聞きされ、散々冷やかされた。
(……あの日が、“最後の平穏”だったなんて)
こんなところで振り返るつもりはなかった。
だが、胸の奥から、あの光景が勝手に浮かんでくる。
「エルデナを守れなかった。
リヴィアも、帝国に置いてきた。
レムナスでも、結局何も守れなかった」
握りしめた拳が、かすかに震える。
「それでも、まだ生きてる。
なら、やることは一つしかない」
「帝国を止める、か」
「それだけじゃない」
セリウスは首を振った。
「帝国がどうこうって話より――
俺は、“誰かの都合”で人が死ぬのがもう嫌なんだよ」
天界の理。
魔界の争い。
帝国の膨張主義。
どの都合に合わせても、その度に切り捨てられる人間がいる。
「だから、“力そのもの”を知りたい。
理に触れたあんたに、教えてほしい」
オルドは、しばし黙ってセリウスを見つめていた。
やがて、大きく息を吐く。
「……面倒くせぇガキを拾っちまったもんだ」
「拾われた覚えはねぇぞ」
「自分から転がり込んできた、の間違いか」
オルドは立ち上がり、窓の外を指さした。
「見ろ」
港の方角。
風向きが、いつの間にか変わっていた。
さっきまで沖から吹き込んでいた風が、今は陸から海へと流れている。
旗の向き、煙の流れ、帆の揺れ方。すべてが逆になっていた。
「……いつの間に?」
「さっきだよ。お前の話を聞きながら」
オルドは肩をすくめる。
「セイクリッドルートってのはな、“世界の理”に半分身体を突っ込んじまった連中だ。
魔力がどうこうって話じゃねぇ。“当たり前”をずらせる程度に、世界の側に立ってる」
「風の流れ。雷の筋。大地の脈。斬撃の線。木々の循環。光の規律」
指折り数えながら、いくつかの名を口にする。
「風のオルド。
雷のボルガン。
土のネフェリス。
斬のムラサメ。
木のミラ」
一瞬、言葉を区切った。
「そして――光の“何か”」
「光のセイクリッドルートの名は?」
セリウスが問うと、オルドは視線を外した。
「昔は、ヴァル……」
そこで言葉を飲み込み、首を横に振る。
「名前なんざどうでもいい。
大事なのは、“光の理”がどこに肩入れしているか、だ」
「帝国、か」
「最近の帝国の光属性兵器の伸び方は、どう考えても異常だろうが」
オルドの声に、わずかな苛立ちが混じる。
「魔導砲、照準装置、魔力を解析する術式。
どれも、理論の奥に“光の筋”が見える。
お前が言ってた魔力無効化装置も、その一種だ」
「軽く触っただけで、魔法の有無、質、流れを全部感知できるようになる。
そんな都合のいい術式、普通の人間が考えつくかよ」
「じゃあ――」
セリウスは息を飲んだ。
「帝国のどこかに、“光の理”に触れた奴がいるってことか」
「さぁな」
オルドは肩をすくめる。
「だが、帝国の上の方から吹いてくる“風向き”を感じると、どうにも嫌な予感しかしねぇ。
大戦なんざ始められたら、人間界だけの問題じゃ済まなくなる」
天界。
魔界。
オルドの目が、一瞬だけ遠くを見る。
「それでも、お前は帝国を止めたいんだろ」
「――ああ」
迷いはなかった。
たとえ、相手が“光の理”に手をかけていようと。
たとえ、自分が半端な天界の血を持っていようと。
「なら、教えてやらないこともない」
オルドは、ぽんと窓枠を叩いた。
「風の見方をな」
「風の、見方?」
「魔法の撃ち方や派手な技は、後でどうとでもなる。
まずお前が身につけるべきなのは、“どこに立つか”を見る目だ」
オルドは指を一本立てた。
「力を手に入れた奴は、いつだって風下から狙われる。
利用しようとする奴、潰そうとする奴、飾りにしようとする奴」
「帝国も、天界も、魔界も、そういう意味じゃ大差ない」
「だから、自分が今どこに立っているか、誰の風上にいるのか――それを忘れない目が必要だ」
もう一本、指が立つ。
「条件は三つ」
「一つ目」
オルドの目が、セリウスを射抜く。
「帝国憎しだけで動くのをやめろ。
“守りたい具体的な誰か”を、常に胸の真ん中に置いとけ」
セリウスは、迷わず答えた。
「リヴィア・ノクス。
それから、革命軍の仲間たち。
黒翼で戦ってる連中も、頭に浮かんでる」
「……黒翼?」
「ああ。帝国の暗躍部隊だ。
そこに、リヴィアがいる」
その名を口にした瞬間、オルドの瞳がわずかに揺れた。
「黒髪。闇魔法。
ペンダントを、いつも大事そうに握ってる女の子だ」
オルドは、目を閉じる。
短い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「まだ、生きてんのか」
「――ああ。
この前も、命がけで戦ってた」
レムナスの街角。
黒翼として帝国軍を前に立ち塞がるリヴィアの姿。
焦げた軍服、血に濡れた頬。その中で、それでも前を見ていた瞳。
「そうか」
オルドの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「試験は一つ通過だな」
「試験?」
「“守りたい奴が、まだこの世界にいるかどうか”。
それを聞くのが、俺の最初の試しだ」
よく分からない基準だが、そこに冗談の気配はなかった。
「二つ目」
オルドは指を二本目に折る。
「アスレオンで、俺が抱えてる厄介ごとのいくつかを片付けろ」
「厄介ごと?」
「借金取り、喧嘩相手、海軍、密輸業者、魚の取り分でもめてる漁師。
まぁ細かく挙げたらキリがねぇ」
セリウスは眉をひそめた。
「……それただの雑用じゃないのか」
「違う。俺が面倒くさがってる分、お前が身体張って経験値稼げって話だ」
一切悪びれない。
「世界を変えるだの帝国を止めるだの言うくせに、港町の喧嘩ひとつ収められないようじゃ話にならねぇだろ」
理屈は滅茶苦茶だが、言いたいことは分からなくもない。
「三つ目」
オルドの声が少し低くなった。
「一度でも、“力でねじ伏せるだけ”の選択をしたら、その場で弟子をやめさせる」
「どういう意味だ」
「弱いから殺す。気に入らないから壊す。
自分の都合のためだけに風向き変える。
そういうのを選んだ瞬間、お前は“器”じゃなく“道具”になる」
セリウスの喉が、ごくりと鳴った。
レムナスで、一瞬だけよぎった感覚。
全部を焼き尽くしてしまえば楽になる、という、危うい衝動。
(あれを、もし選んでいたら)
たぶん今ここに、自分はいない。
「受けるか、受けないか」
オルドは椅子の背にもたれかかった。
「別に受けなくてもいい。
その場合は、お前はお前のやり方で戦え。
俺は、ここで酒飲んで、適当に死ぬ」
「……」
セリウスは、短く息を吸った。
「受ける」
迷いは、もうどこにもなかった。
「何度でも殴られてやる。
何度でも倒されてもいい。
それでも、教えてほしい」
「風の見方を。
帝国を止めるための、理への触れ方を」
オルドは、じっとその顔を見て――ふっと笑った。
「……お前には、ロクな未来はなさそうだがな」
「何故だ?」
「さぁな」
問いには答えず、オルドは窓を大きく開け放った。
潮風が、一気に部屋へ流れ込む。
「よし」
窓枠に片足をかけ、男は外を見下ろした。
「なら、まずは“風に殺されない身体”を作るところからだ」
手を軽く振る。
それだけで――港が、変わった。
さっきまで穏やかだった海面が、一瞬だけ沈黙し、次の瞬間、渦を巻くように逆流する。
桟橋に繋がれていた小舟がぐらりと傾き、慌ててロープを押さえる漁師の怒鳴り声が聞こえた。
煙突から立ち上る煙の向きが、一斉に反転する。
帆船の帆がばさりと裏返り、港じゅうの旗が逆方向を向いた。
「……」
セリウスは言葉を失った。
魔法陣も詠唱もない。
ただ、手を振っただけ。
(これが……セイクリッドルート)
世界の“当たり前”を、指先ひとつでずらしてしまう存在。
「アスレオンの風は気まぐれだ。
だが、理に触れていると、こうやって少し弄れる」
オルドは窓枠から身を引き、セリウスの方を向いた。
「グラルドの山じゃ、雷が暴れてる。
シキナの山林じゃ、斬の気配が濃くなってる」
遠く離れた二人の姿が、セリウスの頭にも浮かぶ。
黒いコートの男。
黒髪の少女。
(グレイ。リヴィア)
自分だけが遅れているような焦りが、ふっと胸をかすめた。
「焦るなよ」
オルドが言う。
「風は、焦って追いかけようとすると逃げる。
歩いてれば、そのうち向こうから当たってくる」
「……あんたの言葉は、分かるような分からないような」
「分かるようになれば一人前だ」
オルドはニヤリと笑った。
「さぁ、行くぞ」
「どこへ?」
「まずは、借金取りと喧嘩してる港の連中の間に飛び込んでもらう」
あまりにも即物的な修行内容に、セリウスは頭を抱えた。
「世界を救う修行の第一歩が、それかよ……」
「世界ってのはな、港の喧嘩の延長線上に転がってるもんだ」
笑いながら、オルドは部屋の外へと出ていく。
セリウスは一拍遅れて立ち上がり、その背中を追った。
(リヴィア。グレイ)
心の中で、二人の名を反芻する。
(俺もここで、“止まってた時間”を動かす)
潮風が、二人の間を吹き抜けた。
群島国家アスレオン。
古い港町と荒くれ者たちに囲まれたこの場所で、
セリウス・クレイドの“風の修行”が、今まさに始まろうとしていた。
終焉の魔女リヴィア 〜“創世の千年魔導譚”〜 粗雨 @Sou_7root
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