第4話 労働の聖典と、動く法典
朝の光が、割れた窓から薄く差し込んでいた。
雪解けの匂いに混じって、鉄と木の匂いが漂う。
吹雪で破損した壁の補修もようやく終わり、孤児院には再び息づくような音が戻りつつあった。
――木槌の音、笑い声、そして誰かの小さな歌声。
井戸のそばでは、獣人の少年が汗をぬぐっていた。
カイ・レオナード。綺麗な赤毛が朝日に光る。
その隣で双子の妹リナが、洗濯桶の中のシャツを叩いている。
「なぁリナ、これいつまで続くんだよ。俺たち一週間ずっと働きっぱなしだぞ」
「仕方ないでしょ。司祭様が“働く者は神様が見てくれてる”っていってたもの」
「見すぎて、もう神様飽きちまってそうだ」
リナが笑いながら水をはねかけ、カイは尻尾をはためかせて逃げた。
そのやり取りを見ながら、ライネル・グレイスは孤児院併設の教会玄関前で立ち止まる。
黒衣の袖をまくり、紙の束を手にしていた。
「……ふむ。“週次奉仕報告書”……“奉仕日誌”……“聖務活動記録”……」 眉間に皺を寄せる。
神よりも厄介な敵――“書類”である。
「司祭様っ!」
元気な声が飛んだ。リナが駆け寄り、手を振る。
「本部からお手紙が届いてましたよ!“聖務状況の確認”だそうです!」
ライネルは微妙な顔をした。
「……聖務状況ねー。彼らにとっては、信仰も労務管理の対象、か」
「難しいお話ですねぇ」
「要するに、“働きすぎて死んでないか”という確認だ」
「司祭様が“死にそう”って書かれたら、どうなるんですか?」
「報告者が減る」
リナがきょとんとし、カイが吹き出した。
「司祭、あんた真顔でボケるなよ……」
ライネルは報告書を机に置き、羽ペンを走らせる。
「さて。聖務時間……朝五時から……夜十一時……。勤務日数、七日連続」
――ペン先が止まり、静かに呟く。
「――聖務基準法に違反しているな…」
「せ……何です?それ?」
「聖務基準法だ。働く者を守る、神より現実的な掟だ」
「え、それって神聖統教会規定と違うものですか?」
「いや、もっと怖い」
カイが笑い転げる。
「ははっ、司祭、あんたほんとに聖職者か?!」
ライネルは淡々と続けた。
「働きは尊い。だが、“働き続ける”のは罪だ。
――信仰も体も、休まねば壊れる。」
リナが少し首をかしげる。
「でも、サボるのは悪いことじゃないですか?」
「違う。サボるとは“逃げる”こと。休むとは次を“準備する”ことだ。」
その言葉に、リナは少し目を丸くして頷いた。
カイは不器用に鼻を鳴らし、「ふーん……」と呟くだけだった。
♢
昼前。
ライネルは「聖務改善会議」と称して、子どもたちを食堂に集めた。
大きな黒板の前に立ち、チョークを構える。
壁には紙切れが貼られていた。大きく書かれた文字――『奉仕の聖典(暫定)』。
「これから、この孤児院は“健全な教会”を目指す」
「教会……?いまでも教会ですよ?」
「労働に神性はある。だが、残業には悪魔が棲む。このままでは教会にも悪魔が棲みかねない。」
子どもたちがざわつく。
ライネルはチョークで図を描いた。
「一日八時間労働。休憩一時間。週二日休み。
――これが人としての基準だ。」
カイ:「なあ司祭、それって神様の掟か?」
ライネル:「いや、文明の掟だ。」
リナ:「でも司祭様、神様は七日で世界を作ったんですよね?」
ライネル:「ああ。そして八日目に休んだ。だから偉い。」
カイ:「おい、それ真顔で言うなよ……!」
笑いが広がった。
その笑いの中に、確かに小さな安堵があった。
ライネルの言葉には、規律と優しさが同居している。
――まるで、彼自身が“動く法典”のようだった。
♢
午後。
ライネルは倉庫で修繕道具を整理していた。
カイが黙って釘箱を運び、リナは新しい作業表を作る。
エイラは小さな手で道具を磨いている。
「司祭様!」リナが顔を上げる。
「この“聖務表”に名前を書いておきました!」
見ると、紙には整った文字で
『リナ:掃除』『カイ:修繕』『エイラ:小物磨き』――
そして一番下に『ライネル:なんでも』と書かれている。
「……公平だな」
「えへへ、司祭様が一番なんでもできるので!」
「それは不公平だ。」
カイが笑いながら釘を打つ。
「司祭、今の言葉、あんた自身に突き刺さってるぞ。」
ライネルは微かに肩をすくめる。
「俺の分は残業で補うとするか…」
「残業ってなんだ?」
「幻の類いだ。見えぬが存在する物。人が働くたび、空気中に溶けて消える物。」
「つまり、ないんだな」
「正解だ。」
子どもたちの笑い声が響いた。
その瞬間、孤児院の空気が少し柔らかくなった。
笑いながら働ける――それだけで、世界は変わって見えた。
♢
夕暮れ。
廊下には日の名残が差し込み、窓の影が長く伸びていた。
今日の作業はすべて終わり。
ライネルは皆を前にして宣言した。
「――明日、日曜は休業日とする。」
「きゅ、休業!?」リナが驚く。
「教会なのに!?」
「教会だからだ。信仰は働く中にある。だからこそ、止まる時が必要だ。」
カイが腕を組み、半笑いで言う。
「じゃあ明日は何すりゃいい?」
「寝ろ。」
「……それだけ?」
「寝ることは祈りだ。横になりながら、神の囁きに耳を傾けろ。」
リナが目を輝かせる。
「司祭様、じゃあ“寝る前の祈り”は“寝るだけ”でいいんですか!?」
「理想的だな。」
再び笑いが起きた。
笑いの中、ライネルは静かに窓を見上げる。
外では、雪が光に溶けながら舞っていた。
♢
夜。
孤児院の灯が落ち、子どもたちは毛布にくるまって眠りについた。
静けさの中、ライネルはただ一人、机に向かっていた。
未完成の報告書。未処理の寄付記録。
羽ペンの音だけが部屋に響く。
「……聖務時間の上限、超過。」
呟きながら、苦笑する。
「罪深いな、俺も。」
そのとき、扉の隙間から小さな顔が覗いた。
エイラだった。
夜着のまま、毛布を引きずっている。
「司祭様……まだ起きてるんですか?」
「ああ。少しだけ今日の纏めの書きものを。」
「リナが言ってました。“働きすぎると悪魔に取り憑かれる”って。」
「その通りだな。」
「じゃあ司祭様、もう取り憑かれてるんですか?」
「……いや。取り憑かれてるのは、責任感だ。」
エイラはしばらく黙ってから、机の上の書類を見つめた。
「……司祭様の“お仕事”って、祈ることじゃないんですか?」
ライネルはペンを置いた。
炎の揺らめきが、彼の横顔を照らす。
「祈る暇があるなら、手を動かす。
――その後の結果の報告が、俺の祈り方だ。」
エイラの金色の瞳が、ゆっくりと瞬く。
「じゃあ、今は1日の纏めだから祈ってるんですね。」
「……そうかもしれんな。」
彼女は微笑み、毛布を抱えたまま小さく会釈して部屋を出た。
扉が閉まる音がして、再び静寂が戻る。
ライネルは深く息をつき、羽ペンを置いた。
窓の外には、星がいくつも瞬いている。
「……“奉仕の聖典”か。
神は休んだが、人はまだ働いている。」
小さく笑って椅子を立つ。
机の上には、報告書の最後の一行。
――〈本日の奉仕活動:子どもたちの笑顔を確認〉
彼は灯を消し、礼拝堂へと歩いた。
月明かりが石床を照らし、十字の影が彼の足元に落ちる。
祈りの言葉はない。ただ、静かな息と足音だけが続く。
扉の向こうで、誰かの寝息が聞こえた。
その音に、彼は微かに微笑む。
「……よく働いた日には、よく眠れ。」
小さく呟き、祭壇の灯を覆った。
闇が訪れ、沈黙が広がる。
だがその沈黙は、どこか温かかった。
――祈らぬ神父は、今夜も“働く者たち”の夢を守っていた。
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