第5話 清潔の儀と、監査報告
朝、鐘の音がまだ鳴りきらぬうちに、ライネルはくしゃみをした。
「……っくしゅ。」
静まり返った礼拝堂に響き、残響が自分で恥ずかしいほどだ。
「司祭様、風邪ですか?」
声の主はリナ・レオナード。赤毛を三つ編みにまとめ、ほうきを手にしている。
その隣で、兄のカイが半分あくびをしながら外を見ていた。
「そりゃそうだろ。あんだけ夜更かししてりゃな。昨日も報告書とにらめっこだろ?」
「……書類という名の試練を執り行ってだな…」
「は?」
「…つまり、残業だ。」
カイがため息をつく。
「司祭、お前なぁ。あの“労働の神”の教えはどこ行ったんだよ。」
「神もたまには休暇届を出し忘れる。」
リナが「ぷっ」と吹き出す。
「じゃあ、神様もお風邪ひいちゃいますね!」
ライネルは小さく鼻をかみ、無表情で言った。
「……ひくな。衛生管理がなっていない。」
♢
昼前、リナが食堂から悲鳴を上げた。
「きゃー! スープに虫がたかってるーっ!」
「なに!?」カイが飛び込む。
鍋の中では、昨日の残りスープの中で虫がうごめき奇妙に発酵した独特な匂いを放っていた。
「これ、どう見ても神の奇跡じゃねぇよな……」
「……自然の摂理だ。」ライネルが覗き込む。
「匂いがする。つまり、管理不足。」
「管理って……食べ物にまで!?」リナが泣きそうな顔になる。
「当然だ。信仰は清潔から始まる。」
その日の午後、孤児院は突然“衛生講習会場”と化した。
廊下の隅に設置された桶、吊るされた手ぬぐい、そして新調された石鹸。
ライネルは腰に聖印を下げ、真顔で号令をかける。
「――これより、第一回“清潔の儀”を執り行う。」
「……なんか怖いな。」カイがぼそり。
「祈りの代わりに、手を洗う。泡こそ神聖の証だ。」
「司祭様、その泡……飲めますか?」
エイラが小首を傾げて聞く。
ライネルは少し考えてから答えた。
「……飲むな。神の加護より先に腹を壊す。」
リナが笑いながら石鹸を泡立てる。
「でもきれいな泡ですね!まるで……天使の羽みたい!」
「いい例えだ。」
「司祭様も、少し笑ってくださいよ!」
「……泡が目に入る。」
その真顔に、また子どもたちが吹き出した。
孤児院に笑い声が戻るたび、埃が薄れていくようだった。
♢
「次は手洗い唱和だ。」
「なんだそれ。」カイが眉をひそめる。
ライネルは黒板に文字を書く。
〈唱和:食前に唱えること〉
――“手を清め、心を鎮め、泡の加護に感謝せよ”
「……祈りじゃねぇか。」
「形式だけはな。だがこれは、“感染予防”という名の信仰行為だ。」
リナは感動したように手を合わせる。
「神様は手のひらにもいらっしゃるんですね!」
「いない。菌がいる。」
「えぇっ!?」
「だから洗え。」
カイが苦笑しながら桶に手を突っ込む。
「司祭、手洗いを“儀式”扱いしたら誰もサボれねぇな。」
「それが狙いだ。」
「相変わらずやることが抜け目ねぇな……」
リナが真面目に唱和を復唱し、エイラが真似して泡を飛ばす。
廊下中が白い泡で満たされ、まるで春の雪のようだった。
♢
その晩、ライネルは机に突っ伏していた。
カイがドアを開けると、机に突っ伏した司祭が寝息を立てている。
「おい……寝落ちしてるじゃねぇか。」
近づくと、鼻が少し赤い。
「リナ、司祭が変だ。お前、湯でも持ってこい。」
「えっ!?司祭様が!?」
エイラも慌てて駆け寄る。
「さっき、“働きすぎるのは罪”って言ってたのに!」
「神父が一番に自分の戒律破るとはな。」
リナが布を取りに走る間、カイは小さく呟いた。
「……あんた、ほんと不器用だな。」
♢
目を覚ますと、部屋が静かだった。
カーテンの隙間から灯が漏れ、机の上には湯気の立つカップ。
「……?」
湯気の向こう、子どもたちの落書きノートが開かれていた。
〈司祭様のための体調管理表〉
・食事三回(忘れずに)
・手洗い一日五回(みんなの見本になれ)
・夜更かし禁止(例外なしです)
・風邪をひいたら報告書提出
「……どこの監査だ。」
しかし、ライネルの口元はわずかに緩んでいた。
書き文字の癖――リナのものだ。
カイの乱雑な文字も混ざっている。
エイラの絵付きの「泡の神様」まで添えられていた。
「子どもたちめ……」
ふと、外で笑い声がした。
覗くと、井戸のそばで三人がせっせと洗濯をしている。
「司祭様が風邪治ったら、一番に怒られそう!」
「“働く過ぎは罪だ。休め。”って、また言われるな。」
「じゃあ今日はお祈り代わりに“お昼寝の儀”しますかっ」
「それいいな、リナ。俺も信仰深くなってきた気がする。」
ライネルは小さく笑って窓を閉めた。
「……まったく。教義の解釈が自由すぎる。」
♢
午後、礼拝堂の掃除が始まる。
エイラがほうきを持ち、カイが梯子に登り、リナが指示を出す。
「埃は信仰の敵! って司祭様が言ってました!」
「敵多いな、信仰ってやつは……」
「だから戦うんです!」
「はいはい、掃除戦争な。」
そんな掛け合いの最中、エイラがくしゃみをした。
「へっくし!」
「おい、今度はお前が風邪かよ。」
「だ、だいじょうぶですぅ……」
その瞬間、礼拝堂の扉が開く。
「全員、きれいな布で鼻と口を覆え。」
どこかの監査管のような声。
振り返ると、ライネルが立っていた。
すっかり復活した司祭は、腕を組み、微笑んでいる。
「司祭様っ、もう元気に!?」リナが喜ぶ。
「奇跡だな。」
「奇跡じゃない。睡眠と食事の効果だ。」
ライネルは三人の手を順に見て、うなずいた。
「よし。清潔だ。神も誇りに思うだろう。」
「ほんとに思ってんのかよ……」カイがぼやく。
「思ってなくても、思わせるのが人間の仕事だ。」
「そういうとこだよ、司祭。怖いくらい現実的。」
♢
夕方。
食堂には温かいスープの香りが漂っていた。
鍋の中身は今度こそ無事だ。
リナが自慢げに言う。
「今日はちゃんと“清潔の儀”してから作りました!」
「泡の天使を信じたか。」
「はいっ!」
「信仰の基本だ。」
「……司祭様、それほんとに信仰なんですか?」
「信仰とは習慣の別名だ。」
子どもたちが笑う。
食卓を囲むその輪の中に、確かな温かさがあった。
神も、制度も、書類も――その笑顔には敵わない。
♢
夜。
ライネルは灯の下で、報告書に一行を書き込んでいた。
『衛生状態、著しく改善。祈りの前に手洗いを導入。』
書き終えたところで、またくしゃみが出た。
「……ふむ。残存リスクあり。」
その時、扉がノックされた。
「司祭様ー!」リナの声。
「寝る前の手洗い、忘れてませんかー!」
「忘れていない。」
「ほんとですかー?」
「祈る前に手を洗うのが俺の習慣だ。」
扉の向こうで笑い声が弾けた。
彼は苦笑しながら立ち上がり、水瓶のところへ歩く。
指先に冷たい水が触れる。
その冷たさに、何かが静かに整っていく。
「……清める、か。」
呟きながら、彼は掌を見つめた。
細かな傷跡。吹雪の時に裂けた皮膚。
それでも――この手で、何人もの子を守った。
その掌を胸に当てる。
「神が沈黙しても、人は動く。
動く者がいる限り、この場所は生きている。」
炎が小さく揺れた。
部屋では、リナたちの寝息が風に混じる。
祈りの声はない。ただ、穏やかな夜がある。
ライネルは灯を消す前に、ふと微笑んだ。
机の端に置かれた「衛生管理表」が目に入る。
そこには子どもたちの落書きが追加されていた。
〈司祭は清潔だ〉
〈たまに働きすぎですよ〉
〈でも…優しいです〉
「……監査報告、満点だな。」
灯を落とし、椅子を引く音が静かに響いた。
窓の外には、恍惚と光る月。
その光は、清らかな手のひらを照らしていた。
――祈らぬ神父は、今日も“泡のように誰かの心”を優しく包んでいた。
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