第3話:アルゴリズムに恋は載らない
翌朝、ホテルのロビーは、硝煙のない戦場だった。
僕と美咲は、数メートルの距離を置いて互いを見つめ合ったまま、完全に膠着していた。原因は、昨夜送られてきたマニュアルの第一項目。
【ステップ1:まず、お互いをファーストネームで呼び合うことから始めましょう】
「……」
「……」
喉まで出かかっている音を、口に出せない。たった三文字か四文字の、単純な記号の羅列。それを音声化するだけの簡単なタスクのはずなのに、脳が頑なに実行を拒否する。
「……た、高橋」
結局、僕が先に根負けした。いつもと同じ、無機質な響きで。
「……なに」
美咲も、いつもと同じ、棘のある声で返す。
「いや、その……今日のシミュレーションだが」
「……」
「我々は、恋人同士という設定で行動する必要がある。だとしたら、まず、呼称の変更は必須のパラメータだ」
「……あんたが言いなさいよ、先に」
「は?」
「あんたがっ、先にっ、呼びなさいって言ってるの! これは業務命令なんでしょ!? なら、命令された側が従うのが筋じゃない!」
美咲は、やけくそになったように叫んだ。その理屈は、データ的に完全に破綻している。だが、僕はなぜか、それに逆らえなかった。
深呼吸を一つ。心拍数が、また跳ね上がる。
「……わかった」
口を開く。掠れた声で、
「……ミサキ」
自分の声なのに、まるで他人のもののように聞こえる。言った瞬間、美咲の肩がピクリと跳ねた。彼女は顔を俯かせ、長い髪でその表情を隠してしまっている。
「……次は、君の番だ」
僕が言うと、彼女はしばらく黙り込んだ後、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……よ、ようた」
その声を聞いた瞬間、僕の心臓は、昨日のキスを上回る、観測史上最大値を記録した。ダメだ。この実験、始まる前から、致命的なバグを抱えている。
◆
僕たちが向かったのは、アプリが指定した最初のミッション地点。街の小高い丘にある、洒落たオープンカフェだった。
席に着くと、早速スマホのアプリが次の指示を映し出す。
【ステップ2:恋人らしく、一つのデザートをシェアしてください。その際の会話と心拍数の変化を記録します】
「……正気か、このアプリは」僕は思わず呟いた。
「……文句言っても始まらないでしょ」美咲はそう言うと、店員を呼び、「天使のふわふわパンケーキ~💞型(カップル専用)」なるものを注文した。
やがて運ばれてきたのは、皿の上にそびえ立つ、生クリームとフルーツの巨塔。見るからに、一人で食べる代物ではない。
「……じゃあ、データ収集、開始」美咲はフォークを手に取ると、業務用スマイルを顔に貼り付けた。
「あーん、よ・う・た♡」
「ぶっ!?」僕は思わず、飲んでいた水を噴き出しそうになった。「なっ、な、な、何をする!?」
「何って、恋人らしい行動でしょ? それとも何? あんたがやる?」
「やるわけないだろ!」
「じゃあ、さっさと口開けなさいよ。これも、データのためでしょ?」
美咲は、悪魔のような笑みで、パンケーキを僕の口元に突きつけてくる。僕は抵抗を諦め、観念してそれを口に含んだ。甘い。甘すぎる。僕の味覚データが、許容できる糖度の閾値を、遥かに超えている。
「……どう? おいしい?」
「……ああ。糖分過多で、血糖値スパイクが懸念される味だ」
「あんたねえ……そういうとこよ!」
美咲は呆れたように叫ぶと、今度は自分の口にクリームを運んだ。その唇の端に、白いクリームがちょこんと付いている。
無意識だった。僕は、ほとんど反射的に、ポケットからハンカチを取り出し、そのクリームを拭いていた。
「……え」美咲の動きが、止まる。僕も、止まる。ハンカチ越しの、彼女の唇の柔らかい感触。驚きに見開かれた、大きな瞳。
「……悪い」僕は慌てて手を引っ込めた。「いや……その、データにノイズが入るといけないからな。付着物は、除去しないと……」
我ながら、意味不明な言い訳だ。
「……うん」美咲は、それ以上何も言わず、ただ、俯いてパンケーキを突き始めた。その耳が、さっきよりも、もっと赤く染まっていることに、僕は気づかないフリをした。
(このアプリのせいで、陽太のせいで、本物のデートみたいに感じちゃう……バカみたい)
美咲は心の中で悪態をつきながら、自分の心拍数が危険な領域に達しているのを、誰にも気づかれぬよう祈っていた。
◆
「次のミッションは……手をつないで、公園を散歩、か」
カフェを出た僕たちは、近くの公園に来ていた。アプリの指示は、さらにエスカレートしている。
「……ほら」美咲が、ぶっきらぼうに右手を差し出してきた。「業務命令」
「……ああ」
僕はおそるおそる、その手に自分の手を重ねた。思ったより、小さくて、華奢な手。ひんやりとしているが、すぐに僕の体温が伝わっていくのが分かった。
ぎこちなく歩き始める。スマートウォッチは、僕の皮膚電気反応が異常値を示していると警告してきた。うるさい。
しばらく無言で歩いていると、前方から来た子供が、僕たちの足元で派手に転んだ。
「わーん!」
泣き出した子供に、僕と美咲は、ほとんど同時に駆け寄った。
「大丈夫?」
「大丈夫か?」
声が、重なる。
僕が子供の膝の土を払い、美咲が「痛いの痛いの、飛んでいけー」とあやす。その連携は、まるで長年連れ添った夫婦のように、自然だった。
子供が泣き止み、母親の元へ走っていく。
その姿を見送って、僕たちは、顔を見合わせた。そして。
「「ふふっ」」
同時に、笑いがこぼれた。
同じタイミングで、同じ感情を共有する。それは、どんな相関分析よりも、確かな繋がりを示しているように思えた。
不意に、過去の記憶がフラッシュバックする。
『陽太は、私の気持ち、データでしか見れないの?』
そう言って泣いていた、元恋人の顔。そうだ、僕はあの時、彼女の涙の意味を、分析することしかできなかった。
体温センサーが、あの日の涙の温度をまだ覚えている。塩分濃度0.9%。今、同じ味が、風で伝わってきた気がした。
その感情の源泉を、理解しようとしなかった。だから――。
「……ようた?」
美咲が、僕の顔を覗き込んでくる。繋いだままの手に、きゅっと力が入った。
「……なんでもない」
僕は首を振った。今は、この温かい感触だけを、信じていたかった。
◆
陽が傾き始めた頃、僕たちは最後のミッション地点である、展望台に来ていた。眼下には、きらめき始めた街の灯り。ロマンチック、という言葉以外、当てはまらない。
そんな中、アプリが最終指示を通知した。
【最終ステップ:今日のデートの感想を伝え合い、AIによる関係性の変化を確認してください】
「……感想、か」僕が呟くと、隣の美咲が、不意に笑った。
「ふふっ」
「……なんだ」
「いや……バカみたいだなって」美咲は、手すりに寄りかかりながら、街の夜景を見つめている。「データだの、シミュレーションだの、理屈こねて。結局、やってること、ただのデートじゃない」
「……」
「楽しかったわよ。あんたは、ムカつくくらいデータのことしか言わなかったけど」
「……君こそ、無理に恋人のフリなんてするからだ」
「……無理、してたんじゃないかもよ」
「え?」
美咲が、小さな声で呟いた。
「……もし、本当に、これがデートだったら、とか。……少しだけ、思った」
その言葉は、夜景のノイズに紛れて、消えてしまいそうなほど、か細かった。けれど、僕の耳は、確かにそれを捉えていた。
その瞬間、僕のスマートウォッチが、ピコン、と軽い音を立てた。画面には、AIからの分析結果。
【関係性分析:『恋人』への遷移確率、51%(予測不能領域・誤差±29%)。エラーの可能性があります】
エラー。AIは、この感情の高ぶりを、エラーだと断じた。だが、本当にそうだろうか。
目の前で、照れくさそうに夜景から目を逸らす、美咲の横顔。僕の胸を締め付ける、この温かくて、少しだけ苦しい感覚。
これこそが、人間だけが持つ、最も重要なデータなのではないか。アルゴリズムには、まだ、この感情は載せられない。
「……なあ」僕は、気づけば口を開いていた。
「……ミサキ」
「……なに」
「エラーじゃ、ないかもしれない」
僕の言葉に、美咲がゆっくりとこちらを振り向く。その瞳が、驚きに揺れるのを、僕はただ、見つめていた。
その時、僕のスマホが静かに震えた。業務チャットの通知だ。
【人事部より通達:明日、新しいマネージャーが着任します。】
「……明日、新しいマネージャーが来るらしい」
僕がそう呟くと、美咲が「えっ」と小さな声を上げた。
「……どうした?」
「う、ううん……なんでもない」
なぜか、歯切れの悪い返事。
僕の胸に、また一つ、解析不能なデータが書き込まれた。
(第三話 終)
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