13
歌舞伎町では、夏の香りなんかしない。
8月31日も夏の香りはしなかった。のらりくらりとした風ががさつな匂いを運ぶだけだ。
昼過ぎにうちの店に珍しい客がきた。顔がひどく腫れた早咲だった。
右目のまぶたは腫れ上がり、歯も1本欠けている。
「ひどいでしょ。左目も、ずっと灰色の雲がかかったままなんですよ」
赤いTシャツを着た早咲は短く笑った。左側頭部の髪の毛も失っていた。
「病院に行こうよ。おれが金を出すから」
おれは早咲に呼びかけた。
早咲はおれの提案を無視すると、右腕をかばいながら、ポケットからくしゃくしゃの1万円札を取り出した。無言でレジカウンター上のトレイに1万円札を置くと、客がいない店内で早咲は棚を眺め始めた。
早咲は足をひきずりながらカゴに3枚ほどAVを放り込んでいった。
選び終えると、早咲はおれにカゴをさしだした。
「あの頃はエロ本で見てるだけで、ビデオを買えませんでした。ようやく動く姿を見ることができます」
金を受け取る気はなかったが、早咲は払うといって聞かなかった。
釣りを受け取ると、早咲はレジ前に座り込んでしまった。立っていられないのだ。
床にへたりこまれては、品出しもできやしない。おれは隣に腰をおろした。
ふたりとも黙り込んでいたが、今のおれはじっとしていられなかった。
「病院に行かないか?」
おれはもう一度勧めた。
「ハイパーキャミという最近はやりのセクキャバがあるでしょ」
早咲は話を変えた。
「ああ、先日もパソコンを納品したばかりだ」
「僕を殴った男は、あの店の下の階に入っている雀荘に出入りしていたらしくて」
「そいつから、逃げ回ってるらしいな」
早咲はゆっくりと辛抱強くため息をついた。
「今朝、あのビルのゴミを漁っていたら見つかっちゃったんです」
あきれて、返事できなかった。おれは、できるだけおだやかに微笑んだ。
「その男との関係は?」
「ぼくが以前、宗教にいた頃に、仲の良かった女の子がいて……。そのコの父親です」
早咲の言葉を借りれば「ぼくが彼女に仕事を紹介したのが気に食わなかった」ため、男は早咲を痛めつけたのだという。
善意でやったことなのに、怒りを買った――というのが早咲の言い分だった。
早咲は話しながら、2度ほど床に拳を叩きつけた。
おれは止めなかった。一方的に殴られて平気な人間なんていない。早咲は人間らしくあるため、悔しがっているのだ。
「気は晴れないと思うが、忘れてしまった方が楽だ。そんな奴に関わるだけ損だ」
おそらくその男の悪口を言えば、早咲も落ち着いたのかもしれない。
だが、おれには言えなかった。悪口を言えるほど、おれはその男のことを知らないからだ。知りもしない相手の悪口なんて言えやしない。
早咲は下唇を噛んでいた。下唇が見えなくなるまで噛んでいる。
取り繕うような慰めは逆効果だったようだ。
拳を強く握ると、早咲は絞り出すように言った。
「何度も何度も思い出しちゃいます。忘れられないんです。ふとしたきっかけで思い出しちゃうんです。そういう人間がいることを知っておいてください」
おれは頷き、謝った。
おれはもう一度訊いてみた。
「なあ、病院に行かないか?」
「じゃあ、1杯おごってくれます?」
「今日はもうゴミ箱を漁らないと約束するのなら、飯もつけるよ」
タクシーで病院に行き、タクシーで病院から飲み屋へと向かった。
例の店内が明るすぎる店に着く頃には夕方になっていた。
夕焼けに染まったタクシーの車体は埃みたいな色をしていた。まちの埃がこびりついていてしまったのだ。
スツールに座るなり、早咲はクーバリブレを2杯頼んだ。おれの分も勝手に頼んだのだ。
クーバリブレはライムを搾ってグラスに落とし、氷を加えてラムとコーラを混ぜて作るカクテルだ。
おれはそれまでクーバリブレを飲んだことがなかった。コーラのカクテルなんて子どもっぽすぎると信じ込んでいたからだ。
悪くなかった。ラムの甘さとほろ苦さが、コーラの刺激のおかげで引き立っている。
早咲もおれも黙っていた。
答え合わせは、おれのなかでもう済んでいた。
早咲は息を吐き出すと、おれを見つめた。
早咲の服からは生魚の匂いがした。おれを見てはいたが、遠くを眺めているようだった。
「及川さんは、ぼくを疑っていますか?」
おれは首を横に振った。気持ちよく一緒に酒を飲める相手を、酒場で疑えるわけがない。
追加でスプモーニを2人分注文しようとすると、早咲が止めた。
「それは今度、僕がおごりますよ」
おれは従った。クーバリブレ1杯で気楽に酔えたし、今のままなら仕事にも戻れるからだ。入荷したばかりで値札やPOPが付いていないAVは、店にまだ残っている。
「今日は一緒にいなくて大丈夫か?」
おれは訊ねた。
「ええ。大丈夫です。ねえ、及川さん、びしょ濡れの電話番号はわかりますか?」
「ああ。携帯に入っている」
そのとき早咲は、おれが今まで目にしたことがないような表情をはじめて浮かべた。早咲らしい表情ではなく、人間らしい自然な表情だった。
「姉さんに会ってみようと思います。呼び出してもらうことって可能ですか?」
早咲は柔和な声でそう言った。
おれは、早咲がさまざまなことを決意したことに気づいた。
おれは携帯をパンツのポケットから抜き出した。
るみかさんは17時までのシフトだった。帰り支度などもあり、店にはまだいるはずだ。
るみかさんに取り次いでもらい、用件のみ伝えた。
急なお願いで申し訳ないと伝えた。
電話口でるみかさんは涙ぐんでいた。
「弟は元気なんですね」
「それは会って本人に聞いてくれ」
さすがに、同席するのは気が引ける。
るみかさんはお酒が飲めないし、この店はダーツやらスロットでやかましく、再会にふさわしい場所とは言いがたい。
おれは待ち合わせ場所に珈琲茶館 集を指定した。
マスターに頼んで大きなタオルと石鹸を借りた。
早咲に手渡し、身支度をするよう促した。
早咲がトイレの個室に籠もっている合間に、おれは勘定を済ませ先に店を出た。
泣くには、店の照明が明るすぎたからだ。
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