06

 6月に入ると、るみかさんは黒髪に戻していた。歌舞伎町にいる女の子はこぞって茶髪や金髪にしたがるものなのに、彼女は違った。店長のアドバイスに従ったのだとか。

 びしょ濡れは店長の覚えがよいと、お茶を引いたときの保証金が日額1万円で固定されるので、良い傾向だ。なお、「お茶を引く」は、客がつかずに暇をするという意味だ。


 ベイスターズは打撃陣のテコ入れとして、メジャー経験のあるサンダースを獲得した。早速5番を任されたものの、5試合もしないうちに相手投手に舐められるようになっていた。もり監督はサンダースに見切りをつけ、休養を命じた。


 あれからも早咲とは何度か飲んだ。話を引き出すために、ミラノ座前から誘い出した。

 早咲は最近小説をよく読んでいる。東通りにあるビルのゴミ集積場で5冊ほど文庫本を拾ったのだという。そのなかに、景山民夫の『ティンカーベル・メモリー』という本があった。ディズニーの話かと思っておれも少し読んでみたが、生まれ変わりをテーマにした話だった。晩年は新宗教にハマっていた景山氏の思想が、明確に反映されていた。

 ただ、それ以上に驚いたのが、本に「法務省検閲済」というシールが貼られていたことだ。元の持ち主が刑務所に入っていた頃に、差し入れてもらったものだろう。


 あるとき、早咲が『ティンカーベル・メモリー』についての感想を述べたことがある。

「宗教にもいろいろあるんですね」

 早咲は道ばたに手向けられた花に手を合わせ終えると、そう話し始めた。

「この本で書かれているのは輪廻転生でしょ。死後の捉え方が宗教によって違うんだなと、読んでいて思ったのはそこかなあ」

 さっきまで見ず知らずの人間に頭を下げていた早咲は宗教の話を始めた。

 早咲につられて、お供えの缶コーヒーにタバコを添えたおれは驚いてしまった。宗教の話が始まるとは思っていなかったからだ。

 マニュアルを読み上げるように、早咲は話し続けた。

「へぇー、詳しいじゃん。どこかで勉強したの?」

 おれが訊ねると、早咲は照れくさそうに笑った。

 仲見世通りにある中華料理屋と個室ビデオの間の路地で、おれたちは立ち話をしていた。時折、出勤前と思わしきキャバ嬢がやってきては、花束に手を合わせている。邪魔だと言わんばかりの目線にも、早咲は動じない。おれと宗教の話を続けたいようだ。

 午後5時の太陽がおれと早咲の顔を照らしていた。

 土と小便の匂いがした。歌舞伎町の裏路地はどこも小便の匂いが染みついている。

「18歳のときに、館山の家を出たんです。ひとりで。東京に出て、警備員とかガスの点検員とかもやりました。いろいろあった後に、宗教に入りました」


 早咲が入信したのは、大久保周辺に拠を構えるプロテスタント系の宗教だった。

 名前はおれも知っていた。写真週刊誌にルポ記事が載っているのを読んだことがあった。

 その宗教は、首都圏の大学でダミーサークルを使った強引かつ執拗な勧誘を行い、何度か大学とトラブルになっていた。無断入構・教室の無断使用も重なり目を付けられていた。

 その宗教が問題になったのは、信者の管理が度を過ぎていたからだ。

 信者を長時間拘束し、賞罰を使い分けた軍隊式の育成を行っていると記事には書かれていた。信者同士の性の管理なども日常的に行われているというから、徹底されている。

 信者の育成には信者のなかでも教師的立場にいる人間があたるが、彼らは総じて精神的苦痛を与えることに長けていた――と元信者から告発されていた。

 下っ端の信徒たちは精神的に追い込まれるのみならず、献金も強要された。献金するためにアルバイトを掛け持ちする者も後を絶たないという。

 一度、手っ取り早い金策として、風俗店で働いた女子大生がいたそうだが、後に教団にバレると、信者たちから罵詈雑言を浴びせられ、丸刈りにされたというから、恐れ入る。「汚らわしい。おまえがパンティーを見せていいのは、私だけだ。私がパンティーを見せよと命じたら、パンティーを見せなさい」と叱った先輩の牧師は、信者仲間から裏でパンティー牧師と呼ばれているそうだ。

 これだけのネタがあるにもかかわらず、続報も載らず、テレビも取り上げなかったのは、彼らが直接的な死人も出さなければ、キャッチーな文言も編み出さなければ、奇怪な衣装も着なかったからだ。パンティー牧師だけでは、テレビは見向きもしない。


「ぼくはあそこでいじめにあったんですよ。何度も罵られました。黒い布の袋を頭に被せられた状態で、暗い部屋に閉じ込められて何時間も罵られるんです」

 早咲がいつも灯りのある場所で寝泊まりをしていることを思い出した。心が壊れてしまっているのだ。

「つらくなって、逃げました。行く場所がなくて、外で寝泊まりするようになりました」

 おれは早咲にタバコをさしだした。早咲は二口ほど吸うと、靴で踏み潰して火を消した。

「もらっておいて、ごめんなさい」

 早咲は誰かに嫌われるのを恐れているだけだ。嫌われたくないから敬語のままなのだ。


 おれはその日、行きつけの飲み屋でスプモーニを飲みながら、早咲とはじめて長い時間をともにした。その店を選んだのは、おれが知っている歌舞伎町にある飲み屋のなかで、一番照明が明るかったからだ。

 店はムードなんてまるでないから、繁盛はしていない。恋人たちなんかいない。怯えたおじさんたちがどこからともなく集まるようなバーだった。スロット台と液晶の大きいデジタル式のダーツマシンが煌々ときらめいていた。


 早咲に知っていることをほとんど打ち明けた。

 るみかさんのお店を教えた。「びしょ濡れ」のホームページ内にあるるみかさんの日記を読むと、早咲はクーバリブレのグラスに額をぴったりとつけてから、深呼吸した。

「姉さんも苦労しているんだね。ぼくのせいで、姉さんも傷ついたんだね。謝りたいよ」

「誰のせい、なんてないよ。それは一番おまえがわかってるだろ?」

 早咲は何度か頷くと、右の拳を握って親指と小指だけ伸ばした。ハワイのハンドポーズみたいだった。館山で自然と身についた所作かもしれない。

「お姉さんに会うか?」

 早咲はゆっくりと首を振った。

「まだ会えないよ」

 その日、早咲ははじめてスプモーニを注文した。

 おれもスプモーニをおかわりした。その日にふさわしい苦すぎない飲み口だった。

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