第6話 お休みの儀と、勤務記録

朝の鐘が、まだ一度も鳴っていなかった。

それでも孤児院の中はざわめいていた。

木の扉を開けたリナが、目を丸くする。


「……司祭様、もう起きてる!」


玄関のベンチに腰を下ろし、黒い外套のまま黙って座るライネルがいた。

手には書類も聖書もない。ただ、湯気の立つカップを持っている。

その横顔は、なぜかすでに“仕事中”の気配を纏っていた。


「おはようございます! 今日は掃除から始めますか? それとも畑の整備を――」


「しない。」


「えっ?」


ライネルは淡々と言った。

「昨日も伝えたが、本日は日曜。休業日だ。」


「え、えっと……神様にお祈りは?」


「それは労働じゃない。定例行事だ。だが、働くのは禁止。」


「働くのが禁止……って、どういう……」


「つまり、今日は“神も休む日”だ。」



食堂では、すでに混乱が起きていた。


「司祭が働かねぇ? じゃあ誰が飯作るんだ!?」


カイが椅子を蹴って立ち上がる。

リナが慌てて止める。


「今日は“お休みの儀”なんだって! 何もしちゃダメなの!」


「腹空かせて信仰できるか!」


「だからこそ祈るんです!」


「飯がないと祈れねぇ!」


エイラは椅子に座ったまま、くるくると頭の包帯を直していた。


「じゃあ、祈りの前にパンだけ焼いちゃダメかな?」


「それも労働だ。」

いつの間にか、背後にライネルが立っていた。

湯の入ったマグを手にしながら、無表情で言い放つ。

「神は“パンを焼く工程”まで神託していない。」


「じゃあ誰が焼くんですか!?」


「昨日の残りがある。」


カイが眉をしかめてパン籠を覗く。


「カッチカチじゃねぇか!」


「信仰とは忍耐だ。それに神の恵みを無駄にするのは罪だ。」


「……この司祭、マジで休む気満々だな。」


「神様より頑固かもしれません……」


リナが呆れ半分で笑うと、エイラが手を挙げた。


「じゃあ、今日は何をしたらいいんですか?」


「何もしなくていい。」


「えっ、ほんとに!?」


「“何もしない”をしてみろ。」


「むずかしいですっ!」



昼前。

孤児院の庭では、奇妙な光景が広がっていた。

リナはハンモックで寝転び、

カイは薪小屋の屋根に登って空を眺め、

エイラは芝の上で転がっていた。


「ねぇカイ、寝るの飽きたー!」


「寝るの飽きたってなんだよ……」


「だって何もしてないと時間が止まる気がするんだもん!」


「止まってんじゃねぇのか、それが今日の目的だろ。」


「でも司祭様、ほんとに寝てますかね?」


三人は同時に顔を上げた。

礼拝堂の前、ベンチにライネルが横になっている。

腕を枕に、帽子を顔にのせ、完全に無防備。


「……寝てる。」


リナがそっと近づいて小声で囁く。

「生きてますよね?」


カイ:「おい、不吉なこと言うな。」


エイラ:「あれが“昼寝の祈り”ですか?」


リナ:「……たぶん、“睡眠説法”です!」


「おぃ、それどっちも多分違う。」

カイがあきれつつも笑う。


「ったく、司祭が寝てると静かすぎて落ち着かねぇ。」


「じゃあ、静かなうちに遊びましょう!」

リナの提案で、庭に風船玉を持ち出した。

水を入れた風船を投げ合い、

笑い声が弾け、空気が柔らかく揺れる。


その音を、ライネルの耳はちゃんと聞いていた。

彼は目を閉じたまま、小さく息を吐く。

「子どもはそうやって元気に遊ぶもんだ。」



午後、門の外から泣き声がした。

エイラがいち早く反応し、駆け出す。

小さな男の子が雪道で転んで泣いていた。

見知らぬ村の子のようだ。


「だ、大丈夫!?」

エイラが駆け寄り、手を差し出す。

男の子は涙を拭いながらうなずいた。

リナも走ってきて、抱き上げる。


「どうしたの? お母さんとはぐれたの?」


「……うん。」


エイラの頭がしょんぼり垂れた。

「司祭様を呼ばなきゃ!」


「だめっ!」リナが止める。


「今日は“休業日”だよ。司祭様は、きっと“神の休暇”中なの!」


「でも……」


「代わりに、私たちがやろう!」


カイが荷車から毛布を取り出し、リナが温かいスープをよそい、

エイラが泣いている子の背をさすった。

その小さな背中が震えなくなるまで、三人は交代で世話をした。


「大丈夫。お母さん、きっとすぐ見つかるよ。」


リナが優しく言い、カイが外を見張る。

雪明かりの向こうに、女性の影が見えた。


「母さんっ!」


男の子が駆け出す。抱き合う二人の姿を見て、エイラはほっと息をついた。


その時、背後から静かな声がした。


「よくやったな。」


振り返ると、ライネルが立っていた。


「司祭様!? 休暇中じゃ……」


「見守るのは、業務に含まれない。」


「ずるいです!」


「必要な抜け道だ。」



夕暮れ。

食堂に戻った三人は、まだ興奮気味だった。


「司祭様、あの子、すぐにお母さん見つけました!」


「“何もしない日”なのに、結局働いちまったな。」


「違う。」

ライネルがスープをかき混ぜながら言う。

「お前たちは、“助けた”。

 それは“働く”とは別のことだ。

 助け合いは、生きることそのものだ。」


リナが目を瞬かせる。

「じゃあ、司祭様は今日、何してたんですか?」


「俺か? ……寝てた。」


「ほんとに!?」


「嘘ではない。」

カイがニヤリと笑う。


「寝ながら見張ってたんだろ、あんた。」


「かもしれん。神は見ているというしな。」


「司祭様が神様になっちゃいましたね!」リナが笑う。


「いや、神は褒めない。それに俺は少し働いた。まだ凡人だ。」


エイラがパンを齧りながらぽつりと呟く。

「司祭様って、働いてても寝てても、なんか安心します。」


「それは気のせいだ。」


「ううん。司祭様が寝てると、世界がちゃんと回ってる気がするんです。」


「……ほう。面白い理屈だな。」

ライネルは少しだけ笑った。

「その感覚を、大事にしろ。安心は、信仰より強い。」



夜。

外では風が穏やかに吹き、孤児院の灯が点々と瞬いていた。

礼拝堂の中で、ライネルは祭壇の前に座っていた。

小さな明かりを手の中に包みながら、ゆっくりと目を閉じる。


背後から足音。

エイラが毛布を抱えて近づいた。

「司祭様、またお仕事してる……」


「してない。ただ、灯を見ている。」


「でも司祭様、また祭壇の前に居ます。」


「そうだ。」


「じゃあ、やっぱり働いてます!」


ライネルは少し苦笑し、炎を見つめた。

「人の成長を見るのは、どうしてもやめられん。」


「リナたち、すごかったですよ。私よりずっと早く動いて……」


「お前も動いたろう。助ける声を出した。それで十分だ。」


「えへへ……」


炎がふっと揺れ、二人の影が壁に伸びた。

ライネルはその影を見つめながら、静かに呟く。

「――奇跡ってのは、誰かが休んでる間に起こるんだ。」


「え?」


「動いている者がいるから、休める者がいる。

 そして休める者がいるから、次に動ける者がいる。

 それが、世界の回り方だ。」


エイラは目を細めた。

「じゃあ司祭様、今日は奇跡が起きたんですね。」


「そうだな。……俺が昼寝できたのは、その証拠だ。」


「うふふっ!」



深夜。

孤児院は静まり返っていた。

ライネルは窓辺に立ち、外の星を見上げる。

雪のように細かい光が、空いっぱいに散っていた。


机の上には一枚の紙――“勤務記録”。

そこには、子どもたちの落書きが添えられていた。


 〈日曜:全員ちゃんと休んだ〉

 〈司祭様もお昼寝しました(偉い)〉

 〈エイラ:ちょっと働きました、ごめんなさい〉


ライネルは笑って、ペンを取り、最後に一行加えた。


 ――〈備考:神からの神託もなく、世界は平和だった〉


羽ペンを置き、灯を消す。

窓の外には、穏やかな夜風。

遠くで雪が軒を撫で、どこかの犬が小さく鳴いた。


その音を聞きながら、彼は椅子に身を預ける。

「……休むことは、生きることの一部だ。」


静かに目を閉じた。

外の光がやさしく差し込み、机の上の紙を照らす。

そこに描かれた笑顔の落書きたちが、まるで息をしているように見えた。


――祈らぬ神父は、今日も“休むことの意味”を教えていた。

そして世界は、何事もなく回っていた。

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