05

 神宮球場には7回裏についた。小川おがわのソロホームランには間に合わなかった。

 雨の降るなか、隣に座った友人とふたりでベイスターズが負けるのを見届けた。

 横浜ベイスターズはそれからの1週間、勝ったり負けたりを繰り返した。

 連勝も連敗もしなかった。競り負ける日と大量リードを守り切って勝つ日が交互に続いた。打順も猫の目で、5番打者を中根なかね谷繁たにしげ、ズーバー、小川が日替わりで務めた。


 ゴールデンウィーク中の歌舞伎町は、若い学生で溢れていた。

 サークルの新歓コンパは連休中も開かれているようだ。学生というのは大学に入った途端、なぜか飲みたがるものなのだ。

 ミラノ座の前でも、居酒屋から吐き出された学生たちがあちこちで輪を作ってはしゃいでいる。周辺を週刊誌のライターらしき奴がカメラを首から提げて歩いている。パンツ丸見えで路上に寝転がる女の子でも撮影して、「激撮! 歌舞伎町24時」みたいな記事をこしらえるに違いない。

 一方で、早咲に限らずホームレスたちの姿はミラノ座周辺には見えなかった。川が汚れ始めると、魚が姿を消すようなものだろう。


 早咲がミラノ座前に戻ってきたのは、ゴールデンウィークのほとぼりが冷めた頃だった。

 パチンコ屋の横に腰を下ろしていた早咲は袋入りの焼きちくわをホームレス仲間と分け合って食べていた。早咲を入れて3人の男がそこにいたが、皆、格子の小さなネルシャツを羽織っていた。


 気乗りはしなかったが、おれは早咲に声をかけた。「よっ」とか「ひさしぶり」とか、大学生同士がしそうな挨拶をお互いにかわした。

 おれはチキンラーメンの段ボールに腰を下ろし、彼らの輪に加わった。提げていたレジ袋からポテトチップスの袋と缶ビールを取り出し、彼らに配った。

 風が吹くと寒かったが、涼しくて爽やかな夜だった。雲が夜空にかかっていたが、天気はなんとか持ちこたえていた。


 6本の350ミリ缶はあっという間に消えていった。

 早咲の仲間のひとりが、髭を泡で汚したまま、おれへの感謝として自作の即興詩を披露した。通る声で唸り終えると、彼はその場でぴょんと跳ねて立ち上がり、去っていった。

 しばらくすると、もうひとりの仲間も眠くなったと言って、寝床に戻っていった。


 早咲とおれは黙ったまま、ぬるいビールを飲み続けた。

 おれは煙草に火をつけた。早咲が手を伸ばしてきたので、1本あげた。中南海ちゅうなんかいの甘みのある香りはビールにそぐうものではなく、早咲は苦笑いしていた。

 目的を持って早咲と話すのははじめてだった。

 目的が変にできたせいで、おれはうまく話せないでいた。

 吹き出す煙も意欲を失っていた。ゴールデンウィークを挟んでうまくいかなくなったのは、ベイスターズだけではないということだ。


 早咲が2本目の中南海を吸い終えると、トイレの話になった。

 おれも早咲もトイレに行きたくなったから、というわけではない。酔った女の子が、おれたちの3メートルほど先にあるゴミ箱のかげに隠れて、そのまま腰を落として用を足しているのが目に入ったからだ。彼女はスカートをめくり上げず、気持ちよさそうに相川七瀬あいかわななせ「夢見る少女じゃいられない」を歌っていた。

 小さい川がおれたちの目の前を流れていく。早咲が投げ捨てたタバコの吸い殻が、川に浮かんでいた。

 おれたちは、女の子がノーパンだったのか、パンツを穿いたままだったのか、しばらく話し合った。


「世のなかのトイレで、おそらく一番きれいなのはパチンコ屋のトイレじゃんか」

「最近は入っていないけど、ホームレスになる前はよくお世話になっていたなあ」

「あ、早咲くんもそう?」

「便座もあったかいし、よく掃除されていますから、ついつい……」

 早咲には敬語をやめるよう伝えてあった。だが、途端に早咲はぎこちなくなった。敬語でないと話しづらいのかもしれない。

 そもそも、敬語を使わなくなることが互いに打ち解けた証拠であるという考え方におれは囚われているのかもしれない。おれだって、一人称を今さら「ぼく」にはできない。


「じゃあ、おれの一番好きなトイレを発表するか」

「一番好きなトイレって、なんですか。順位を付けられるものなんですか」

「1位は……」

 ドラムロールを口で鳴らそうとするが、酔いが回って舌がうまく動かなった。

「東京ディズニーランドにある、ビッグサンダーマウンテンの下にあるトイレ! 洞窟内を冒険しているような気分も味わえるので、マジでおすすめ!」

 早咲は半笑いのような表情を浮かべている。リアクションに困っている。

「及川さんの口からディズニーランドという単語が出てくるなんて!」

 早咲は膝を叩いて笑った。カーゴパンツは迷彩柄が色あせていた。

「好きなんだよ。公園を散歩するような感覚で、歩いているだけで幸せなのよ」

「どのぐらいのペースで行くんですか?」

「最近は2カ月に1回だね。ただ、今年3月にディズニーランドの近くにショップができてね。そこではランドのグッズが買えるから、2週間に1回のペースで通ってる」

 ちなみに、お店はボン・ヴォヤージュという名前だ。

「すごい! 千葉県民だったぼくでも2回しか行ったことないのに」

「え、千葉出身なの? 千葉のどこ?」

 質問しておいて、後ろめたさをおぼえた。缶ビールに口を丁寧につけた。

「館山ってわかります? 千葉の南にあるんですけど。そこが実家です」

「千葉県か。じゃあ、近いじゃん」

「それが違うんすよ。千葉県って縦にも横にも広くて、館山からだとディズニーランドに行くまで3時間近くかかるんですよ。千葉に住んでいないとわかりづらいんですけどね」

 るみかさんが館山を「陸の孤島だ」と表現していた意味がようやくわかった。ディズニーランドと幕張メッセとザウスだけが千葉ではない。

「3時間もかかるの? ちょっとした旅行じゃんか」

「だから、2回しか行ったことないですね」

「へぇー。学校で行ったの?」

 早咲の笑顔が引っ込んだ。〈学校〉は、今も早咲の心を棘の生えた脚で這い回っている。

「いや、家族っすね。姉さんはプーさんが好きで、プーさんの人形が家中にありました」

 るみかさんは、プーさんを主人公とするアトラクションが去年ディズニーランドにオープンしたことを知っているだろうか。

「お姉さんがいたのか。ひとりっこじゃなかったんだな」

「ぼくより10歳年上で、子どもの頃はよくプーさんの絵本を読んでもらいましたよ。だから、あの頃ははちみつを食べるのが夢でした」

「壷で食べてみたかったよな」

「しかし、及川さんがディズニー好きとは意外でした。ヤンキーっぽいカッコなのに」

 ライダースにレザーのパンツというカッコはヤンキーではないだろう。しかも、よく見てほしい。おれがライダースの下に着ているのは、ジャックとガスがプリントされたロングTシャツだ。シンデレラの友だちのねずみである。


 話題は館山から離れてしまった。

 しかし、もう十分だった。おれは話の流れを引き戻そうとは思わなかった。ようやくビールがおいしくなってきたからだ。

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