第十一章 第一話 万里の長城の上
朝の霧がまだ山を包んでいた。
蛇のようにうねる稜線は、まるで眠れる龍。
その背を覆う城壁の石は、朝日を受けて、一枚ごとに光と影を刻んでいた。
風が石の隙間を抜け、青草と土の匂いを運びながら、登る者たちの息づかいをさらっていった。
「……大丈夫か?」
誠一が足を止め、カメラのシャッターを切る。
レンズの先には、どこまでも連なる城壁と、登る人々の波。
「大丈夫。」
惠美は短く答えた。
手のひらでひんやりとした石に触れると、登る途中で生まれた自分の熱が、古い石の温度とゆっくり溶け合っていくようだった。
階段は急になったり、緩やかになったり。
靴底が石を擦るたびに、かすかな音が響く。
旗が風を受けてはためき、売店の老人が片言の日本語で声をかける。
人々は笑いながら写真を撮り、息を整え、ある者はただ立ち止まって、果てしない山並みに視線を投げていた。
誠一はカメラのストラップを肩に掛け直し、娘を振り返った。
慣れない手つきで「少し休もうか」と手振りをしてみせる。
惠美はうなずいた。
だが写真を撮ろうとはしない。
観光客が集まる“撮影スポット”にも、足を止めない。
ただ、一歩ずつ歩く。
その歩幅は静かで、揺るぎがなかった。
一段登るたびに、胸の奥で記憶が静かに重なっていった。
教室の視線。
鉄缶を打ち抜いた箒の音。
コンビニの前で、父が差し出したおでん。
会議室で広げられた宣紙、そして――八つの文字。
『
(かつて我は
いまは少女の身で、歴史の灰を踏む。)
風が強まり、惠美の髪が頬をかすめる。
彼女はふと立ち止まり、振り返る。
果てなく続く城壁の先、山と雲が重なり、遠くの楼閣がひとつ――
まるで時を留める釘のように、天地の狭間に打ち込まれていた。
「……すごいな。」
誠一がカメラを差し出す。指先には、登ってきた余熱が残っていた。
「ええ、本当に。」
惠美は頷き、ファインダーを覗く。
父の姿がレンズの奥に映る。
古い城壁の上に立つその影は、大きくはない。
けれど、不思議と頼もしく見えた。
シャッターを切り、彼女は笑ってカメラを返した。
「今度は私を撮って。」
誠一はカメラを構え、ファインダー越しに娘を見た。
薄い色の上着を着た少女が、風の中で静かに立っている。
その瞳は遠くを見つめ、どこか大人びた光を宿していた。
彼は二度シャッターを押し、照れくさそうに笑った。
「同じ写真になっちゃったな。」
「一枚目は“記憶”、二枚目は“確認”。」
惠美は真面目な顔で答える。
「同じ瞬間でも、心の在り方で、見える景色は変わるの。」
彼女はそっと石の壁を撫でた。
「石も時が経てば丸くなる。
でもね、かつての硬さがなくなったわけじゃないの。」
誠一はしばらく黙って彼女を見つめ、そして小さく笑った。
――この子の言葉は、時々、ずっと先を生きている。
二人の間を風が抜け、笑い声を連れていった。
急な石段を登りきると、視界がぱっと開けた。
広い見晴らし台。
赤い旗が風を受けてはためき、陽光が霧の隙間から差し込み、
古びた石壁を柔らかな金色に染めていた。
「……写真、もう一枚撮る?」
誠一がカメラを持ち直す。
「ママが来てから。」
惠美はスマホを取り出し、画面を覗く。
“会議、終わりました。あと三十分で着くわ。無理しないでね。”
母のメッセージ。
短い言葉に、仕事の人ではない“母”の声を感じて、
惠美の唇が、そっと緩んだ。
指先で石の隙間をなぞる。
指に土の粉がつく。
彼女はそれを払わず、静かに見つめた。
(王朝は滅び、城は黙す。
昔の
この静けさを羨むべきか、それとも嘆くべきか……)
「……この静けさを手に入れたこと、それ自体が“勝ち”なんだと思う。。」
誠一は彼女の声を聞き取れず、ペットボトルの水を差し出した。
「ほら、水飲みなさい。」
「父さん。」
惠美は水を受け取り、真剣な声で言った。
「父さんの戦後取材、帰ったら読ませて。」
「え?」
「父さんは“歴史を見てきた人”。
だから、それを言葉に残して。私も、“見る”ということを選びたいの。」
言葉を飲み込み、誠一は静かにうなずいた。
喉の奥が熱くなり、うまく声が出せない。
ただ、強く頷いた。
一時間ほど経って、階段の下から声がした。
「――ここよ!」
貴子がスカーフをひるがえしながら駆け上がってきた。
その顔には、久しぶりの笑みがあった。
彼女は二人の前に立ち、息を整える間もなく言った。
「すみません、写真お願いします!」
ぎこちない中国語で通りすがりの旅行客に声をかけ、
三人は並んで立った。
風が吹き抜け、シャッターが切られる。
一枚、そしてもう一枚。
貴子の髪が揺れ、誠一のシャツがはためく。
誰も言葉を発さないまま、ただその瞬間を共有した。
「次は、
風が再び吹く。
髪が揺れ、胸の奥の緊張がほどけていく。
下りの石段に、午後の光が射していた。
古びた石が時の光を返し、
その上を三つの影が、ゆっくりと並んで進んでいく。
惠美は胸に手を当て、静かに息を整えた。
これからの旅は、ただの風景じゃない。
――それは、答えを探す旅。
彼女が“この時代を生きる”ための、確かな
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