第14話 シキナ


第14話 シキナの国


 潮の匂いが濃かった。


 軍用輸送船の甲板に立ち、リヴィアは海風を胸いっぱいに吸い込む。

 帝都の乾いた煙と油の匂いとは違う、塩と魚と湿った木の匂い。


 霧の向こうに、低い山並みと木造家屋が見えた。


 瓦屋根が連なり、海辺から少し離れた斜面にまで家々がへばりつくように建っている。

 港には木製の桟橋が伸び、白い帆を張った小さな船がいくつも揺れていた。


(ここが……シキナ)


 海国シキナ。

 刀と木造建築、そして独自の礼法と舞踊を持つ島国。

 帝国とは軍事同盟を結びつつ、どこか距離を保つ“海の防波堤”。


 そこに置かれた帝国駐屯地へ――彼女は左遷同然に送られてきた。


 甲板に号令が響く。


「これよりシキナ軍港へ入港する! 銃器の点検を完了し、降船準備につけ!」


 リヴィアは肩に荷物をかけ直した。


 黒翼の徽章は、今は軍服の内側にしまっている。

 ここでは、あの名はほとんど知られていない。

 知っていたとしても「聖都で暴れた厄介な部隊」くらいの扱いだ。


(それでも、私は――前に進む)


 波が砕け、船体が軋む音が、耳に心地よく響いていた。



 帝国駐屯地は、街から少し離れた丘の上にあった。


 周囲の木造家屋や瓦屋根とは明らかに浮いた、灰色の石造り。

 敷地を囲む柵は錆び、門の前では見張りの兵士が欠伸をしている。


 門をくぐった瞬間、リヴィアは眉をひそめた。


 中庭には、訓練をしている兵士の姿がほとんどない。

 代わりに、日陰に腰を下ろして煙草をふかす者、酒瓶を持ったまま笑っている者――。


「あれが……帝国駐屯兵?」


「おい、見ろよ。ちっこいのが来たぜ」


「女か? ここじゃ珍しいな」


 視線が刺さる。

 軽く、下卑た色と、探るような色と。


 リヴィアは気にせず司令部棟へ向かった。


 執務室の扉をノックし、返事も聞かずに開けると――酒の匂いが鼻をついた。


 机の上には空になりかけた酒瓶と散乱した書類。

 椅子にふんぞり返っているのは、だらしなく襟を開けた男――シキナ駐屯地司令、モルド・バレッサ大尉。


「失礼します。特務課直轄諜報部隊黒翼、伍長リヴィア・ノクス。本日付でシキナ駐屯地へ配属されました」


 リヴィア達は、今回の異動により、昇進しているが、辺境の地に飛ばされたため、全てが評価されたとは周囲から思われなかった。


 バレッサは、きっちり敬礼するが、片目だけ開けてリヴィアを見た。


「……黒翼? ああ、あの厄介な連中か。まだ生き残りがいたのかよ」


「はっ。聖都作戦より帰還し――」


「ここじゃ、その武勲も泣き言も関係ねぇ」


 バレッサはつまらなそうに手を振った。


「シキナはな、帝国の国外で“辺境”だ。

 本国の偉い連中が何を考えようが、ここでは俺が法律だ。分かるか?」


「……了解しました」


「お前の階級は伍長だ。駐屯地じゃちょうど真ん中ってとこだな。

 とりあえず、巡回でもしてろ。余計なことはするな。島民とは適度に仲良く、適度に締め上げとけ」


「締め上げる、とは?」


「金を取るなとは言わねぇさ。

 奴らは帝国様に守ってもらってんだ。感謝の印ってやつが要るだろう?」


 あまりにもあからさまな言葉に、リヴィアは一瞬、返す言葉を失った。


(これが……この駐屯地の“普通”……?)


 帝国軍人としての誇りも、規律も、ここではすっかり酒に溶けてしまっているらしい。


 リヴィアは奥歯を噛み締め、言葉を飲み込んだ。


「……巡回、行ってまいります」


「ああ、せいぜい足を引っ張るなよ、黒翼伍長サンよ」


 軽薄な笑い声を背中に受けながら、リヴィアは執務室を後にした。




 港から伸びる石畳の道を歩くと、すぐに街の中心に出た。


 木造二階建ての家々が並び、軒先には布の暖簾。

 香ばしい焼き魚の匂いと、甘い醤油の香りが漂ってくる。


(……いい匂い)


 帝都のコンビナート臭に慣れていた鼻には、どこか懐かしいような、落ち着く匂いだった。


 しかし、そんな空気を破る怒号が聞こえた。


「だから払えねぇのかって言ってんだろが、このジジイ!」


「も、もう何度も……払っとる……! 今年は漁も不漁で……!」


 路地の角で、帝国兵が二人、シキナの老人を壁に押し付けていた。


 肩章を見ると、軍曹と兵長。


 リヴィアは歩み寄る。


「そこで何をしているの?」


 声をかけると、兵長が振り向いた。


「なんだテメェは」


「今日から駐屯地に配属された、伍長リヴィア・ノクス。巡回中よ」


 軍曹が老人の襟首を掴んだまま、鼻で笑った。


「このジジイが保護料をケチってるだけだ。俺たちは正当な徴収をしてるだけさ」


「保護料……?」


「島民は帝国様に守られてんだよ。だったらそれなりの金を出して当然だろうが」


 老人の手は震えている。

 その目には、帝国兵への恐怖と諦めが混ざっていた。


 リヴィアは一歩前に出た。


「その徴収は、帝国軍の正式な命令?」


「はあ? そんなものいちいち見せられるか。新任さんは黙ってろ」


「黙らないわ」


 リヴィアの声は冷たくなった。


「その老人から手を離しなさい。それは命令よ」


 帝国兵の額に青筋が浮かぶ。


「何様のつもりだ、伍長風情が……!」


 振り上げられた拳が、リヴィアの頬を目がけて飛ぶ――はずだった。


 だが。


「遅い」


 リヴィアの足が一歩滑った瞬間、帝国兵の体がふわりと宙に浮き、そのまま背中から石畳へ叩きつけられた。


 ごしゃ、と鈍い音が響く。


「……は?」


 帝国兵の目が大きく見開かれた。


「今のは、警告。次からは――鎖骨くらいは折るわよ」


 リヴィアは静かに言った。


「い、いきなり何しやがる!」


「命令に逆らったからよ。

 私は帝国軍人として、この島の民を守る義務がある。

 あなた達のような兵は――その邪魔になるだけ」


 もう一人の帝国兵は歯噛みし、地に倒れた帝国兵を引きずり起こす。


「くそ……覚えてろよ……!」


 二人は駐屯地の方へと走り去っていった。


 老人は、その場にへたり込みながらも、何度も頭を下げた。


「た、助かった……。帝国にも、あんたのような人がおるんじゃな……」


「当然です。あなたも帝国の庇護下にいる民ですから」


 周囲に集まっていた島民たちが、ざわめきながらリヴィアを見つめていた。


「帝国の兵が、島の者を守ったぞ……」


「女の兵士なんて初めて見た……」


「ありがてぇ……ありがてぇ……!」


 礼を述べる声があちこちから飛び交う。


 リヴィアは、少し照れくさくなりながらも、それを受け止めた。


(……帝国にも、まだ“守るための力”が残ってるって、証明しないと)


 そんな思いが、胸の奥に小さく灯る。



 夕刻、駐屯地へ戻ると、空気が変わっていた。


 門をくぐった瞬間、兵士たちの視線が一斉に集まる。


「こいつだよ。街で調子こいてたっていう黒翼」


「へぇ……女で伍長か。やるじゃん?」


「いやぁ、男二人ぶっ飛ばしたって話だぜ?」


 半分は冷ややかな目。

 もう半分は、ねっとりした“物珍しさ”と“色気”を帯びた視線。


 軽い笑い声と、ひそひそ声が混じる。


 リヴィアは完全に無視して、司令部棟へ向かった。


 ノックもそこそこに執務室に入る。


「報告があります」


 机の向こうのバレッサ大尉は、今も酒瓶を片手にしていた。


「なんだよ」


「街で巡回中、帝国兵による島民への不当な金銭徴収を確認。

 止めようとしたところ、指示に従わず、暴力行為に及ぼうとしたため制圧しました」


「……は?」


 バレッサは片眉を跳ね上げた。


「あいつらは“徴収係”だ。俺が許可してんだよ」


「正式な命令書は?」


「そんなもん、紙に起こすかよ。

 ここは辺境だぞ。

 帝国の連中がわざわざ細かい数字まで見に来ると思うか?」


 リヴィアは、無言で大尉を見つめた。


「……つまり、あれはあなた個人の“懐”に入る金だったと?」


「言い方ってもんがあるだろうが、伍長サンよ」


 バレッサはグラスを机に置き、身を乗り出した。


「いいか? ここで生きるには、ここのやり方がある。

 黒翼だか何だか知らねぇが、

 お前の正義感を振り回して“秩序”を壊すな。分かったか?」


「……承知しました」


 承知したのは、“この駐屯地が腐っている”という事実だけだ。


 エルデナの白の塔が焼け落ちた光景が、ふと頭をよぎる。

 守るべきものを守れなかった後悔。

 今度こそ、同じことは繰り返さないと決めたのに――。


(帝国兵は、みんなカラムさんたちみたいだと思ってた。

 けれど、現実は違う)


 リヴィアは胸の奥がじわりと痛むのを感じながら、執務室を後にした。



 その夜。


 駐屯地食堂は、いつも以上に騒がしかった。


「ようこそ辺境へ! 新入り歓迎会だ!」


「黒翼の武勇伝、じっくり聞かせてもらおうじゃねぇか!」


 テーブルの上には、油っこい肉料理と冷めかけたスープ、

 そして何より、山のように積まれた酒瓶。


 誰もフォークやナイフをまともに扱っていない。

 皿の上で肉が転がり、スープがこぼれ、酔っ払いの笑い声が天井に響く。


 リヴィアは隅の方で静かにスープを口に運んでいた。


 こんな空気は、嫌いではない。

 黒翼の仲間たちと囲んだ食卓を思い出す。

 けれど――そこにはいつも、守るべき規律と、誰かへの敬意があった。


 今ここにあるのは、ただの“だらけ”だ。


「リヴィア伍長、飲めよ!」


 どこからともなく声がかかる。


 顔を上げると、赤ら顔の兵士が酒瓶を差し出してきた。


「歓迎の酒だ! 一気だ一気!」


「……任務中でもあるのに、いいんですか?」


「夜はどうせ何もねぇよ。この島、戦なんて起こりゃしねぇ」


「……結構です。私はあまり酒に強くないので」


 丁寧に断ると、兵士の顔に露骨な不機嫌が浮かんだ。


「つまんねぇ女だな、おい」


「だから男にモテねぇんだよ、こういうタイプはよ」


 笑い声がまた広がる。


 リヴィアは肩をすくめ、器からスープを啜った。


 その時だった。


「や、やめてください……」


 か細い声が、ざわめきの下から聞こえた。


 食堂の隅で、眼鏡をかけた事務服姿の若い女性が、何人かの兵士に囲まれていた。


 細い肩。

 緊張で強ばった指先。

 その胸元に、兵士の手が伸びかけている。


「いいじゃねぇかよ、ちょっとぐらい付き合えよ」


「書類仕事ばっかしてたら肩も凝るだろ?俺たちがほぐしてやるって」


「や、やめ……!」


 リヴィアは椅子から静かに立ち上がった。


 足音ひとつ立てず、輪の中へ歩み寄る。


「そこまで」


 低い声で言った。


 兵士たちが振り向く。


「なんだよ」


「その女性から、離れなさい」


 眼鏡の女性は、怯えた瞳でリヴィアを見上げていた。


 兵士の一人がニヤリと笑う。


「またお前かよ、黒翼伍長サマ。

 昼間は徴収の邪魔、今度は俺たちの“楽しみ”の邪魔か?」


「あなた達の“楽しみ”とは?」


「いいから離れなさい。」


「はぁ?」


 がたん、と椅子がひっくり返る音がした。


 酔った兵士が立ち上がり、ぐいっとリヴィアの胸ぐらを掴む。


「伍長がそんなに偉いのかよ。ここじゃ階級より数が物を言うんだよ」


「そう。じゃあ数ごと黙らせるだけね」


「はぁ……?」


 次の瞬間、兵士の身体が逆さに浮いた。


 リヴィアの指先が軽く彼の手首を押しただけで、

 重い体躯がぐるりと回転し、テーブルの上に叩きつけられる。


 皿と酒瓶が飛び散り、歓声とも悲鳴ともつかぬ声が上がった。


「なんだとテメェ!」


「やっちまえ!」


 周囲の兵たちが一斉に立ち上がる。


 十人、いやもっと。

 食堂にいたほとんどの兵士が、黒翼の伍長に向けて拳を構えた。


 空気が一瞬、ざわりと揺れる。


「待――」


 カウンター席に座っていた中年の女性隊員が止めようとするが、遅い。


 一人が殴りかかり、リヴィアの頬を狙った。


 だが彼女は、半歩だけ身体をずらし、その腕を取る。


 ごきっ。


「ぎゃっ――!」


 床に転がる悲鳴。


 別の兵が背後から抱きついて押さえ込もうとするが、

 リヴィアは体重を預けるようにして肩を落とし、そのまま相手を前方に投げ飛ばす。


 三人目の蹴りを膝で受け流し、

 四人目の突進を椅子ごと引っかけて転ばせる。


 一人、また一人。

 兵士たちが床に沈んでいく。


 闇の魔力は最小限だ。

 ほとんどが体術と、魔力による微妙なバランス操作だけ。


「バ、バカな……!」


「黒翼ってのは化け物かよ……!」


「まだやる?」


 リヴィアは静かに問いかける。


 返ってくるのは、呻き声ばかり。


 食堂の中央――まだ酒瓶を握ったまま座っていたバレッサ大尉が、唖然とした顔で立ち上がった。


「おい、お前……何やって……!」


「兵の規律を正しているだけです、大尉殿」


 目だけでバレッサを見やる。


 その視線には、冷たい闇が宿っていた。


 バレッサは何かを言いかけて、ぐっと喉を詰まらせる。


「……チッ。もう勝手にしろ」


 捨て台詞のように吐き捨てると、酒瓶を持ったまま食堂を出て行った。


 やがて、床に転がる兵士たちの間に、静寂が降りる。


「……だ、大丈夫ですか?」


 リヴィアは眼鏡の女性に手を差し伸べた。


 女性はまだ震えていたが、両手でその手を掴む。


「は、はい……。その……助けていただいて、あり、ありがとうございます……」


「気にしないで。あなたは被害者だから」


 リヴィアはいつもの柔らかな笑みを浮かべた。


 その笑顔を見て、女性の肩から少しだけ力が抜ける。


 中年隊員――唯一の女性兵士らしき人物――は、口をぽかんと開けてリヴィアを見ていた。


「……あんた、ほんっとに伍長なの?」


「ええ」


「大隊長くらいって言われた方がまだ納得できるけどね……」


 半ば呆れ、半ば感心したように肩をすくめる。


 食堂には、リヴィアと眼鏡の事務員と、その中年女性隊員以外、動ける者はいなかった。




 翌朝。


 リヴィアが食堂に入ると、兵士たちは一斉に背筋を伸ばした。

 いや、伸ばしたというより――距離を取った。


「……おい、来たぞ」


「目合わせんな、昨日のアレ見ただろ」


「黒翼って、やっぱ化け物だ」


 ひそひそ声がまた飛び交うが、昨夜とは明らかに“質”が違う。


 軽蔑ではなく、恐怖だ。


 リヴィアは構わずトレイを取り、静かに朝食をよそった。


 向かいの席には誰も座らない。


(……まぁ、楽と言えば楽だけど)


 パンを囓りながら、内心苦笑する。


 シキナ駐屯地でのスタートは、最悪とは言わないまでも、だいぶ“個性的”になってしまった。


(この先、ちゃんと任務こなせるのかしら……)


 不安が胸をよぎる。


 だからこそ、彼女はその日、再び街へ出ることにした。


 閉塞した駐屯地の空気に浸かっていると、

 本当に自分まで腐りそうだったから。



 港町の路地を歩くと、朝市が開かれていた。


 乾いた魚を吊るす屋台、湯気を立てる味噌汁の鍋、

 そして小さな木の箱に色とりどりの菓子が並ぶ店。


 リヴィアは、ふと足を止めた。


「これは?」


「お、異国のお嬢さん、見る目がいいねぇ。これは“和菓子”ってんだ」


 店主の老人が、にこにこと笑いながら答える。


 丸い餅に、きな粉や黒蜜がかかっているもの。

 花の形をした鮮やかな羊羹。

 小さな団子が串に刺さり、甘辛いタレに浸っている。


「甘いの?」


「甘いとも。海で塩ばかり舐めてると、こういうのが恋しくなるのさ」


「ひとつ、ください」


「どれにする?」


 リヴィアは少し迷ってから、山吹色の餅菓子を指差した。


 一口かじる。


「……おいしい」


 舌の上で、柔らかな甘さが溶ける。

 闇魔法の冷たい感触とは正反対の、温かな味。


 店主は嬉しそうに笑った。


「だろう? また来なさい。

 今度は季節の菓子も出しておくからな」


 リヴィアは小さく会釈した。


 さらに歩くと、広場で何やら人だかりができていた。


 舞台が組まれ、その上で白い着物をまとった舞姫たちが、

 扇を手に静かに舞っている。


 笛と太鼓の音。

 しなやかな腕の線。

 足の運びはまるで風のように滑らかで、

 その動きひとつひとつが“型”として刻まれているようだった。


(……綺麗)


 リヴィアは足を止め、しばらく見入った。


 魔法も、武器も使わない。

 ただ人の身体と、音と、呼吸だけで世界を描いていく。


 魔力の流れとは違う“何か”が、舞台の上に確かに存在していた。


(シキナって……こういう国なんだ)


 帝国では味わえなかった、静かな時間。

 魔法と戦争以外の世界。


 胸のどこかで、小さく何かが芽吹く音がした気がした。




 それから数週間。


 リヴィアは任務の合間を縫って街へ出ることが増えた。


 駐屯地の書類仕事をしている眼鏡の事務員――

 あの夜助けた彼女の名前は、「ミユリ・ハセガワ」といった。


 シキナ出身で、帝国との協定の一環として駐屯地に雇われているらしい。


「リヴィア伍長、今日はまた街へ?」


「ええ。ミユリも一緒に行かない?」


「えっ、私も……いいんですか?」


「この前のお礼、まだちゃんと言われてない気がするし」


 そんなやりとりを経て、二人はすぐに打ち解けた。


 休暇の日には、和菓子屋に一緒に行き、

 ミユリおすすめの店を教えてもらう。


「ここの“桜餅”が絶品なんですよ」


「この前のよりもおいしいの?」


「別の方向においしいです!」


「……別の方向?」


 またある日は、舞踊の舞台を一緒に見に行く。


「シキナの舞は、昔は“祈り”だったんです」

 舞台を見ながら、ミユリが小さな声で説明してくれる。

「戦の前に神様に捧げたり、豊漁を願ったり……。

 今は娯楽の方が強いですけど」


「魔法じゃなくて、こういう形で祈るんだ」


「はい。……変、ですか?」


「いいえ。素敵だと思う」


 リヴィアはそう言って、舞台から目を離さなかった。


 帝国の軍靴の音と爆撃の轟音ばかりを聞いてきた耳に、

 笛の音は優しく沁みた。


 駐屯地へ戻ると、兵士たちは相変わらずリヴィアを避ける。

 しかしその一方で、街では彼女を見ると声をかけてくれる島民も増えていった。


「この前はうちの孫を助けてくれて……」


「黒翼さん、また来てくれたのかい」


「帝国の兵なのに、あんたは安心できる」


 帝国兵としては異例の扱いだ。


 リヴィアは苦笑しつつも、その言葉を重く受け止めた。


(……私はどこにいても、“黒翼のリヴィア”なんだ)


 それが少しだけ誇らしく、少しだけ切なかった。




 その日も、空は高かった。


 午前の巡回を終え、リヴィアが駐屯地に戻ろうとした時――

 中庭に怒号が響いた。


「外縁部で帝国兵一名、斬殺されたとの連絡!」


「偵察班だ、急行班を編成しろ!」


 兵が慌ただしく武装して駆けていく。


 ミユリが顔色を失って駆け寄ってきた。


「リヴィア伍長……!」


「詳しい場所は?」


「北の丘陵地帯です。村と村の間を見回っていた兵が……」


「分かった。私も行く」


 制止の声が聞こえた気もするが、無視した。


 数名の兵と共に駐屯地を飛び出し、北へ向かう。


 丘陵地帯は、背の低い草と点在する木々に覆われていた。

 風が強く、血の匂いをあっという間に散らしてしまう。


 だが――現場はすぐに分かった。


 地面に、帝国の軍服を着た兵が倒れている。

 胸元から斜めに深い一刀。

 血はすでに黒く固まりかけていた。


「……ひどい」


 その少し離れた場所で、刀を押さえつけられて地面に膝をついている男がいた。


 複数の帝国兵に取り押さえられている。


「こいつが犯人です!」


「斬りつけたところを目撃されています!」


 男の顔を見た瞬間、リヴィアは目を見開いた。


「あなた……」


 あの時、街角で刀を抜いてきたシキナの侍。

 異国の帝国兵に牙を剥いた青年――。


 彼は血走った目でリヴィアを睨みつけた。


「帝国の犬……今度は何を守るつもりだ……」


「どうしてこんなことを」


「問われる筋合いはない!」


 帝国兵が男の頭を押さえつける。


「帝国兵殺害の現行犯だ。基地に連行して、軍法会議にかける」


「当然だな」


 周囲の兵が頷く。


 そこへ――

 新たな影がいくつも現れた。


 藍色の羽織をまとい、腰に刀を差したシキナの兵士たち。

 さらに、その奥からは金糸の紋をあしらった装束を纏った治安隊の隊長らしき人物が現れる。


「そこまでだ、帝国兵」


 低い声が空気を断ち切った。


「この男はシキナの民。

 シキナの法に従って裁かれるべきだ」


「何を……!」


 帝国兵の一人が反発する。


「帝国兵を殺害したのだぞ! 帝国軍が引き取り――」


「ここはシキナの領土だ」


 治安隊長は一歩前に出た。


 鋭い眼光。

 刀に添えられた手。

 背後には十名以上の兵。


 一方、帝国側はリヴィアを含めて五、六名。


 力の差は歴然としている。


「我々はこの事件を重く受け止める。

 帝国との条約に則り、正式な場で謝罪と説明の機会を設けよう」


 隊長の声は落ち着いているが、決して譲歩ではない。


「だが、現場での身柄の引き渡しは認められない。

 この男の拘束はシキナ側が行う」


 リヴィアは唇を噛んだ。


(ここで無理に拘束すれば……小さな事件が、一気に戦争の火種になる)


 殺された兵士の顔が、地面の上で静かに眠っている。


 守りたかった命。

 守れなかった現実。


 帝国兵の一人が怒鳴ろうと一歩前に出たのを、リヴィアが腕で制した。


「……交渉の場を設けると言っているのなら、今はそれを信じるしかありません」


「しかし伍長……!」


「ここで刃を抜けば、死ぬのはこの男だけじゃ済まない」


 言いながら、自分自身にも言い聞かせる。


 治安隊長がわずかに目を細めた。


「話の分かる兵もいるようだ」


 彼は合図をし、シキナ兵たちが侍の男を引き立てる。


 男は最後まで帝国兵を睨みつけていたが、

 リヴィアと視線が交わったとき、一瞬だけ何かが揺れた。


(……)


 だが、そのまま連れて行かれてしまう。


 残されたのは、血だまりと、倒れた帝国兵だけだった。



 駐屯地に戻ると、空気はさらに重くなっていた。


 報告書は即座に帝都へ送られ、

 バレッサ大尉はめずらしく酒を机に置いていた。


「クソッたれが……!」


 机を叩き、怒鳴る。


「シキナの連中め……帝国兵を殺しておいて、よくもぬけぬけと……!」


「ですが、現場で無理に奪い返していれば、武力衝突になっていました」


 リヴィアが静かに言うと、バレッサは睨みつけてきた。


「黙ってろ、黒翼」


「……」


「本国に申報は送った。

 数日のうちに返答が来るだろう。

 それまで俺たちは“我慢”だ」


 悔しさに歯噛みしながらも、彼は現実的な判断をしている。


 夜。


 ミユリが書類を抱えてリヴィアの部屋を訪ねてきた。


「……さっきの件、帝都へ正式に上がりました」


「ありがとう」


「それと――シキナ政府からも連絡がありました。

 数日後、重役が駐屯地を訪れて、今回の件について協議したいと」


「重役……?」


「たぶん、軍か治安部の上の方の人です。

 駐屯地の長と、直接話をするそうで」


 ミユリは落ち着かない様子で眼鏡を直した。


「リヴィア伍長も、同席を求められています」


「……どうして私?」


「現場にいたから、という理由もあるでしょうけど……

 帝国軍本部からの指示です。」


 リヴィアは小さく息を呑んだ。


 セイクリッドルートを探すために来たはずの島で、

 思わぬ形で“政治の場”に引きずり出されようとしている。


「……分かった。出るわ」


 引き受けるしかない。


 窓の外には、シキナの山並みが黒く沈んでいた。

 その奥――霧に包まれた稜線のどこかに、“斬の理”がいるのだろうか。


(ムラサメ……)


 まだ姿も知らないその名を、胸の内でそっと呼ぶ。


 帝国とシキナの関係は、今まさに揺れ始めている。

 この小さな殺人事件が、

 やがて世界を巻き込む大戦と、そして“創世”へと繋がる最初の一太刀になることを――


 この時のリヴィアは、まだ知る由もなかった。

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