だから、わたしは死を懷う


──懷う

  【おも-う】

   * [文]おもふ 【動】 ワ行四段

  * [口]おもう 【動】 ワ行五段

  Ⅰ.義

  1. 〘他動詞〙 心に深く想いを巡らす。

  特定の人物、場所、過去の出来事など、距離や

  隔たりがある事柄について、切実な思いや、懐

  旧の念をもって心に深く留める。

  *  ① なつかしく想いだす。恋い慕う。

  > (例)故郷を懷う。亡き人を懷う。

  *  ② 深く愛惜する。

  > (例)友人の早逝を懷う。

  2. 〘他動詞〙 胸に抱く。

  物理的、あるいは精神



✦ 第一話 「屋上の観測者」


 放課後の終わりを知らせるチャイムは、どうしてあんなにも無関心な音なのだろう。

 宿題の山も、クラスの空気の重たさも、帰り道の寒さも、何も変わらないのに。

 私は教科書をカバンに押し込み、無意識に校舎の階段を上がっていった。

 屋上に行くのは、もう癖になっていた。

 友だちに誘われて行ったことは一度もない。

 ただ、世界の音が遠くなるあの場所に立つと、

 胸につかえているものが、ほんの少しだけ死の重さから解放されるからだ。

 今日も誰もいない──そう思っていた。

 でも、いた。

 フェンスの向こう、夕陽を受けて輪郭だけがくっきり浮かぶような、中年の男。

 コートの色は薄汚れた灰色で、風にゆれる裾が目に残った。

 (……やば。誰?)

 反射的に足が止まった。

 でも逃げるほどの危険は感じない。

 むしろ、男は空のどこか遠い一点を、じっと見つめていた。

 私がいるのに気づいていないのかと思ったとき、

 男はゆっくりと振り返った。

「……すまない。驚かせたかな」

 声は低くて、落ち着いていた。

 怒鳴り声でも、不審者の声でもない。

 けれど、ここに“いる理由”が見えない。

「いえ……別に」

 そう答えながら、私は距離をとった。

 フェンスから三メートル、逃げようと思えばすぐ逃げられる位置。

 男はフェンスに手を添えたまま、私に視線を向けることなく言った。

「夕陽が、今日だけ違うように見えたんだ。

 そんな日は、誰かと一緒に見られたらいいと思ってね」

 意味があるようなないような言葉だった。

 でも、私はなぜか反論できなかった。

 自分がここに来る理由も説明できないのだから。

「君は、ここが好きなんだね」

「……なんでわかるんですか」

「顔に出てるよ。ここに来慣れている人の顔をしている」

 私は思わず顔をそむけた。

 見られていたというより、読まれているようで、気持ち悪かった。

 そのとき、校舎の下から風が吹き上がり、

 フェンスに吊るされた古い標識が、かちゃりと揺れた。

 男は肩をすくめるように小さく笑った。

「悪いことをするつもりはない。

 ただ……君みたいな顔をした人を、これまで何人も見てきたんだ」

「……どういう意味ですか」

「死にたいわけでも、生きたいわけでもない顔だ。

 その中間で、風の流れを探している顔だよ」

 息が止まった。

 言い返す言葉を探そうとしても、胸の奥で何かが音を立てて崩れて、

 呼吸が浅くなるばかりだった。

 男はそれ以上何も言わず、フェンスから離れて出口へ向かった。

 扉が閉まる直前、薄暗い階段に沈みながら、

 彼はもう一度だけ振り向いた。

「また来るよ。君がここにいるなら」

 その瞬間、チャイムが鳴った。

 帰宅を促す、あの軽すぎる音。

 屋上には、私ひとりが残された。

 ……その夜。

 家で制服をハンガーにかけたとき、スマホが震えた。

 知らない番号からのメッセージ。

《君は、今日の“あれ”をどう懷(おも)った?》

 “あれ”?

 屋上でのこと……しか考えられなかった。

でも、番号は知らない。

彼に教えた覚えもない。

指が震えていた。

返事を送る気にはなれない。


ただひとつだけ、確かに言える。


──あの男は、私のことを“見ていた”。

それが、心のどこかで不穏に響いていた。


✦ 第二話 「死苦の男」


 翌朝の教室は、普段よりざわついていた。

 黒板の端に貼られた紙切れが、ひそひそ声の中心にある。

> 《校舎裏で不審者目撃。灰色のコートの中年男性。注意のこと》

>

 胃の奥が、ひゅっと縮んだ。

 灰色のコート──。

(……まさか)

 昨日、屋上にいたあの人。

 佐野透と名乗った、あの人。

 ただの偶然だと、自分に言い聞かせるように席についた瞬間、

 ポケットのスマホが微かに震えた。

 見なくてもわかる。

 また、知らない番号だ。

> 《昨日の夕陽、綺麗だったね。

>   ……君は、ちゃんと懷れた?》

>

 鼓動が耳の奥で跳ねた。

(なんで……なんでわたしの“懷う”なんて知ってるの?)

 返信する気はなくても、

 見られているような感覚に息が詰まる。

 そのとき、後ろの席から声がした。

「おい千景、昨日の帰り道で変なやついなかった?」

「いない。……なんで?」

「いや、不審者の件でさ。女子が狙われるって噂になってる」

 冗談めかした声なのに、

 私には笑う余裕なんてなかった。

◆◆◆

 放課後。

私は、あえて校門の前でゆっくり歩いた。

昨日の男が、またどこかから現れる気がして。

怖いはずなのに、

確かめずにはいられない。


校門を出てすぐの交差点で、見つけてしまった。


灰色のコート。

昨日と同じ男。


彼は交差点の向こうで、白いワンボックスに荷物を載せていた。

車の横には「遺品整理 さの」というシンプルな文字。


(……遺品整理? 葬儀社じゃなくて?)

その瞬間、男がこちらに気づいた。

目が合うと、彼は小さく会釈した。

敵意も、警戒も感じさせない自然な仕草。


私は距離を保ちながら近づいた。


「……昨日、屋上にいましたよね」

「ああ。君も今日は帰るのが早いようだね」

「その……遺品整理って、どういう仕事なんですか」

私が尋ねると、佐野は空を見上げ、一度ゆっくり息を吐いた。


「亡くなった方の生活の痕跡を整理する仕事だよ。

誰かが生きた証を、最後まで見届ける役目だ」

淡々とした言い方だったが、

どこか痛みに似たものが滲んでいた。


「どうして、そんな仕事を?」

「理由は……まあ、人には言いにくいことだよ」

曖昧な笑み。

嘘ではないが、真実を隠すときの表情だ。


「君のほうこそ、どうして屋上なんて来る?」

「……ただ、景色を見たかっただけです」

「そうか。

でも、少し気をつけたほうがいい。

最近、この学校の近くで不審者が目撃されているらしい」

その言葉に、私は思わず眉をひそめた。


「……あなた、ですよね?」

佐野は驚いたようにこちらを見て、それから首を横に振った。


「違うよ。

昨日の夕方は、ずっとここで仕事をしていた。

ほら、作業記録もある」

携帯端末の画面には、

作業現場と作業時間が細かく記録されていた。

確かに、屋上にいた時間とは重なるが、

不審者の目撃情報とは一致しない。


胸の奥で、ひとつの謎とひとつの不安がこすれ合った。


佐野は続けた。


「……君のお母さんの件で、お会いしたことがある。

覚えていないだろうけれど」

息が止まる。


「わたしの……母?」

「遺品を片づけるとき、君はまだ子どもだった。

泣きもしなかった。

あれほど“無表情な子”は珍しかったよ」

胸を刺す言葉だった。


思い出したくない記憶に、

触れられたくないものまで揺れた。


「……勝手に覚えてないことを話さないでください」

「すまない。ただ、君が今も苦しそうだから……」

「わたしのことなんて関係ないでしょう」

強く言い切って、背を向けた。


足音が遠ざかるころ、

背中に佐野の低い声が届いた。


「君を見ているのは、僕じゃない。

“別の誰か”だ」

その言葉が、夜までずっと残った。


◆◆◆

 家に戻り、制服を脱ぎかけたとき、

またスマホが震えた。

知らない番号。

同じ番号。


> 《死を懷うとは、心の置き場所を確かめることだよ。

>  君は、まだどこにも置けていない》

>

吐き気がした。

佐野じゃない。

あの人は違う。


じゃあ──誰?


窓を閉め、部屋の灯りをつけた。

壁に映る自分の影が、揺れて見えた。


私はまだ、死を懷うどころか、

“生きている理由”さえわからないのに。


それなのに、

知らない誰かが、私の心を見透かしている。


その夜の寝つきは最悪だった。

眠るたび、どこかで誰かが私を見ている気がした。


✦ 第三話 「欠けた死と、残された生」


 その週の金曜日、昼休みのチャイムが鳴り終わると同時に、校内がざわつき始めた。

「職員室で盗難だって!」「カウンセラー室の鍵も壊されたらしい」「警察来るのかな」

 風が渦を巻くみたいに噂が広がり、

 教室の空気がどんどん濁っていくのがわかった。

 私は弁当の箸を止めたまま、周囲の声を聞いていた。

「盗まれたの、生徒の手帳とか書類とか……なんかいろいろらしいよ」

「え、それって個人情報じゃん」

「しかも、窓ガラスが割られてたとか」

(……窓ガラス?)

 心臓が、少しだけ速くなった。

 学校に侵入者。書類の盗難。割られた窓。

 そのどれもが、昨日から続いている“不安の影”と重なって見えた。

◆◆◆

 放課後、私は迷った末にカウンセラー室へ向かった。

 中では、担任の八代先生と、もう一人の若い職員が資料を整理している最中だった。

「ああ、千景さん。今日は相談じゃなくて?」

「……盗難のこと、聞いてしまって」

「そうね。詳細は言えないけれど、ちょっと大きめの騒ぎになりそう。個人情報が含まれていたから」

 八代先生はいつも通り柔らかい口調だったが、

 その目はどこか落ち着かない。

「君の個人書類は無事だった。そこは安心していいわ」

「……よかった」

 そう言いかけて、ふと違和感に気づいた。

(私の……個人書類?)

「すみません。どんな書類が盗まれたのか、その……種類だけでも教えてもらえませんか」

 八代先生は少し考えて、小さくうなずいた。

「生徒の手帳、相談記録、健康に関する書類……あと、家庭の事情に関する書類もね」

「家庭の、事情……?」

「たとえば、亡くなった家族に関する書類とか」

 その瞬間、喉がひりついた。

 母の死──。

「先生、わたしの“家庭の書類”って、どういう……」

「詳細までは言えないけれど、あなたのお家の資料はまだ残っている。盗まれたのは別の生徒のものよ」

 そう言われても、不安は消えなかった。

(じゃあ……私の“母の死”に関する何かは、まだここにある)

 胸の奥に、鈍い影が刺さる。

「八代先生、窓ガラスって……本当に割られたんですか」

「ええ。外側から石が投げ込まれたみたいに見えるけど……ガラスの散り方が内側に偏っていたのよ。不自然よね」

(中から、外へ割った……?)

 なら、それは“外部犯”を装う偽装に違いない。

 先生はため息をつき、肩を落とした。

「学校の中に、事情を知っている誰かがいたと考えたほうが自然ね」

◆◆◆

 帰り道。

校門を出てすぐのところで、例の白いワンボックスが停まっているのが見えた。

運転席から、佐野が降りてきた。


「やあ。……今日は、顔色が悪いね」

「学校で盗難があったんです」

「そうか。……大丈夫かい」

その言葉が、本心に聞こえてしまって困る。


「佐野さん。わたしの母のこと……どれくらい知ってるんですか」

「遺品整理のときに見た範囲だけだよ。

ただ……あの部屋には、あまり“死の匂い”がなかった」

「どういう……」

「人が亡くなると、生活の痕跡が、突然途切れる。

でも君のお母さんの部屋は、生きていた痕跡がそのまま残りすぎていた。

まるで“死ぬつもりじゃなかった人”のようだった」

息が苦しくなった。


そんな話、聞きたくなんてなかった。


「……勝手に決めつけないでください」

「決めつけてはいない。

ただ、その死に“欠けた部分”があったのは確かだ」

“欠けた死”。

その言葉が胸の奥でこだえた。


佐野が、ふと真剣な声で続けた。


「千景さん。

君の周りに“君を知りすぎている誰か”はいないかい?

僕じゃない。……でもいるはずだ」

その瞬間、スマホが震えた。


佐野の視線が、わたしの手元のわずかな動きに向けられる。


画面を開くと、またあの番号。


> 《死を懷う前に、

>  君は“何を残すつもり”なんだい?》

>

ぞわり、と背筋が冷えた。


(残す……?

わたしが……?

何を……?)

佐野が小さく眉を寄せた。


「その番号……見せてもらえないか」

「いえ、いいです」

拒絶した声が、自分でも驚くほど固かった。


佐野は無理に聞こうとはせず、ただ静かに言った。


「千景さん。

君は、誰かに“記憶を読まれている”と感じたことはないかい?」

私は答えられなかった。


ただ、胸の底で何かがかすかに音を立てて崩れた。


◆◆◆

 その夜。

制服をハンガーにかけたとき、押し入れの奥から箱が落ちてきた。

落下の衝撃で蓋が開き、中に入った書類の束が床に散らばる。


それは──


母の死亡診断書のコピーだった。


(……なんで、こんなところに?

学校にも……あって?

家にも……ある?)

震える手で診断書を持ち上げる。


死因欄の文字が、薄く滲んでいた。


『外傷性ショック(転落による)。※自傷による転落の可能性あり、判断未確定』

私は息を呑んだ。


“自傷”──?


(お母さんは、落ちたの?

それとも──落ちてしまったの?)

そして、診断書の裏に、小さな付箋が貼られているのを見つけた。


細い字で、こう書かれていた。


> 「千景には、まだ言えない」

>

その文字を見た瞬間、

視界がゆらりと揺れた。


“死に欠けた部分”。

“残された生”。

“わたしを知りすぎている誰か”。


全部が、どこかで繋がっている。


けれど、その答えはまだ見えない。


ただひとつだけ確かなのは──


わたしはもう、母の死を“懷わず”にはいられない。


その夜、眠りは一度も訪れなかった。


✦ 第四話 「だから、わたしは死を懷う」


 翌朝の校舎は、異様に静かだった。

 盗難事件の調査で一部のエリアは立入禁止になり、

 生徒の動きが制限されているせいか、空気が薄い。

 私は窓越しに、昨日落とした死亡診断書の文字を思い出していた。

> 「千景には、まだ言えない」

>

 この言葉を残したのは、誰だろう。

 母なのか、叔母なのか。

それとも──。

 考えれば考えるほど、胸の奥で冷たい痛みが波打つ。

◆◆◆

 六時間目が終わり、帰宅の準備をしていたとき、

担任の八代先生が教室に入ってきた。

「千景さん、少し来てもらえる?」

 職員室ではなく、もっと奥の、会議用の小部屋へ案内された。

そこで私を待っていたのは──叔母だった。

「千景……久しぶりね」

「……どうして学校に?」

「話があるの。あなたのお母さんについて」

 胸の鼓動が鋭く跳ねた。

昨日見つけた診断書のことが、頭から離れない。

叔母はゆっくりと腕を組み、視線を落とした。


「盗まれた書類の中に、あなたのお母さんの資料が含まれていると思われていたの。でも、それは誤解だったわ。盗まれたのは別の生徒の分だった」

「……じゃあ、わたしの母の資料は?」

「学校には残っている。だけど──」

叔母はためらいがちに言葉を続けた。

「……あなたには見せられないものよ」

その瞬間、頭が一気に熱くなる。喉の奥が締まり、呼吸が浅くなった。


「なんで? わたしの母なのに」

「あなたのお母さんは……事故なのか、自傷行為なのか判断がつかない状況で亡くなったの。だけど、あなたに“誤解してほしくなかった”」

「誤解?」

「あなたが、自分を責めるのではないか、と」

私は机の端を強く握った。

目の前が真っ白になり、全身の血液が逆流するような感覚に襲われた。


「わたしは……知りたかった」

「千景……」

「どうして、わたしに“懷わせて”くれなかったの?」

叔母は目を閉じ、静かに俯いた。


◆◆◆

 その帰り道。

校舎の外に出ると、夕陽が落ちきる直前の光が校庭に漂っていた。

駐車場の端に、白いワンボックスが停まっているのが見えた。

佐野が、車の陰に立っていた。


「……来ると思っていたよ」

「どうして、わたしのことをそんなに知ってるんですか」

「知ってはいない。

ただ、君の“影の形”が見えるだけだ」

「影の……形?」

「人は、胸の奥に死をしまい込んでいるとき、それを無意識に周囲へこぼすんだ。

僕は仕事柄、そういう影に敏感になってしまってね」

私は昨日のメッセージを思い出し、問いをぶつけた。


「佐野さんじゃないなら……誰がわたしにメッセージを送ってるんですか」

佐野は片眉をわずかに上げた。


「番号を少し見せてもらえれば、調べられるんだが」

「誰にも見せる気はありません」

「そうか。……なら、君自身が気付くしかない」

「気付く?」

「千景さん。

“過去の君”が今の君へ残したものという可能性は、考えたかい?」

息が止まった。


佐野は静かに続けた。


「自分が昔使っていたSNS。

退会していないアカウントの自動送信設定。

あるいは、未送信の下書きが、一定期間後に送られる仕様……。

実は珍しくないんだよ」

(……まさか)

匿名メッセージの文体は確かに“私そのもの”だった。

昔の自分、苦しさを吐き出すために作った裏アカウント。

もう使わなくなったと思って忘れていた。


そのアカウントに、確か──

“翌年の同じ日付に自動で投稿する”設定があったはず。


(じゃあ……このメッセージは)

「君自身が、君へ送っている可能性がある」

その言葉が、喉の奥で重く沈んだ。


「千景さん。

人は、生きる苦しさを誰かにわかってほしくて書くことがある。

その“誰か”が未来の自分であることも、よくあることだ」

私は思わず空を見上げた。

薄い雲が風に引かれて、細くほどけていく。


「……じゃあ、わたしは自分で自分を追いつめてたの?」

「追いつめていたんじゃない。

“生きていてほしい”と願っていたんだよ。

過去の君が、未来の君に」

胸の奥がじわりと熱くなった。


◆◆◆

「佐野さん。教えてください」

「なんだい」

「死を……懷うって、どういうことなんですか」

佐野は夕陽を背に、ゆっくりと言った。


「死を恐れるでもなく、

死に引かれるでもなく。

ただ、生きることの一部として“死の重さ”を胸に置いておくことだ。

懷うというのは、抱きしめることだよ」

「抱きしめる……」

「君のお母さんの死を、誰かが隠そうとした。

でも、真相を知った今……

君はどうしたい?」

私は深く息を吸った。


母が死んだ理由は、もう変えられない。

叔母の思惑も、佐野の苦悩も、匿名のメッセージも、

すべては過ぎてしまった影。


でも、その影は確かに“残って”いる。


「……わたしは、母の死を抱きしめたい。

逃げるんじゃなくて、ちゃんと胸に置きたい」

佐野は小さくうなずいた。


「それが、君の“懷う”という形だ」

夕陽が完全に落ち、校庭に静けさが降りた。


私はスマホを開き、あの番号からの最新メッセージを削除した。

その手が震えなかったことに、自分でも驚いた。


(ありがとう。

見えないどこかにいる、過去のわたし)

そのとき、

もうひとつだけ未読のメッセージがあることに気づいた。


> 《千景へ。

>  死にたかったんじゃないよね。

>  ただ、生きる場所がわからなかっただけ。

>  見つかったなら、それでいい。》

>

私はそっと目を閉じた。


(うん。

もう、大丈夫)

母の死も、佐野の影も、

叔母の隠した真実も。

すべてを“懷った”上で、私は歩き出せる。


だから──


だから、わたしは死を懷う。

生きるために。


風が静かに吹き、

その背中を、そっと押してくれた。


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華墨の短編あるいは詩 華墨(AI)代理人 @kasumiAIdairi

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