第18話:水路のお掃除は、詰まりの元から断つのがセオリーですわ

 深夜のリンドブルムは、静寂に包まれていた。わたくしは、街の片隅にあるマンホールの蓋を、支援物資のリストに入っていた頑丈なバールで軽々とこじ開けた。


「失礼いたしますわ」


 誰に言うでもなく淑女の一礼をし、わたくしは躊躇なく、暗く湿った地下世界へと身を躍らせた。

 地下水道は、入り組んだ巨大な迷宮だった。絶えず水の流れる音が反響し、時折、どこからか不気味な鳴き声が聞こえてくる。普通の令嬢であれば、一歩進むことすらできないだろう。しかし、わたくしの心は、期待に満ち溢れていた。


(まあ、なんて素晴らしい環境! この湿度、この暗さ! きっと、苔やカビ、得体の知れない小さな生き物たちが、独自の生態系を築いているに違いありませんわ!)


 未知の汚れとの出会いに、わたくしの探求心は燃え上がっていた。

 地図のおかげで、道に迷うことはない。しばらく進むと、前方の水路で、巨大な影が蠢いているのが見えた。体長は五メートルほどもあるだろうか。硬そうな鱗に覆われた、巨大なワニのような魔物だった。


「シャアアアッ!」


 魔物はわたくしに気づくと、威嚇の声を上げ、その巨大な顎を開いて襲いかかってきた。


(あらあら、排水溝に詰まった、大きなゴミですわね)


 わたくしは冷静に、魔物の全身に浮かぶ『汚点』を観察する。その硬い鱗はほとんど汚れていないが、唯一、首の付け根、鱗と鱗の隙間だけが、黒く汚れていた。


「そこですわ!」


 わたくしは突進を紙一重でかわすと、身を翻し、リグレットの穂先をその一点の『汚点』へと正確に突き立てた。抵抗する間もなく、魔物は断末魔の叫びを上げて水路に沈んでいく。

 さらに奥へ進むと、今度は壁一面を、緑色のねばねばした物体が覆っていた。ヘドロスライムの群れだ。


「まあ、油汚れと泥汚れが混じった、しつこい汚れですこと」


 わたくしは眉をひそめ、掃除の基本を思い出す。

「こういう水と油が混じった汚れには、魔法の粉(洗剤)の原理が有効ですわ。水と油、両方を仲直りさせて、汚れを包み込んで剥がし取るのです」


 わたくしはリグレットを構え、スキルを広範囲に発動させるイメージを固めた。槍の穂先から聖なる光――わたくしには、万能クリーナーの泡のように見えた――が放たれ、ヘドロスライムたちを包み込む。スライムたちは、みるみるうちに浄化され、蒸発するように消えていった。



 その様子を、数十メートル離れた場所から、息を殺して監視していたクロウは、冷や汗を流していた。


(……寸分の狂いもない。まるで、自分の庭を散歩でもしているかのようだ。地図を持っているとはいえ、初見の迷宮で、なぜあれほど正確に最短ルートを進めるのだ……?)


 クロウには知る由もなかった。わたくしが、空気の流れや、壁の苔の生え方といった、微細な『汚れ』の状態から、最も効率的なルートを無意識に割り出していることなど。

 そして、先ほどのヘドロスライムとの戦闘。


(『魔法の粉』……? またしても、謎の暗号……。水と油……相反する二つの性質を持つ力……。聖と邪、あるいは光と闇か? 彼女のスキルは、そんな次元の理すら操るというのか!?)


 クロウの勘違いは、もはや哲学の領域にまで達しようとしていた。



 地図に示された最深部。そこは、これまでの汚れた水路とは全く違う、荘厳な空間だった。古代の神殿を思わせる、巨大な石造りの広間。そして、その中央に、一つの巨大な石棺が安置されていた。

 石棺は、おびただしい数の鎖で固く封印されており、その表面全体が、まるでコールタールを塗りたくったかのように、どす黒く、禍々しい『シミ』に覆われていた。


「まあ……!」


 わたくしは、思わず感嘆の声を漏らした。

「なんて、なんて年季の入った、歴史的な汚れなのでしょう……!」


 長年、誰にも掃除されることなく放置され、こびりつき、染み込み、石材そのものと一体化してしまったかのような、究極のシミ。お掃除屋として、これほど胸がときめく光景はない。


「これが、この街で最も古い『シミ』……。素晴らしいですわ。実に、お掃除のしがいがありますわね!」


 わたくしは、興奮で紅潮する頬を抑えながら、石棺に近づいた。そして、石棺の正面に、古びた鍵穴があるのを見つける。支援物資と共に入っていた、あの錆びついた鍵。


(なるほど、この鍵でこの汚れを『開ける』のですね。汚れは、時にその内部に核を持っているもの。外側から削るだけでなく、内部から破壊することで、より効率的に除去できる……。なんて高度な、お掃除テクニックなのでしょう!)


 わたくしは、クロウ様の深遠なるお掃除哲学に感銘を受けながら、迷うことなく鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくりと回した。

 ギギギギ……ッ!

 錆びついた金属が軋む、耳障りな音。そして、石棺を縛り付けていたすべての鎖が、ひとりでに砕け散った。


 ゴゴゴゴゴ……!


 地響きと共に、巨大な石の蓋が、ゆっくりと、しかし確実に、横へとずれていく。

 開かれた棺の闇の中から、もわりと、千年の時を経たかのような、乾いた瘴気が溢れ出してきた。

 そして、闇の奥から、くぐもった、乾いた声が響いた。


「……ククク……ついに、我を目覚めさせたか……。長き眠りの邪魔をし、この『穢れの王』を解放したのは……どこの愚か者だ……?」


 ゆっくりと、ミイラのように干からびた人影が、棺の中で身を起こす。その額には、ルナール公爵家が使うものと同じ、禍々しい植物の紋章が、呪印のように深く刻まれていた。


「まあ、汚れの中から人が……!」


 一瞬驚いたものの、わたくしはすぐに本質を見抜いた。

「いいえ、違いますわね。あなたこそが、この巨大なシミの『核』! あなたという汚れの元凶を綺麗にすれば、この場所も、きっとピカピカになりますわね!」


 わたくしは、伝説の王(究極の汚れ)を前に、満面の笑みで槍『リグレット』を構えた。



「馬鹿な……」


 遠くからその光景を見ていたクロウは、絶句していた。


「伝説は、真実だったというのか……。『古き血脈』の始祖、『穢れの王』……。この国の黎明期、そのあまりの邪悪さゆえに、初代国王自らの手で封印されたと伝えられる、災厄の化身……!」


 クロウの脳裏を、最悪のシナリオが駆け巡る。


「シーナは……この王を復活させるために、ここへ来たというのか!? 『お客様をお迎えする』……! 彼女が言っていた『お客様』とは、この穢れの王のことだったのか!? この国を、混沌の時代に逆戻りさせ、新たな王を担ぎ上げる……! これが、彼女の『お掃除』の、真の目的……!」


 クロウは、これから起ころうとしている、国家存亡の危機を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

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外れスキル『お掃除』で家を追い出された私、ただ掃除がしたいだけなのに救国の英雄になってしまいました サンキュー@よろしく @thankyou_

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