第十章 第三話 旅立ちの日

 出発の朝。

 夜の名残りが窓の外に淡く漂い、

 家の中は、息を潜めたように静まり返っていた。


 テーブルの上には、パンフレットと資料が広げられ、

 高橋貴子はペンのキャップを軽く噛みながら、確認するようにページをめくっている。

 眉間のしわは深いが、その奥にはどこか期待の色があった。


 書斎では、高橋誠一が何度目かのパスポートとチケット確認を繰り返していた。

 荷物は整えてあるのに、何度も鞄を開けて確かめている。

 その姿は、初めて遠足に行く子どものようだった。


 リビングの隅、惠美は小さなバックパックを抱え、

 そこに一冊のノートを丁寧に滑り込ませた。

 指先が一瞬、表紙の上で止まる。

 “決意”という文字を、心にそっと刻むように。


「準備はいい?」

 母の声は、静かで、それでいてどこか張り詰めていた。


「たぶん……大丈夫。」

 誠一が眼鏡を押し上げる。声に微かな緊張が混ざる。


「私も、できました。」

 惠美は小さくうなずき、心の中で呟いた。

(――これはただの旅じゃない。見届けるための道のりだ。)


 成田空港。

 朝の光がガラス張りの天井を透かし、

 人の流れが絶え間なく交差していた。


 車寄せにはスーツケースを抱えた人々。

 案内アナウンスと電子音が重なり、

 無数の“出発”が交わって、ひとつの旋律を奏でていた。

 

 惠美は、初めて体験する空港の喧騒に目を奪われていた。

 知らない言葉が飛び交い、無数の靴音がタイルを叩く。

 ――それなのに、どこか整っていて、美しい秩序があった。


 スマートフォンが震えた。

 画面には「彩音」の名前。


『写真いっぱい撮ってね!』


『座り方気をつけ!スカート注意!』


 惠美は思わず吹き出し、すぐ返信を打つ。


『わかってるって。ちゃんと気をつけるから。』


 指先が画面を離れたあと、

 胸の奥にほんのりとした温かさが広がった。


 搭乗ゲート。

 長い列の先、ガラスの向こうには滑走路が伸びている。

 遠くで旅客機のエンジンが低く唸り、

 金属の翼が朝の光を受けて、ゆっくりと輝きを放つ。


 誠一はポケットを何度も確かめ、

 貴子は書類を抱えたまま微笑を浮かべる――

 どこか“仕事”の顔が抜けないその姿が、

 惠美には少しだけ誇らしく見えた。


 やがて搭乗のアナウンス。

 三人は列に並び、ゆっくりと機内へと歩みを進める。


 シートベルトの金属音がカチリと鳴る。

 機内の照明が落ち、エンジンの低い振動が床から伝わってくる。


 惠美は窓際の席で、冷たいガラスに指を添えた。

 指先の向こうに、夜明けの空が広がっている。


(……これが、“旅立ち”の音。)


 ジェットエンジンが高鳴り、

 機体がゆっくりと滑走路を走り出す。

 そして――


 ふっと、地面が遠ざかった。


 一瞬、重力が消える。

 体が浮き、心がわずかに震えた。

 惠美は無意識に、肘掛けを握りしめていた。


 窓の外。

 東京の街並みが、灯の粒となって流れていく。

 ビルも道路も、人の営みも――

 まるで夜空に散る星屑のように、ゆっくりと小さくなっていく。


(……こんな景色を、上から見る日が来るなんて。)


 李守義りしゅぎの声が、胸の奥で静かに響いた。


(かつて我は、大地を踏みしめ、風を斬りて千里を駆けた。

 されど今は、鉄の翼に乗り、雲を越えん。

 これもまた、“時代れきし”の証なり。

 守る者、歩みを止むべからず……。)


 機体が高度へと上昇し、機内に穏やかな光が戻る。

 貴子は資料を閉じ、誠一は窓の外を見つめたまま微笑んでいる。

 惠美は二人の間に座り、胸の奥でそっと息を整えた。


(――これが、私たちの始まり。)


 窓の外には、果てしない雲の海。

 その向こうに、遠い都市の灯がかすかに滲んでいる。


 そこには、

 長城ちょうじょうがあり、

 紫禁城しきんじょうがあり、

 そして――歴史が息づいている。


王朝おうちょう残影ざんえい、時代の呼吸。

 我が目で見届け、我が心に刻もう。

 それが、此世このよに生きる“あかし”となる。)


 惠美は目を閉じ、

 胸の奥でその言葉を反芻はんすうする。


 飛行機は夜空を渡り、

 雲の彼方へ――静かに、確かに、進んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る