第6話 お休みの儀と、勤務記録
朝の鐘が、まだ一度も鳴っていなかった。
それでも孤児院の中はざわめいていた。
木の扉を開けたリナが、目を丸くする。
「……司祭様、もう起きてる!」
玄関のベンチに腰を下ろし、黒い外套のまま黙って座るライネルがいた。
手には書類も聖書もない。ただ、湯気の立つカップを持っている。
その横顔は、なぜかすでに“仕事中”の気配を纏っていた。
「おはようございます! 今日は掃除から始めますか? それとも畑の整備を――」
「しない。」
「えっ?」
ライネルは淡々と言った。
「昨日も伝えたが、本日は日曜。休業日だ。」
「え、えっと……神様にお祈りは?」
「それは労働じゃない。定例行事だ。だが、働くのは禁止。」
「働くのが禁止……って、どういう……」
「つまり、今日は“神も休む日”だ。」
♢
食堂では、すでに混乱が起きていた。
「司祭が働かねぇ? じゃあ誰が飯作るんだ!?」
カイが椅子を蹴って立ち上がる。
リナが慌てて止める。
「今日は“お休みの儀”なんだって! 何もしちゃダメなの!」
「腹空かせて信仰できるか!」
「だからこそ祈るんです!」
「飯がないと祈れねぇ!」
エイラは椅子に座ったまま、くるくると頭の包帯を直していた。
「じゃあ、祈りの前にパンだけ焼いちゃダメかな?」
「それも労働だ。」
いつの間にか、背後にライネルが立っていた。
湯の入ったマグを手にしながら、無表情で言い放つ。
「神は“パンを焼く工程”まで神託していない。」
「じゃあ誰が焼くんですか!?」
「昨日の残りがある。」
カイが眉をしかめてパン籠を覗く。
「カッチカチじゃねぇか!」
「信仰とは忍耐だ。それに神の恵みを無駄にするのは罪だ。」
「……この司祭、マジで休む気満々だな。」
「神様より頑固かもしれません……」
リナが呆れ半分で笑うと、エイラが手を挙げた。
「じゃあ、今日は何をしたらいいんですか?」
「何もしなくていい。」
「えっ、ほんとに!?」
「“何もしない”をしてみろ。」
「むずかしいですっ!」
♢
昼前。
孤児院の庭では、奇妙な光景が広がっていた。
リナはハンモックで寝転び、
カイは薪小屋の屋根に登って空を眺め、
エイラは芝の上で転がっていた。
「ねぇカイ、寝るの飽きたー!」
「寝るの飽きたってなんだよ……」
「だって何もしてないと時間が止まる気がするんだもん!」
「止まってんじゃねぇのか、それが今日の目的だろ。」
「でも司祭様、ほんとに寝てますかね?」
三人は同時に顔を上げた。
礼拝堂の前、ベンチにライネルが横になっている。
腕を枕に、帽子を顔にのせ、完全に無防備。
「……寝てる。」
リナがそっと近づいて小声で囁く。
「生きてますよね?」
カイ:「おい、不吉なこと言うな。」
エイラ:「あれが“昼寝の祈り”ですか?」
リナ:「……たぶん、“睡眠説法”です!」
「おぃ、それどっちも多分違う。」
カイがあきれつつも笑う。
「ったく、司祭が寝てると静かすぎて落ち着かねぇ。」
「じゃあ、静かなうちに遊びましょう!」
リナの提案で、庭に風船玉を持ち出した。
水を入れた風船を投げ合い、
笑い声が弾け、空気が柔らかく揺れる。
その音を、ライネルの耳はちゃんと聞いていた。
彼は目を閉じたまま、小さく息を吐く。
「子どもはそうやって元気に遊ぶもんだ。」
♢
午後、門の外から泣き声がした。
エイラがいち早く反応し、駆け出す。
小さな男の子が雪道で転んで泣いていた。
見知らぬ村の子のようだ。
「だ、大丈夫!?」
エイラが駆け寄り、手を差し出す。
男の子は涙を拭いながらうなずいた。
リナも走ってきて、抱き上げる。
「どうしたの? お母さんとはぐれたの?」
「……うん。」
エイラの頭がしょんぼり垂れた。
「司祭様を呼ばなきゃ!」
「だめっ!」リナが止める。
「今日は“休業日”だよ。司祭様は、きっと“神の休暇”中なの!」
「でも……」
「代わりに、私たちがやろう!」
カイが荷車から毛布を取り出し、リナが温かいスープをよそい、
エイラが泣いている子の背をさすった。
その小さな背中が震えなくなるまで、三人は交代で世話をした。
「大丈夫。お母さん、きっとすぐ見つかるよ。」
リナが優しく言い、カイが外を見張る。
雪明かりの向こうに、女性の影が見えた。
「母さんっ!」
男の子が駆け出す。抱き合う二人の姿を見て、エイラはほっと息をついた。
その時、背後から静かな声がした。
「よくやったな。」
振り返ると、ライネルが立っていた。
「司祭様!? 休暇中じゃ……」
「見守るのは、業務に含まれない。」
「ずるいです!」
「必要な抜け道だ。」
♢
夕暮れ。
食堂に戻った三人は、まだ興奮気味だった。
「司祭様、あの子、すぐにお母さん見つけました!」
「“何もしない日”なのに、結局働いちまったな。」
「違う。」
ライネルがスープをかき混ぜながら言う。
「お前たちは、“助けた”。
それは“働く”とは別のことだ。
助け合いは、生きることそのものだ。」
リナが目を瞬かせる。
「じゃあ、司祭様は今日、何してたんですか?」
「俺か? ……寝てた。」
「ほんとに!?」
「嘘ではない。」
カイがニヤリと笑う。
「寝ながら見張ってたんだろ、あんた。」
「かもしれん。神は見ているというしな。」
「司祭様が神様になっちゃいましたね!」リナが笑う。
「いや、神は褒めない。それに俺は少し働いた。まだ凡人だ。」
エイラがパンを齧りながらぽつりと呟く。
「司祭様って、働いてても寝てても、なんか安心します。」
「それは気のせいだ。」
「ううん。司祭様が寝てると、世界がちゃんと回ってる気がするんです。」
「……ほう。面白い理屈だな。」
ライネルは少しだけ笑った。
「その感覚を、大事にしろ。安心は、信仰より強い。」
♢
夜。
外では風が穏やかに吹き、孤児院の灯が点々と瞬いていた。
礼拝堂の中で、ライネルは祭壇の前に座っていた。
小さな明かりを手の中に包みながら、ゆっくりと目を閉じる。
背後から足音。
エイラが毛布を抱えて近づいた。
「司祭様、またお仕事してる……」
「してない。ただ、灯を見ている。」
「でも司祭様、また祭壇の前に居ます。」
「そうだ。」
「じゃあ、やっぱり働いてます!」
ライネルは少し苦笑し、炎を見つめた。
「人の成長を見るのは、どうしてもやめられん。」
「リナたち、すごかったですよ。私よりずっと早く動いて……」
「お前も動いたろう。助ける声を出した。それで十分だ。」
「えへへ……」
炎がふっと揺れ、二人の影が壁に伸びた。
ライネルはその影を見つめながら、静かに呟く。
「――奇跡ってのは、誰かが休んでる間に起こるんだ。」
「え?」
「動いている者がいるから、休める者がいる。
そして休める者がいるから、次に動ける者がいる。
それが、世界の回り方だ。」
エイラは目を細めた。
「じゃあ司祭様、今日は奇跡が起きたんですね。」
「そうだな。……俺が昼寝できたのは、その証拠だ。」
「うふふっ!」
♢
深夜。
孤児院は静まり返っていた。
ライネルは窓辺に立ち、外の星を見上げる。
雪のように細かい光が、空いっぱいに散っていた。
机の上には一枚の紙――“勤務記録”。
そこには、子どもたちの落書きが添えられていた。
〈日曜:全員ちゃんと休んだ〉
〈司祭様もお昼寝しました(偉い)〉
〈エイラ:ちょっと働きました、ごめんなさい〉
ライネルは笑って、ペンを取り、最後に一行加えた。
――〈備考:神からの神託もなく、世界は平和だった〉
羽ペンを置き、灯を消す。
窓の外には、穏やかな夜風。
遠くで雪が軒を撫で、どこかの犬が小さく鳴いた。
その音を聞きながら、彼は椅子に身を預ける。
「……休むことは、生きることの一部だ。」
静かに目を閉じた。
外の光がやさしく差し込み、机の上の紙を照らす。
そこに描かれた笑顔の落書きたちが、まるで息をしているように見えた。
――祈らぬ神父は、今日も“休むことの意味”を教えていた。
そして世界は、何事もなく回っていた。
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