第4話:同期が恋敵

「エラーじゃないかもしれない」


 あの展望台で僕が放った言葉は、夜の闇に溶けて、返事はなかった。ただ、美咲の揺れる瞳が、僕の言葉の意味を何度も反芻しているようだった。


 翌朝。出張最終日の気まずさは、昨日とはまた違う種類のものに変わっていた。会社に戻るための新幹線。隣に座る美咲を、僕はどうしても意識してしまう。彼女も同じようで、窓の外を眺めるフリをしながら、時折、僕のスマートウォッチに視線を送っている。あの「遷移確率48%上昇」の表示を、彼女も見ていたのだ。


 東京駅に着き、オフィスに戻る。自分のデスクに向かう途中、給湯室から聞こえてくる同僚たちの囁き声に、僕の足が止まった。


「ねえ、聞いた? 新しいマネージャー、佐久間さんて言うんだって」

「美咲さんの大学の先輩らしいよ。さっき、すごく親しげに話してた」

「えー、お似合いじゃん! 美咲さん、相葉さんと組んでからずっとピリピリしてたし、ちょうどいいんじゃない?」


 ――ピリピリしてた。


 その言葉が、小さな棘のように胸に刺さる。僕と組むことは、彼女にとってストレスでしかなかったのか。あの「デート」も、結局は業務命令で……。


 思考がネガティブなループに陥りかけた時、背後でエレベーターの到着音が鳴った。乗り込むと、偶然にも美咲と二人きりになった。


「……あの」

「……あのさ」


 また、声が重なる。僕たちが顔を見合わせて、気まずく笑う。昨日、公園で笑い合った時のシンクロとは、まるで違う。


「……昨日の、ことだけど」美咲が、意を決したように口を開いた。「やっぱり、あれは……」


 チン、と軽い音を立てて、エレベーターのドアが開く。そこに立っていたのは、長身で、モデルのような男だった。爽やかな笑顔を浮かべている。


「あれ? 美咲?」男は、美咲の名前を呼んだ。

「……さ、佐久間、先輩!?」美咲が、素っ頓狂な声を上げる。

「やっぱり! 久しぶり! 元気だった?」


 佐久間、と呼ばれた男は、親しげに美咲に近づくと、ごく自然な動作で彼女の肩を抱き寄せようと……寸前で、その手を差し出した。その視線が、一瞬だけ僕を捉えた気がした。


「ここで会うなんて奇遇だな。俺、今日からここのプロジェクトマネージャーになったんだ。よろしくな」

「え、ええ!? こちらこそ、よろしくお願いします……!」


 握手を交わす二人。僕はその光景を、ただ、呆然と見つめていた。こいつが、佐久間悟。新任のマネージャー。そして、美咲の、大学の先輩。


 僕の脳内で、アラートが鳴り響く。未知の変数、出現。関係性の再計算、必須。


「そちらは?」佐久間が、僕に気づいて笑顔を向けた。その笑顔には、一点の曇りもない。だが、なぜだろう。僕の危機察知アルゴリズムが、最大レベルの警告を発している。


「……相葉です。データアナリストを」

「ああ、君が噂の! 話は聞いてるよ。君の分析は神がかってるってな」佐久間は、僕の手を力強く握った。その裏で、彼は美咲にしか聞こえないような声で、こう囁いた。「でも、恋愛だけは、データ通りにいかないもんだぜ?」


 ◆


 昼休み。社員食堂は、佐久間の話題で持ちきりだった。僕は一人、食堂の隅でコーヒーを飲んでいた。その視線の先には、楽しそうに談笑する、佐久間と美咲の姿。佐久間が何か面白いことを言ったのか、美咲が腹を抱えて笑っている。僕が一度も見たことのない、無防備な笑顔。


 その瞬間。ガシャン!


 僕の手が滑り、コーヒーカップが床に落ちて砕け散った。


「うわっ!」熱い液体が、僕のズボンにかかる。だが、そんなことよりも、食堂中の視線が僕に突き刺さる方が、よっぽど熱かった。


「大丈夫か、相葉くん」佐久間が、ハンカチを片手に駆け寄ってくる。その完璧な対応。完璧な優しさ。それが、僕をさらに惨めにさせた。


「……大丈夫、です」


 僕は立ち上がり、佐久間と、その向こうで心配そうにこちらを見ている美咲から、逃げるようにその場を去った。

(佐久間の余裕は懐かしいけど、陽太の慌てぶりが、なぜか新鮮で、目が離せない……)美咲は、陽太が去った方向を、無意識に目で追っていた。


 トイレでズボンを洗いながら、自分に問いかける。

(なんなんだ、一体……)

 あいつだけには、負けたくない。なぜ、そう思う?


 鏡に映る情けない自分。そこに、過去の記憶が重なった。

『ごめん、陽太。私、好きな人ができたの』

 元カノの言葉。僕は、その理由をデータで分析しようとした。僕に足りない要素、相手の男が持つパラメータ……。

『そういうとこ! もう、うんざりなの!』

 データで忘れたはずの記憶。なのに、なぜ今、こんなにも鮮明に?


(嫉妬確率、予測不能。心拍、異常値。思考、ノイズだらけ)

 恋の閾値、なんて分析している場合じゃない。僕自身の感情が、今まさに、制御不能のバグを起こしているのだから。


 ◆


 その日の夕方。僕は、佐久間にマネージャー室へ呼び出された。


「コーヒー、大丈夫だったか?」

「……はい。すみませんでした」

「いや、いいんだ。それより、例のシミュレーションデータ、見たよ。面白い結果が出てるじゃないか」


 佐久間は、タブレットを僕に見せた。そこには、僕と美咲の心拍数のグラフが、くっきりと表示されている。特に、パンケーキのシーンと、展望台のシーンで、二人のグラフが異常なほどシンクロしていた。


「相性最悪だって聞いてたけど、データは正直だな。特にこの部分、君の心拍数が跳ね上がってる。美咲が『後悔してる?』って聞いた時か?」

「……」

「美咲は昔からそうなんだ。感情がすぐ顔に出る。分かりやすいけど、それだけ傷つきやすい。大学の時も、プレゼンの準備で一人で抱え込んで、泣いてたことがあってな」


 佐久間の口から語られる、僕の知らない美咲。その一つ一つが、僕の優位性を、データ的に、そして感情的に、崩していく。


「恋愛って、確率よりタイミングですよ、相葉くん。どんなに相性が良くても、タイミングが合わなきゃ意味がない。逆もまた然り、だ」

「……俺は、データで勝負します」気づけば、僕はそう言い返していた。

「ほう?」

「タイミングなんていう曖昧な変数より、蓄積されたデータの方が、よほど信頼できる」


「……面白いな、君は」佐久間は、僕の目をじっと見つめた。その笑顔の奥に、初めて、冷たい光が宿った気がした。「じゃあ、勝負といくか。俺と君、どっちが先に、美咲の心を掴むか」

「……!」

「もちろん、冗談だよ」佐久間はそう言って笑ったが、その目は、全く笑っていなかった。


 部屋を出て、自分の席に戻る。隣の席では、美咲がまだ残業をしている。その横顔は、どこか疲れているように見えた。


「……高橋」

「……なに」

「……余裕、なさすぎだよな、僕」

「え?」美咲が、意外そうな顔でこちらを見る。

「あんた、CPUが過熱してフリーズしてるみたいな顔してるわよ」彼女は、ふっと笑ってそう言った。その声には、不思議な優しさが含まれていた。


(モテるやつって、なんでいつも余裕なんだ)

 佐久間の顔が、脳裏に浮かぶ。僕に足りないもの。それは、圧倒的な自信と、経験値。データでは、決して埋めることのできない、何か。


 デスクの上のスマホが、震える。チームのグループチャットだ。美咲から、全員宛てのメッセージ。

【今週末の佐久間さん歓迎会ですが、お店予約できました!皆さん参加でお願いします!】

 そのメッセージに、佐久間がすかさず、親指を立てたスタンプで返信していた。


 歓迎会。つまり、飲み会。僕の胸騒ぎが、また一つ、確かなデータとして記録された。


 ◆


 深夜。一人暮らしのアパートに戻った僕は、ベッドに倒れ込むこともせず、デスクの前に座っていた。


 モニターの青白い光が、暗い部屋を照らし出す。画面には、過去半年分の、美咲とのやり取りデータが表示されていた。


 心拍数の変化。会話の頻度。視線の交差回数。笑顔の持続時間。


 全てを、僕は記録していた。データアナリストの職業病、と言えば聞こえはいいが、本当は違う。ただ、彼女のことを、忘れたくなかっただけだ。


 グラフを眺める。出張先での心拍数のピーク。あのキスの瞬間。パンケーキを分け合った時。展望台で「エラーじゃないかもしれない」と言った時。


 全てのデータが、一つの結論を示している。


 ――好きだ。


 だが、今日のデータは、その結論を揺るがせていた。


 美咲と佐久間の会話時間:47分。

 美咲の笑顔の回数:僕といる時の3.2倍。

 佐久間の優位性:圧倒的。


(勝ち負けなんて、どうでもいい)


 そう思おうとした。だが、嘘だ。


(ただ、あの笑顔に、俺がいたかった)


 理屈の外側で、何かが崩れていく音がする。データで構築してきた、僕の世界が、音を立てて瓦解していく。


 スマホを手に取る。LINEのトーク画面を開く。美咲との最後のやり取りは、出張から帰る新幹線の中。


【美咲:今日はお疲れ様でした】

【陽太:こちらこそ】


 それきり、途絶えている。


 指が、文字を打ち始める。


『今日、佐久間先輩と楽しそうだったね』


 消す。


『歓迎会、行くの?』


 消す。


『あの展望台での言葉、覚えてる?』


 消す。


 結局、何も送れない。送るべき言葉が、見つからない。


 その時、画面の上部に、小さな通知が現れた。


 ――美咲が入力中…


 心臓が、跳ねる。


 三点リーダーが、点滅している。彼女が、今、何かを打っている。僕に、何かを伝えようとしている。


 10秒。20秒。30秒。


 点滅が、続く。


(何を、打ってるんだ)


 僕は、息を止めて、画面を見つめていた。


 そして、1分が過ぎた頃。


 ――入力中の表示が、消えた。


 通知は来ない。メッセージは、送信されなかった。


 静寂だけが、部屋に戻ってくる。


 僕は、スマホを握りしめたまま、ただ、その画面を見つめ続けた。


 ◆


 同じ頃。


 美咲も、自分の部屋で、スマホを握りしめていた。


 画面には、陽太とのトーク画面。そして、打っては消した、無数の言葉の残骸。


『陽太、大丈夫?』

『今日のコーヒー、心配してた』

『佐久間先輩のこと、気にしてる?』

『あのね、私は……』


 どれも、送れなかった。


 送ったら、何かが変わってしまう気がした。今の、この微妙なバランスが、崩れてしまう気がした。


(でも、陽太の顔、ずっと曇ってた)


 食堂で、コーヒーを落とした時の、あの表情。トイレから戻ってきた時の、濡れた目元。


 佐久間先輩と話している時も、視線の端に、ずっと陽太がいた。


(私、どうしたいんだろう)


 佐久間先輩は、優しい。楽しい。一緒にいて、安心する。


 でも、陽太は、違う。


 一緒にいると、心臓がうるさい。息が乱れる。データがバグる。


(これって、何?)


 美咲は、スマホを胸に抱きしめた。


 画面の向こうに、陽太がいる。同じ夜空の下、同じように、眠れない夜を過ごしているかもしれない。


 そう思うだけで、胸が、苦しくなった。


 ◆


 翌朝。


 オフィスに出勤した僕は、自分のデスクで、昨夜のデータ分析の続きをしていた。


 モニターには、心拍数のグラフが二つ、並んで表示されている。


 僕のグラフと、美咲のグラフ。


 出張先で記録された、二人の生体データ。


 そのグラフが、ある瞬間、完全にシンクロしていることに、僕は気づいた。


 展望台で、「エラーじゃないかもしれない」と言った、あの瞬間。


 二人の心拍数が、同じリズムで、同じ高さで、鼓動していた。


(これは、何を意味する?)


 データは、嘘をつかない。


 だが、このデータが示す結論を、僕は、まだ受け入れる勇気がなかった。


「おはよう、陽太」


 背後から、美咲の声。振り返ると、彼女が、いつもの笑顔で立っていた。


「……おはよう」


「昨日は、ごめんね。佐久間先輩と話し込んじゃって」


「……いや、別に」


「でも、気になってた。陽太、元気なかったから」


 彼女の目が、僕を見つめている。その瞳に、何かを探すような光が宿っている。


「……大丈夫だ」


 僕は、モニターを閉じた。グラフを、彼女に見られたくなかった。


「そう。なら、いいんだけど」


 美咲は、少し寂しそうに笑うと、自分の席に戻っていった。


 僕は、その背中を見送りながら、昨夜の「入力中…」の表示を思い出していた。


 彼女は、何を打とうとしていたのだろう。


 そして、なぜ、送らなかったのだろう。


 答えは、データの中には、ない。


 ただ、僕の胸の奥で、静かに、何かが鳴り続けていた。


 恋のバグは、まだ修正されていない。


 深夜のモニターに映る、二つの心拍グラフ。


 同じリズムで鼓動する、二つの心臓。


 それが、僕たちの、今の距離を、何よりも正確に示していた。


(第四話 終)

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